2011年07月31日

雲と草原

 手塚宗求の「コロボックルヒュッテ」を初めとして「霧が峰」には、多くの詩人、文学者、芸術家、登山家たちを惹きつけたマグマが渦巻いていたのでしょうね。
 それは、山小屋の主にも、そういう言葉を編む者たち、山並みを憧れる者たちを惹きつける磁場をもっていないと、出会い、邂逅、交誼、交流の糸を紡ぐことなんてできなかったでしょうね。
 白昼夢のような人生が、ほんの一瞬、輝く喜びなんて、滅多に訪れるもんじゃありません。
 だからこそ、そのこころとこころが響きあう時、こころとこころの共鳴を求め、また求められる自分でなきゃならないと更に真剣に、遠く広く、更に高く深く、精進を重ね、そしてそのふるえるような共振が、せめて100年続きますように、と手をあわせ、祈るのではないでしょうか。
 「ひと」というものは。不思議な存在です。
 
 手塚宗求も生涯にたった一度しか尾崎喜八とは会っていないのです。
 が、お互いに認め合っていて、周りの人たちにも、ふたりの友情はとっくに知れ渡っていた周知のことだったんですって。これにもビックリしてしまいます。

 1963年のことです。
昭和38年5月22日の夜、私は谷川岳から下山したままの山支度で、山口耀久さんに連れられて上野毛の尾崎さん宅に伺った。
 岡部牧夫君も一緒だった。
 私は尾崎さんとは初対面だったが、もう何回もお会いしているような親近感を抱くことができた。
 尾崎さんに対しては、私はすでにその多くの著作に接して馴染みが深かったためだろう。
 それに何といっても全ての作品から受ける感銘と熱い共感の故に違いなかった。
 
 一方、尾崎さんにしても、串田孫一や山口さんなどから私の身辺についての情報をしばしば得られていて、山小屋のことなどを気軽に訊ねられた。
 更に「アルプ」にも私も時々文章を乗せていたので、尾崎さんの印象にとどまるものもあったためだろう。
 2時間近くも書斎にお邪魔したわけだが、私の山日記のその日の欄には、ドボルザークのチェロ協奏曲を聴かせていただいたことも書いてある。
 尾崎さんは私達を上野毛の駅まで送って下さった…

 尾崎さんの奥様と栄子さんが私の小屋に立ち寄られたのは1988(昭和63)年だった。
 その時私の書棚に並んでいた『尾崎喜八詩文集』の9巻と10巻が欠けているのに気づかれたのだ。
 帰って間もなくして、その2冊、「挽き木の実」と「冬の雅歌」が送られてきた

(手塚宗求「雲と草原」、『山をめぐる人と書物』所収)

 ぜひ読者諸氏、この良書を本屋さんで注文してお買い求めのうえ、その本を手に、コロボックル・ヒュッテに泊まりにいってみませんか。
 そして、山小屋の書棚から尾崎喜八の本を借り、それを手に、山並みを見ながら美味しいコーヒーをいただいてきてくださいな。その前に、コーヒーの芳しい匂いにもひたらなければ…

 手塚さんから直にいただいた名刺には、カタカナで「コロボックル・ヒュッテ」とありますが、公式サイトはひらがなになっていました。
 あ、そう、そう、あの犬はもういないそうです。ブログによりますと、黄色いニッコウキスゲの咲く側のお墓に眠っています。
 どうして犬の一生ってこんなに短いのかしら…
 ヤッホー君は山形のドンキー、あの上目遣いに、何度も見てくる真っ黒だった犬のことを想って涙していました。2011年7月最後の日の夕べでした。
http://homepage2.nifty.com/koro-1956/

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2011年07月30日

コロボックルヒュッテ

 7月30日土曜日の早朝、書棚を見渡し何気なく手に取ったのが、手塚宗求(1931年長野県松本市出身)『山をめぐる人と書物』(2000年、恒文社)。
 本の裏表紙には著者のサインとはんこが。そして名刺までなかに挟んでありました。へぇ〜。

 蓼科山・天狗の露地から見えた美ヶ原と霧が峰、ということは霧が峰からも、もちろん蓼科山が見えます。
 霧が峰・車山肩から仰げる白く丸い玉がのった建物が、気象庁の車山レーダー観測所です(車山の頂上、1925m)。その下の辺りに「車山湿原」がひろがり、車山の左後方に、三角形の山、諏訪富士とも呼ばれる蓼科山が見え、その手前に見えるこんもり茂る木立の中に、手塚宗求さんの経営する(といってもご自身は息子さんに代を譲っています)山小屋、「コロボックル・ヒュッテ(Tel 0266-58-0573)があるのです。
 
 山歩クラブもこの一帯、大好きな山域でした。コロボックル・ヒュッテを拠点によく歩きました。山歩きを終えて、小屋のテラスに陣取って、いまごろでしたら真っ黄色なキスゲの草原を眺めながら、草原を渡ってくる風に火照ったからだを晒しているのでした。

 こんな文章がいまは閉じたムカシの山歩クラブのウエブサイトからでてきました(今のサイトはいつも工事中で、更新されておらず申し訳ございません雷)。もう、5年も前のことになりますか…:

『2006年8月6日日曜日。
 ≪妙な言い方だが、山には、「登る山」と「遊ぶ山」がある。
 前者は、息を切らし汗を流し、ようやくその頂上に辿り着いて快哉を叫ぶという風であり、後者は歌でもうたいながら気ままに歩く。もちろん山だから登りはあるが、ただ一つの目標に固執しない。気持のいい場所があれば寝ころんで雲を眺め、わざと脇道へ入って迷ったりもする。当然それは豊かな地の起伏と広濶な展望を持った高原状の山であらねばならない。
 霧が峰はその代表的なものの一つである』
(深田久弥「日本百名山」)≫

 歩いた仲間の海山千里さんの感想です:
『いつもいつも楽しい山行をありがとうございます。今、お盆の夏休みを頂いております。台風の余波で、雨が降ったりと今ひとつはっきりしない天気ですね。そんな訳で外にも出かけず過ごしております。バスの中で、また、先日のメールで紹介していただいた田中澄江さんの<山はいのちをのばす>、確か5、6年前に買って読んだなと思い出し探しましたところ出てきました(文庫本ですが)。
 友人に誘われ時々ハイキングに行き始めたころ、山に関する書籍を何か読んでみようと思い、東向島駅前の小さな書店で買ったものでした。山歩きを愛する人のバイブル的本ということですので、もう一度読んでみようと思っております。
 さて、霧が峰。
 二十数年前のちょうど同じ時期に小学校と幼稚園に通う幼子を連れ家族で訪ねた懐かしい場所でした。我が家に戻ってから、夏休みの宿題の絵日記の一頁として三人の子供たちが書きました。あまりにもへたくそなので、私が色塗りを手伝いました。そんな子供たちも社会人となっております。長女はまだ家におりますが、長男は親元をはなれております。
 実は、次女(当時27才)をちょうど2年前の8月5日に交通事故で失いました。娘の写真を胸ポケットに入れ一緒に歩きました。いろいろな思いを巡らせながら、晴天の霧ヶ峰を歩かせていただきました。

 「絵日記に 子らが絵(ぇ)がいた 紅い花 お花畑の きっとどこかに」
 「齢かさね 再び訪ねた 霧ヶ峰 夏の思い出 また新たなり」
 「二十年前 五人で歩いた 霧ヶ峰 今日再び 君と二人で」
 
 五七五は文字を並べただけです。一笑に付し破棄してください。今後ともよろしくお願いいたします。失礼しました』

 6月の例会で歩いた「美ヶ原」。王が頭、王が鼻からは南、北、中央アルプスの山並みがのぞめたし、直近に歩いた「蓼科山」では、立科林間学校に参加した豊島区立目白小学校6年生の大ぜいの子どもたちに元気を分けてもらったし、次回また、もう何度目になるんだろう、何度訪れても満足する「霧が峰」、さあ、またプランニングしないといけないようで…

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2011年07月29日

富士見大学

 『富士見町の富士見高原病院が富士病棟2階に開設した「旧富士見高原療養所資料館」に、山岳エッセイストで登山家の山口耀久さん(82)=東京都調布市=から、50数年前に入院したときに詩人の尾崎喜八と出会った思い出をつづったエッセー「狐の森」の生原稿と、喜八の住む「分水荘」の写真などが寄贈された。資料館では、終戦後の昭和20年代、高原療養所に入院した青年たちが喜八と交流したことを示す資料として展示した。

 山口さんはエッセー「北八ツ彷徨」「八ケ岳挽歌」などの著者で、八ケ岳登山の先駆者。阿弥陀岳などのロッククライミングルートを開拓したロッククライマーとしても知られる。

 療養所には50年3月から翌年11月まで入院。1年8カ月の間に、他の患者有志らとともに分水荘を何度も訪ね、喜八と交流した。喜八は青年グループを「穂屋野会」と名付けていた。有志の中には、製薬会社研究員で後に新潟薬科大学長を務めた朝比奈菊雄さん、東大薬学部研究員で後に東京薬科大学長となる小林義郎さんらがいた。

 山口さんのエッセーによると、療養所の近くにある、冬は氷田となる沢を越すと、赤松の森があり、キツネが出るため、「狐の森」と呼んでいた。喜八の住む分水荘はもう一つ先の森の中にあり、富士見駅の近くを回る道があったが、山口さんは森を抜ける近道を往復した。

 狐の森は、現在の西友富士見店から栂沢団地付近を指すとみられる。

 寄贈された分水荘の写真は、山口さんの仕事場である東京都杉並区の家に保管されていた。分水荘の縁側で実子夫人から茶の接待を受ける山口さんを喜八自身がシャッターを押した。蔦木宿の本陣を移設した分水荘のほぼ全景が写っている。

 分水荘を訪ねた青年たちは、15畳ほどの居間で、喜八の話に耳を傾けた。詩論から文学、音楽、天文学、生物学など多彩な内容で、青年たちは「富士見大学」と呼んでいた。句会が定期的に開かれ、現在も東京都内で続けられている。

 資料館の館長で、エッセイストでもある荒川じんぺいさん(61)=同町信濃境=は、「喜八との交流を通して、入院患者たちが独自の文化を熟成させ、戦後日本の発展に貢献した。青年たちのその後の業績を踏まえながらさらに研究調査し、資料館を充実させていきたい」としている

(2008年1月21日6:00更新『長野日報』尾崎喜八の思い出「狐の森」生原稿や分水荘の写真 山口耀久さんが寄贈)
http://www.nagano-np.co.jp/modules/news/article.php?storyid=9580

 冨士見町は長野県諏訪郡にあって、入笠山に登るときの入り口にあります。尾崎喜八の常設展示コーナーは、富士見町の「高原のミュージアム」に収められています。諏訪郡富士見町富士見3597-1(コミュニティ・プラザ内、Tel 0266-62-7900)
http://www.alles.or.jp/~fujimi/kougen.html

 サナトリウムであった療養所は、現在「長野県厚生農業協同組合連合会富士見高原病院(諏訪郡富士見町落合11100番地)です。資料館は次のサイトから:
http://www.lcv.ne.jp/~kougen/institution/museum00.html
 
 山口耀久が分水荘を訪れると、尾崎喜八は「部屋のすみに置かれた小さなオルガンに」向かうのです。このオルガンは尾崎喜八の妻、実子が「少女時代に高村光太郎から贈られたものだそうで、ペダルを踏むとすこしキーキーいう」のですが、尾崎喜八はかまわずにきれいなテノールでフランス語で歌うのです(山口耀久「富士見高原の思い出」、平凡社ライブラリー『北八ツ彷徨』所収)。
 ヤッホー君が追ってきた尾崎喜八、高村光太郎、そして山口耀久が交叉する瞬間です。

 そんな戦後の青春がいっぱい詰まった分水荘は、先月2011年6月21日6:01更新の長野日報によりますと:
富士見町は20日、渡辺別荘跡地公園整備検討委員会(清水吉平委員長)を町役場で開き、町が今年1月、国から2億500万円で取得した平地林「旧渡辺別荘跡地」の整備計画素案をまとめた。外周に長さ約750mのジョギングロードを設け、内部は地形、植生を考慮し5つのゾーンに分けて整備する。7月2日に開く住民懇談会で意見を聞き、パブリックコメントを募集。8月中に整備計画を決定する。7月4日から8月10日まで、公園の名称を公募することも決めた。

 同跡地は、岡谷市出身の政治家で宮内大臣を務めた渡邊千秋が1907(明治40)年に建てた別荘「分水荘」があった山林。町内最初の別荘で敷地面積は5万895m2。戦後は詩人の尾崎喜八が住み、文学活動を行なったことから、歴史的、文化的にも価値のある場所だ

http://www.nagano-np.co.jp/modules/news/article.php?storyid=21783

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2011年07月28日

雉子橋

 ヤッホー君の本日のタウンウオークは、と言いますと、東京メトロ半蔵門線で大手町駅の出口C2bをでたところ。
 いまは経団連もJAも日経も入ったコンプレックス、複合ビルに生まれ変わっていて、ヤッホー君はびっくりしてあたりをきょろきょろ見回していました。
 ムカシ、ムカシ、大ムカシはそれぞれたしか、別々の建物で、すぐ近くには、東京入国管理局のビルもあったような…
 ここが実は7月4日月曜日、国際森林年記念シンポジウム「森と木を活かすグリーンエコノミーの創出に向けて」(美しい森林づくり全国推進会議、国土緑化推進機構、経団連自然保護協議会の共催)会場だったのでした。
 山歩クラブにも広く呼びかけたのですが、残念ながら平日の昼間、しかも月曜日とあって参加希望者ゼロでした。3.11東日本大震災を踏まえ、森づくり、木づかいや生物多様性への取り組おみと災害からの復興との関係についての特別講演も予定されていただけにザンネンでした!
 ヤッホー君が経団連を訪れたときって、ムカシもムカシ、大ムカシのこと。オーストラリア政府の公正取引委員会のアランアッシャーさんといっしょでしたね。とても良いミーティングでした。
 ふたつの国がきちんと、地球環境に配慮し、農林水産業も評価し、最終ユーザーである消費者の利益を第一義に考え、途上国をいじめない、倫理的な企業行動規範をモデルとして国際的に呈示できれば、ほんとうに北半球の日本と南半球のオーストラリアが地理的に南北で手をとりあえれば、横軸にインドや南米アメリカ大陸まで範疇に入れた理想的な生命圏(Biosphere)が、ヨーロッパ連合体にも良い影響を与える、なんて壮大な夢にむかっていたときでした。
 「でした」って遅くはないですよね、これからですよ、それが拝金・拝物主義、自己責任論の格差社会、ムラ社会、一国だけを思いやる外交へと沈澱、沈没、沈下しつつあるこの国を浮上させるスープル souple な「ばね」になるかもしれませんよね。
 こんなこと言うと当座、ケンもほろろ、山歩クラブはもとよりだれも相手にしてくれないのかもしれませんが…

 そう、そう、この「ケンもほろろ」のことを経団連会館から東京消防署で内堀通りにでて、丸紅、毎日新聞と過ぎて、共立女子学園へ向かうときの橋の説明板で知ったのでした。
 ここから先は、江戸川木材工業(株)の常務、清水太郎さんの「歴史探訪」に譲ります:

江戸時代に雉子橋御門があったので、警備が厳しく、川柳に「雉子橋でけんもほろろに叱られる」と詠まれています。
 橋名は将軍家が朝鮮使節をもてなすために、キジを囲っていた小屋がこの辺りにあったことに由来します

http://www.mokuzai-tonya.jp/05bunen/zuisou/2011/tanbou/07.html

 そう、そう、ヤッホー君は日本教育会館(千代田区一ツ橋2-6-2、道案内専用電話03-3230-2833)に用事があったのでした。

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2011年07月27日

旧友からの暑中見舞い

 ムカシ、ムカシ、大ムカシ、大鹿村にいっしょに行った旧友おふたりから、お返事が来ました!
 
 藤岡佐知さんより:
暑中お見舞い申しあげます。
 地震のあとどうしていらっしゃるか気がかりでした。お便りありがとうございました。
 サイモンピゴットさんでしたか!ご近所の『ろうへいさん』も来られて、お話しされていましたねー
(ヤッホー君には記憶がまったくありません!)
 桃源郷とはこういうところかと思いました。
 どうかこの夏、お体をいたわってお過ごしくださいね


 そして井上富美ちゃんより:
ご無沙汰しています。お元気ですか?
 当方、ジム通いの代わりに週4日だけ配達の仕事をしていますが、ともかく暑いですね。
 ところで案内いただいた大鹿村、さっそく映画館に行ってきました。懐かしかったです!!


 茨城県筑西市で小児科のクリニックを開業されていましたが、もうそろそろたたもうかなとお考えのお医者さま、Yさんのハンドルネームでヤッホー君のコメントも取り上げてくださってくれるお医者さまの、こころが熱くなる2011年7月24日付け「ありがたい友情」からの文章です:

今回のメールのやり取りから、また音合わせをお願いしたら、快諾を得ることができた。
 秋にもチェロを車に積んで、信州にでかけることに決めた。
 昔積み残したブラームスのソナタ1番か、エレジーか… 昔と全然変わり映えしない私の腕で、伴奏をお願いするのが大いに恐縮なのだが、また優しく寄り添うように伴奏をしてくださるのだろう。
 室内楽は、楽器による対話… 信州の秋の風のなかを車で走ることと併せて、大いに楽しみだ。
 大学以来、人生の終盤にさしかかりつつある今まで、Uさんが変わりなく誠実にお付き合いくださることは文字通りありがたいこと、この交誼を大切にしてゆきたいと念願している


 人と人との交わりなんて短いもんです。あっという間…
 そんな白昼夢のような一生のなかのほんの瞬きひとつほどの出会いでも、きらきら輝いていて、おそらくその人の短い人生の間、長い間、記憶の底できらめく宝石か真珠のように残っているものってあるんですね。フランス語では reposer dans la vie という表現を使いたいですよね。
 
 ヤッホー君の大鹿村だって、20年、30年もムカシのことなのに、おふたりとも大事に覚えていてくれて、懐かしがってくれていました!
 とってもうれしくなりました。これが人と人のこころの響きあい、共鳴というものでしょうか…
 
 人間、生きていて良かった、とこんな些細なことでじわっと感激する瞬間です。

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2011年07月26日

北八ツ彷徨

 小学校6年生といっしょになった蓼科山への山歩クラブ番外編山行、実は「親子登山」という企画もヤマケイでは行なっているようです。
 親の姿を子に見せ、子にリレーのように親の趣味が引き継がれ、受け渡されていくことも大事なことです。
 この夏休み、ぜひ親子で山歩きを楽しまれてください。
http://sangakuisan.yamakei.co.jp/news/oyako_2011.html

 ところで、蓼科山でもう一枚、ヤッホー君が突然立ち止まって、写真を撮ったところがあります。
 なんでしょう。アタマのなかに山口耀久(やまぐち・あきひさ)の『北八ツ彷徨』が響いていたのです:

苔の匂い.jpg

北八ツといえば、だれでもすぐに思い出すのは、あの苔の匂いであろう。
 朽ちた倒木や、古い岩石や、湿っぽい土のそれとまじった、なつかしい森の匂いである。
 木漏れ日がちらちらする程度の暗い森林の中の腐葉土がこの繊細な植物の生育地帯だが、ごつごつした岩地の斜面まで、絨毯のように厚い苔でびっしり覆われている場所がある。
 樹木の根元の洞といわず、岩と岩とのすき間といわず、あらゆるものを覆いつくしてどこまでもうねりひろがるこの緑の敷物の壮観は、ほとんど圧倒的とさえいえるような自然の生命力の執拗さを物語っている

…山口耀久『北八ツ彷徨(2008年、平凡社ライブリー)』

 ね、ヤッホー君はこんな北八ツを歩きたいんだけど、まだほとんど歩いていないんだ、行こうね、渋の湯から天狗岳(西天狗2646m)、にゅう2352mをたどって稲子湯へという北八ツの「フルコース」とやらも味わってみたいもんだ、と同行者に呟いていました。黒百合ヒュッテにもしらびそ小屋にも泊まってさ。もちろん渋の湯、稲子湯の湯宿にも、だから4泊5日の「北八ツ、フルコース」!

 ところで山口耀久は1926年東京生まれですが、獨標登高会を1944年に創立します(18歳!)。ですので、この『北八ツ彷徨』の初出は、1959年獨標登高会会誌『年報獨標』第1号ですので、つまり半世紀、52年も前の文章で、33歳のときに書かれた文章です。
 でもなんとみずみずしいのか、人の感性とかその感情の表出は、きっと年齢とか時を越えて通じ合う、響きあうものがあるのでしょうかね。フ・シ・ギ…

 しかし獨標登高会は…
生活スタイルの変化とともに趣味の多様化が起こり、また登山講習会の普及による組織化されない登山者が増加しました。
 その結果、当会を始めとする多くの社会人山岳会では会員数が減少し、会の総力が低下し、岳界をリードする役割を担えない状態となってきました

 
 ドキッ、たしかに今、山を歩いていても集団登山の方々は、山岳会というよりは、旅行会社主催のツアー登山が主流となっています。山を歩くグループも、社会の合わせ鏡なのかも知れません、きっと。
 う〜ん、人間関係とか縁とか仲間意識とか、コミュニティづくりが面倒くさい、つながりったって煩わしいだけ、とかなって、お金さえだせば一人でなく、他の人たちとくっついて山を歩ける…とかね。
 そしてだから3.11以後、急に心をひとつに、とか、ひとつになろう、とか、つなげる支え、つながる希望とか、絆が「スローガン」となりましたもんね。つまり絆が、あるいは組織文化がそれほどまでに希薄化していた、その裏返しだったのだ、と言えなくもありません。
 そんななかで、その歴史ある社会人山岳会、獨標登高会の公式サイトも更新されていないのがとても心配なんです;
http://www.hi-ho.ne.jp/dtk0777/reki/r-1.html

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2011年07月25日

目白小学校

  昨日は楽しい山行の一日でした。
 山行中、いろんな人と出会い、めぐり合い、お話しを交わしてきました。
 百名山をもうとっくに歩き終わったけど、ご夫婦で京都ナンバーのクルマで蓼科山に歩きにこられた定年退職した元公務員、高齢のお母さんの手をとりながらいっしょに連れ立って山を歩いておられる感心な娘さん、と思うと、ご来光を観に頂上下の小屋にお泊りで登ってきた、小さな女の子といっしょの若いお母さん、うわっ、山ガール、そして子どもを背負いかごに入れて頑張って登っていくお父さんと、リュックを背負ってがんばって歩くお母さんのご家族…。
 今日も山路には、こんにちは、こんにちは、の声がこだましています。

 そのなかでも特筆すべきは100名! の子どもたちが…。元気に歩いています。
 われわれは将軍平の小屋で一本入れている子どもたちを追い抜いて、壁のような岩肌に先に取り付きました。
 頂上の蓼科神社奥宮あたりでお昼をとっていたときに、子どもたちが全員登頂です。
 頂上で皆んなでいっしょに声を合わせ、リズミカルに手拍子をとり、エール交換をしていました。
 その声はきっと北八つの深い、みどり濃い森のなかまで、浸透していったことでしょう。
 われわれの昼食会場にも、数組の子どもたちがお弁当をひろげにやってきます。先生もその輪に加わっています。
 ヤッホー君ほかわれわれは、皆んなの健闘を讃え、皆んなの頑張りに拍手をし、先生の労をねぎらいました!

 この子どもたちは豊島区の目白小学校の6年生97名だったのです。そういば大型バス3台が停まっていました。夏休み最初の休日を2泊3日で、立科林間学校に参加していた子どもたちでした!

『緑の葉の濃い6月から、青空をバックに入道雲のわく7月へと自然の美しさは変わり、夏の光と暑さ
が目白小学校にも近づいてきました。
 既に、夏の主役の子どもたちの心は、楽しいプランを描いているようです。
 中でも立科林間学校への期待は大きいようです。その期待にこたえられるよう、私たちも一緒になって計画/準備をしていきたいと思っています。
 いよいよ一学期もまとめの月にと入ります。最高学年としてのさまざまな活躍はもとより、子どもた
ちは心も体も目に見えて成長しています。
 7月は登校日も14日と少ないのですが、学んだことを確実に身に付けるために、しっかりとまとめをしていきたいと思っています。
 小学校生活最後のこの夏休みは、規則正しく、自主自律の力を確立させる貴重な期間となります。
 健康な生活を心がけ、普段体験できないようなことに取り組むなどして、充実したお休みになるといいと思います。
 学校でも、立科林間学校や夏季水泳指導など、「継続すること」や「挑戦すること」を大事に指導し、心づくりにつながる熱い夏にしていきたいと思います

『夏休みに入るとすぐに、待ちに待った立科林間学校がやってきます。
 小学校生活の中でも最も思い出深い行事となる林間学校です。立科の自然の中で3日間をともに過ごし、体験を通して、規律と協同の心を育てることを目的としております』

(平成23年6月29日水曜日発行、6年学年だより Anchor NO.4、立科林間学校は7月23日(土)24日(日)25日(月)より)
http://www.toshima.ne.jp/~mejiro_e/otayori/6nen.pdf

 『目白小学校の校歌は 、 1955(昭和30)年1月1日(土)に制定されました。
 1番から3番まで「明るく、楽しく、美しく」と歌っています。「美しく」は「うるわしく」と読み、単なる外見の美しさを超えて、立ち居振る舞いや言動に表れる内面的な美しさを意味しています。
 この歌詞は、目白小学校のキーワードになっています。
 また、3番の「平和の世」は「やすらいのよ」と読み、一人ひとりの希望と努力、互いの扶け合いの精神が「平和の世」を実現するのであると、教えています。
 健やかに麗らかに、伸びやかに育ってほしいとの願いが込められています

http://www.toshima.ne.jp/~mejiro_e/

 山や自然や森が大好きな、健やかな大人に育ってほしい、と心から願い、蓼科神社奥宮にもう一度、帰り際に頭を下げてお祈りして、頂上を去ったわれわれ山歩クラブの面々でした。
 帰路、またまた笑い転げながらの番外編山行でしたが、今日も安全運転で無事、帰京できました。

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2011年07月24日

蓼科山

 仲間の皆さま、週末をいかがお過ごしでしたでしょうか?
 江東区報「みんなの広場」に山歩クラブの募集案内が7月21日号で載りました!
 岩波さんが今、しっかり対応してくださっております。ありがとうございます&お疲れ様でございます。
 さてカッシーの休みにあわせて開催している番外編、今回は台風6号の影響で冨士に次ぐわが国の高峰、北岳3192mへの2泊3日の山旅はあきらめましたが、日本百名山、蓼科山2530m、別名諏訪冨士を今日7月24日日曜日、朝5時には下町を出るプランで川上さんも交えて歩いてきました。

蓼科山から女神湖.jpg

 この写真は「天狗の露地」から、美ヶ原、霧が峰、女神湖を遠望するヤッホー君の大好きな場所からの写真です。天然のクーラーのなかで、ほっと一息も二息もつけるところなのです。

 今年度の番外編のはじまりは、4月30日土曜日は倉岳山990mでしたが、5月からはなんと、なんと百名山を歩いていることに気づきました。
 だって5月19日木曜日は天城山1407m、6月29日水曜日は安達太良山1700m、そして今回7月24日日曜日は蓼科山2530m、と日帰りで毎月コンスタントに百名山を歩いております。
 この分でいくと百名山登破もそう遠くはないようですね、ね、カッシー。
 毎月1山として年12山、うん9年もあれば終わる、と暗算してヤッホー君は腕組みをしていたらしいのですが…。
 
 この番外編にもお問合せくださいね。ところで次回、山歩クラブの集いは、下記の通りです:
☆ @ 8月木曽駒合宿山行結団式の開催を新宿で7月30日土曜日夕方企画しております。
☆ また、連絡の通りA8月7日日曜日に冨士山宝永火口を巡る日帰りバスは行く、です。

 参加、お申し込みをお待ちしております。ではお元気で!

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2011年07月23日

黒森通信

 昨日の日記で『秋田のグループのHPをみると、被災地ボランティアに行ったとのこと。エライ!』とあった記述に、ヤッホー君も『ね、皆んな「エライ」ですよね』と返したその訳を補足しておかないといけませんね。
 実は、11日月曜日に、尊敬している山の大先達 Tamu さんのサイトの掲示板に、写真とともに、次のような雑文を投稿していたのです:
『昨日7月10日(日)、栃木県日光市霧降高原から赤薙山へと歩き出しましたが、梅雨明け直後のゲリラ豪雨と出会い、キスゲ平から小丸山へもたどり着けず、雨具を装着しての名誉ある撤退、となりました。
 しかし下山途中、山歩クラブの面々は「キスゲ臨時観覧場所」で一面真っ黄色なニッコウキスゲの群生地の風景に満足していました。
 鹿の食害にもめげず丹念に地元の方々が植栽してくださっていたからでした。
 雨嵐で写真が限られており、今回アップする霧降高原の写真は、臨時観覧場所からの写真だけとし、タムさん、6月29日(水)に歩いた珍しい(それほどでもないですか…)、福島県二本松市安達太良山のハクサンシャクナゲとナナカマドの白い花を添付します。
 地元のお年寄りはマスクをして山行しておられ、立ち寄り湯の岳温泉では浪江町から避難なさっておられる方々と交流してきました(涙…)。
 でも田部井淳子さんでなくっても、福島の山に山好きな皆さん、歩きに行きましょうね!
 山はいいです!!』

 
 そうしましたら、Tamu さんから木霊が返ってきていたのです:
『(Tamuです)“梅雨明け直後のゲリラ豪雨”…凄まじいものですね。びっくりです。これがあるから山は怖くて楽しい(?)んですよね。
 福島方面への山行をされている山歩クラブさんに大喝采です。田部井さんもえらいけど山歩クラブさんもとてもえらいと思います。
 私も見習わなくては…とは思うのですが…、2日間以上のゆったりとした日程で山旅を楽しみたい私にとっては、その“時間”をつくるのがなかなか難しいです。
 ジレンマです

 山歩クラブとリンクもはってくださっているTamu さんのサイトは、次です:
http://www1.u-netsurf.ne.jp/~tamu/

 そこでお話しは2010年9月、苗場山からの秋山郷への帰りみち、車道歩きをしていたわれわれのところに、件の秋田の山の会ご一行様を乗せたバスが停まって、「良かったら乗れやア」ってとてもご親切に声かけをしてくれたのでした。
 この秋田の山の会のご紹介:
六郷登山協会(秋田県美郷町)…創立は1973年です。地元六郷の黒森山763mがホームグランドです。20代から70代まで幅広い年齢層の方がおります。現在会員数72名。年間を通じて月1〜2回ハイキングや縦走、沢登り、岩登り、日帰りの黒森山や県内の山・近県の山のほか、年間2〜3回北アルプス等にでかけます。また、海外登山の経験もあります
(秋田県山岳連盟、加盟団体紹介)
http://akitagakuren.com/index.html

 なんという歴史と伝統のある山の会と交流してきたのでしょう(38歳)。山歩クラブは2002年晩秋の設立ですからなんとまあ、若いのでしょう(9歳)!
 この協会のサイトは、ふたつあります:
☆ ひとつは「せきだ学校前」http://angel.ap.teacup.com/sekidagakomae/
☆ もうひとつが「黒森通信」http://red.ap.teacup.com/ben1229/

 山歩クラブもエライ!だったんですよ、でも皆んなエライ!
 山歩クラブは明日の日曜日、休みがとれたよ、という仲間と番外編を組んで、諏訪冨士、蓼科山(日本百名山、2530m)を日帰りで歩いてくることになっています。本当は、本当に本当は北岳(冨士山に次ぐ高さ、3192m)を今日から2泊3日で、と本当に思っていたのでしたが、台風6号の影響で断念したのです。

 過日ご紹介した加賀乙彦も山や自然や森が好きでした!
人間がひとくくりにしてブナやナラなどと名づけた木々の一本いっぽんが、千差万別の命として存在し、風で枝や葉が擦れ合って音楽を奏でる。目を凝らすと、あちらこちらに多種多彩な虫がいて、小鳥たちがさえずり、花が咲いている。
 見上げれば、梢の隙間から空が見え、雲が流れていく。
 それらが一体となって、複雑でありながら統一された美をつくりあげています。
 森の美に浸りながら散歩していると、自分もまた自然の一部なのだということをしみじみと感じます。
 身も心もリラックスし、東京で暮らしているあいだにパサパサに干からびてしまった私という命の中心から、またエネルギーがこんこんと湧き出してくる

(『不幸な国の幸福論』集英社新書、2009年12月)

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2011年07月22日

チェルノブイリへのかけはし

 2010年9月4日土曜日―5日日曜日のことだったのですね。
 われわれ山歩クラブは、苗場山を歩きました。泊まったところは、苗場山自然体験交流センター(7000円、Tel 0257-67-2202、問い合わせ先:秋山郷観光協会)。
 この山は、深田百名山のひとつ。
 越後の国、塩沢の文人、鈴木牧之(ぼくし)は200年も前、1811(文化8)年に登り「絶頂に天然の苗田あり」と描写したことでも知られています。
 山頂に約4Km2に及ぶ台地状の湿原を持つ、ほかに類を見ない山で感動しっぱなしでした。
 われわれは、新潟県湯沢町の祓川から山頂に至り、長野県側の栄村、小赤沢に下るコースを辿る1泊2日の山旅をしました。
 いろんな収穫もありました。「ナラ枯れ」なんて風景に遭遇し、このブログ2010年9月7日付け日記でも紹介しましたが、衝撃的な風景に出くわしたのも、この苗場山への途上、というかベースキャンプのあのスキーで有名な湯沢でのことでした!
 
 山のテッペンに登って万歳三唱するよりも山に生きる動植物と会話を交わし、山に抱かれて暮らしている地元の人と接し、山の水や湯や空気に育まれた、郷土料理や郷土の先輩や地酒やいで湯を楽しむ山歩クラブ、ですので、寄り道、回り道、迷い道は当りまえ、そんな仲間から、昨日7月21日木曜日夜11時ころ、こんな嬉しい投稿がありましたのでご紹介: 

話は変わって、昨年の苗場山で出会った方たちのURLブックマークをもとに覗いてみたところ、山を下りて秋山郷の赤い温泉場まで歩いていたときに、親切に車に乗せてくれた若いカメラマンのHPに木曽駒のきれいな写真がありました。
http://kuwa-juku.blog.so-net.ne.jp/2010-09-25
 また、苗場山の頂上で交流した、秋田の喧しい(?)オジサン、オバサングループのHPをみると、被災地ボランティアに行ったとのこと。エライ!
http://red.ap.teacup.com/ben1229/180.html

 ね、皆んな「エライ」ですよね!!
 昨日の「チェルノブイリへのかけはし」の野呂実加さんもエライ!

 諸悪の根源は政治です。泣いているお母さんのビデオを見たらこっちも泣けてきた。いろんなことをいっぱいいっぱい、お母さんたちが子供を抱えながら、家庭という現場を守りながら、放射能と闘っています。土壌分析に出したり、野菜を計測してもらったり、学校に直談判に行ったり、クラスで一人ぼっちのお弁当に子供を望ませたり…。おまけに父ちゃんは、放射能の事ちんぷんかんぷんアドバイスしてくるし。その小さな胸の内を思えば、涙がこぼれそうになる。
 今、福島県が異常とも思える「離さへんで作戦」がすごい。福島県のお母さんたちが泣いて訴えても「ここにいてもらいます」って霞が関。そんなこと言うなら霞が関が福島に引っ越したらどうなの?
 …政治を変えるところまでいかなければ絶対にだめ…
 あなたたちの手で、過半数を取り、国を良くしてください。その予算で何でもやってください。安全な給食!やごとり中止!プールに屋根つける!砂場の砂を取り替える!スビーディを修理する!まずは止めようとする人間をクビに!
 食品検査器も山ほど買って、ホールボディカウンターをどんどん使わせて数値を公開させたらいい。トウダイなどの役立たずは全部クビにして、バズビーさんみたいな人をたくさん外国からつれてきたらいい。汚染地の家のローンもちゃらにしてあげて。原発のワイロで手が真っ黒な議員は、原発の中で働かせたらいい。まだ原発が必要と言っている議員をピックアップしておくの忘れないで。
 子供達のためにサナトリウムもたくさんつくって、具合悪くなったらすぐに行かせなきゃ。
 わけのわからないコンクリートの建物で囲まれる街より、緑いっぱいの街にかえたらいい。
 みんな国民のお金なんだよ。国民の幸せのために使って何が悪いの。使い方がおかしいから、経済が落ちたんだということにおっさんたちは気がついていない。勉強不足だから霞が関のいいなりに。古事記にもあったんだよ。女が政治をやったらうまく言った時代の話が。がんばれ母ちゃんたち!チェルノブイリの母ちゃんたちのリベンジをしてあげて!
 すっごい勉強している母ちゃんたちにいっぱい会いました。あなたたちなら、テレビに出ているおっさんたちよりずっとずっとステキだし、仕事もできる。過半数じゃ〜!!

(7月21日更新「泣いたらあかん、選挙に出てくだされ」)
http://www.kakehashi.or.jp/?p=3814

 そしてこの文章の最後、<<ここにいて頂きます!by 霞が関>>をクリックしてみてください。
 すると、現場のことなんかどうでもいい、ただひたすらコクミンのことを考えている霞ヶ関の連中の腐敗臭ただよう姿、それに対応して泣いている母親の必死の姿が見えます。
 でもアナログ波のテレビを見ても、御用新聞を読んでも大本営発表ばかりで、何も見えません。

 ですから、もうこれまでのようなテレビや新聞から情報を得ようとしても、安全安心あわてずに、のメッセージで洗脳されるだけ、ということが良く分かりました!

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2011年07月21日

私の行動記録

 ヤッホー君がこれまで何度か足を運んでいる千駄ヶ谷駅前の「代々木病院」、ついに今年の健康診断の日程が確定しました。8月3日水曜日です!
 「代々木病院」については、このブログの6月10日付け日記「秋田駅東口」、11月29日「千駄ヶ谷」、12月6日「もちつき(予告)」、12月16日「鳩森神社」と何度か綴ってきていますので、もうすっかりお馴染みでしょうか、ここは「民医連」に加盟しております。
 この「民医連」から、次のような呼びかけがあります。
 ヤッホー君はこれまで何度か、「タダチに健康被害はおこらないレベル」となぜ政府が誇らしげに言うか、ということは、後になって発症する「ガンとフクシマトウデンゲンパツジコとの直接的な因果関係を否定するための言い方でしかないから、要注意だよ」って、これまで日記で口酸っぱく言ってきましたので、ブログをお読みの皆さんはご承知とは思います。が、医療機関から正式に以下の声明が出されましたのでお役立てください:

「私の行動記録」の活用についてのお願い
 本年3月11日の東日本大震災に引き続いて発生した福島第一原発事故により、福島県を中心に広範囲にわたって放射能汚染が広がりました。
 これにより福島県民の生活と産業に大きな被害が生ずると同時に、放射線による健康障害についても大きな不安が広がっています。
「将来がんは発症しないか」、「子どもたちの健康に悪影響が出るのではないか」、「食品や水は大丈夫か」、「避難してもいつ地元に戻れるのか」、「農業は続けることができるか」といった不安をお持ちの方が多いと思われます。
 国や東京電力に対して正しい情報を公開させること、放射能汚染をこれ以上拡大させず全世界の力を借りて早期に収束されることと、国と東京電力に対し全面的な補償を強く求めていきます。
 同時に、これからは被災住民の健康管理ということが大きな課題になります。
 具体的には、被災住民の定期的な健康診断、疾病の早期発見・早期治療などを国や東京電力の責任で実施させることが大切と考えています。
 今後、日常の健康管理や新たに発生した疾病の診断と治療にあたって、放射線被ばくの程度や、被災後どのような健康状態にあったかなどの情報が大切になります。
 この情報は一人ひとりの健康管理や治療に役立つだけでなく、住民全体の放射線被害の状況を検討する上でも役にたつ資料となります。
 原発事故が発生した本年3月11日以降、どこで生活し、どこに避難し、どのような健康状態であったかについて、この手帳を活用し、ぜひ記録に残していただきたいと思います。

2011年7月1日 全日本民主医療機関連合会
http://www.min-iren.gr.jp/html/menu12/2011/20110713102350_10.pdf

 この動きと呼応するかのように、もうひとつのテレビ、7月19日火曜日の投稿からです。
 3.11以降あんなことこんなこと、自分のからだにあったのさ、という報告がどんどん集まってきています。 
http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/1171

 今回集計したのは、6月18日から6月30日までに寄せられた550件を集計したもの。
 健康に不調を訴えている人は0歳から87歳までと幅広く、平均年齢は30.47歳だった…
 アンケートの結果を大別すると、鼻血、喉の不調、咳、鼻の痛み・鼻水などの「粘膜系の異変」と下痢、倦怠感、頭痛などの「免疫力の低下のよる異変」の二つに分けられる。
 長年、チェルノブイリの子どもたちの保養運動に取り組んできた『チェルノブイリのかけはし』代表の野呂美加さんによると講演会などで母親から質問される子ども達の症状も同様のものが多く、チェルノブイリで汚染された食べ物を食べている子供たちの症状ともそっくりだと話す。

 このサイトの下に、インタヴューが動画でアップされていますのでお聞き下さい。それにしてもこの
《Our Planet-TV(アワープラネット・ティービー)≫ってなんなの?

 2001年に設立した非営利のオルタナティブメディアです。
 インターネットを利用して、独自に制作したドキュメンタリー番組やインタビュー番組を配信しているほか、オフィス内(神保町)にメディアセンターを設置し、子どもから大人まで、誰もが映像制作やメディアリテラシーなどを学べるようワークショップを行っています。
 Our Planet-TVのミッションは、「Standing together, Creating the future」。
 さまざまな地域やコミュニティの出来事をビデオで記録し、表現することで、社会の課題を共有しあい、より良い社会へ向けた変革を起こしていきたいと考えています。
 非営利・非商業的な運営を目指しているため、企業からの広告費は得ていません。
 会費や寄付、映像の受託制作事業費などの収入によって事業を展開しています。
 フルタイムのスタッフはわずか3人ですが、多くのボランティアやインターンシップの学生が、Our Planet-TVの活動を支えています。

http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/63

 そういえばヤッホー君のテレビはアナログ波なので、7月24日日曜日正午をもってテレビが写らなくなります。
 これでようやく「テレビ依存症」ともきっぱりおさらば、できますね。
 だけど問題なのはこのテレビの捨て所。
 最終処分場にだすったって、引き取り料を払わないと持っていってくれないんだって!

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2011年07月20日

女子ソフトボール

ソフトボールのカナダカップは7月17日、カナダのサレーで行われ、日本は決勝で米国に7―0で快勝して優勝した。エースの上野由岐子(1982年福岡市生まれ、ルネサスエレクトロニクス高崎)が3安打、10奪三振で完封し、打線も三回までに6点を奪った。
 2月に宇津木麗華監督(48)が就任した日本は、新チームで初の国際大会。上野は「打線が序盤から大量得点してくれて、楽に投げることができた。それぞれが持ち味を生かして試合に取り組めた」と話した

(2011年7月18日15:57付け共同通信)
 
 さらに日本ソフトボール協会の公式サイトからも:
http://www.softball.or.jp/

 ところでこの上野選手の属する会社は、社名変更したばっかり。
 2010年4月にNECエレクトロニクスと日立系ルネサス テクノロジの合併により、半導体専業メーカー「ルネサス エレクトロニクス」が誕生しました。
 そして3.11で「那珂工場(茨城県ひたちなか市)」が被災します。
 しかし、関係者の努力により、『那珂工場の200mmライン、300mmライン双方の製品の供給が代替生産を含めて震災前のレベルに10月末までに復旧の見込みとしておりましたが、1ヶ月前倒しし9月末までに復旧する見込みです
http://japan.renesas.com/press/news/2011/news20110610.jsp

 「なでしこジャパン」は次の国際大会として2012年ロンドンオリンピックを目指すとおっしゃっていましたが、そういえばこの女子ソフトボールはどうしたんでしょう? 競技種目から外されてしまったまんまなのでしょうか…
 
 次の動画は2008年、北京オリンピックでアメリカを倒して金メダルをとったときのリポートになります:
http://www.youtube.com/watch?v=FCGLjEhlQSI

アジア・オリンピック評議会(OCA)は7月14日、東京都内で総会を開き、2014年アジア大会(韓国・仁川)で、大会組織委が除外対象とした女子ソフトボールの実施を正式に決めた。
 男子の野球と合わせ、1競技として実施する。
 アジア大会はスリム化を目指しており、実施競技は史上最多だった2010年広州大会の42から36に削減された…
 2008年北京五輪を最後に五輪の実施競技から外れた女子ソフトボールは、2020年五輪での復帰が最大の目標。
 日本オリンピック委員会の竹田恒和会長は「アジア大会から抜けると、五輪復帰どころではなくなる。ホッとしている」と話した。
 ただ、女子ソフトボールが野球と共同歩調を取る手法が、五輪復帰にも通用するとは言い切れず、国内で男子のソフトボール普及をどう進めるかなど、課題は多い。
 日本ソフトボール協会の笹田嘉雄専務理事は「野球と一緒になることは、アジア大会で生き残るには最善の策だったが、五輪復帰となると次の一歩が難しい」と語った

(2011年7月14日20時16分付け毎日新聞ウエブ版)


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2011年07月19日

なでしこジャパン

 いやあ、台風が来ていますね。
 大型で強い台風6号は7月19日火曜日、高知県土佐湾を北上して上陸をうかがっています。時速15キロ、といいますから自転車くらい?…遅すぎるのです。いえいえ、だからと言って、ゆっくりゆったりのろのろ歩きのわれわれ山歩クラブが台風を非難することはやめときます。
 さて、傘をさすほどではない、長靴を履くほどでもない、雨具をつけるほどでない。そんな連休明けの出勤時間で、モウ一日「体調不良」で有給休暇をとろうかな、とも一瞬思いましたが、仕事に出かけました。
 そんな頃なんでしょうか、ね。なんか家をでるときの後ろ髪を引かれるような思い、というのは。
 事務所に着いてから、こんな報道に接しました、もって合掌。
『個性派俳優の原田芳雄さんが19日午前9時35分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。71歳。東京都足立区出身。本所工業高校(葛飾区南水元4-21-1 Tel 3607-4500)を経て俳優座養成所を卒業後、俳優座座員』
 あの『大鹿村騒動記』が最後の映画出演でした。ぜひお出かけ下さい。1000円で観られます!
 
 そしてそのころ、なんと…
第1旅客ターミナルの到着ロビーでは、午前6時には早くも30人ほどのファンが集まり、用意した横断幕、国旗などを取り出し、その時を待った。
 午前9時過ぎ、そろいの黒のスーツ姿の選手たちが、重い荷物を乗せたカートを押しながら姿を見せると、青い日本代表のユニホームに身を包んだファンらの大歓声が到着ロビーに響き渡った。
「おめでとう」「すごかった」「元気になった」などの声が次々に上がり、「ニッポン」コールも。
 選手たちにメッセージの入ったシャツを投げる光景も見られた。
 サポーターらは太鼓をたたき「チャンピオーネ」を熱唱、偉業をたたえた

http://www.youtube.com/watch?v=A0aJwkIoLwY

皆さん、暑中お見舞い申しあげます。
 今朝(と言っても、メールを発信したのは、昨7月18日月曜日お昼午後0時59分でした!)、ラジオから何かで延長戦で同点になった、とかありましたが、PK戦もアメリカを制し世界一になりましたね。NHK BS1でいま録画を見終えました。おめでとうございます!下は音声付の動画ですので、ご注意ください。
http://www.youtube.com/watch?v=zfcivJP4Y4o
 われわれもチームプレーでサイコウの笑顔をいっつも、ワン、ツウ、山歩です。これから台風も来ます、ご用心ください、ではまた近いうち!ヤッホー


 仲間からのこだまはなんと、山形から:
おめでとうございます!
 出羽三山を昨日今日とバスツア―でお参りしています。
 バスの行ける所までですが、月山では頂上を目指して行く団体がいました。
 帰途についた所ですが、三山共とても良かったです


 ね、なでしこイレブンの佐々木則夫監督(53)の出身地は山形県尾花沢市なんですよ:
尾花沢小時代の同級生で、同市の会社員小林正宏さん(52)は今も親交を重ね、監督の尾花沢後援会事務局長を務める。
 優勝が決まると、「ここまで来るなんて夢のようだ」と声を震わせた。
 PV(パブリックビューイング)会場で喜びをかみしめる小林さんの携帯に、ドイツの佐々木監督から電話が入ったのは7月18日午前7時すぎ。
 表彰式を終えたばかりの佐々木監督は「ミラクルで勝った。早く尾花沢に行っておしんこでお酒を楽しみたい」と語ったという。
 小林さんには決勝の前にも監督から電話があり、「楽しむぐらいの気持ちで戦いたい」と決意を語っていたという。
 小林さんは「ずっと応援してきたかいがあった。尾花沢スイカを早く食べに来てほしい」と再会を心待ちにしていた

http://www.kahoku.co.jp/news/2011/07/20110719t54010.htm
 ね、サッカーボールって尾花沢スイカと似てるでしょ…


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2011年07月18日

大鹿村騒動記

 今日7月18日の海の日、ヤッホー君はムカシの親友のふたりに暑中見舞いの葉書を出そうと決心しました。
 あれはいつだったのか、ヤッホー君の2011年2月7日付け日記『大鹿村』で書いたように、サークル「Eveの会」の仲間とムカシ、ヤッホー君のクルマ、当時はタイヤも幅広のトヨタカリーナED2000cc車を運転していましたね、その愛用車で木曽の山奥に暮らしている英国人サイモンピゴットさんを訪問したことがあった、と言いましたが、そのとき同行してくれた仲間のおふたりです。
 実は昨日の日曜日、大鹿村、リニア、忌野清志郎、と三拍子揃ったら、どうしても見にいかねばいけないんだろうな、とプランタン銀座デパートとなりの「丸の内TOEI(中央区銀座3-2-17 Tel 3535-4741)」までわざわざ映画鑑賞に出かけてきたんです。 
 
 映画は『大鹿村騒動記』。7月16日土曜日に公開されたばっかりです!
 監督の阪本順治がその映画の魅力、主役、つまり企画・主演の原田芳雄、かぶく男の魅力を次のように語ってくれています:
http://www.youtube.com/watch?v=ZATbRKhCbKg

 あの川沿いの狭い道路を村まで走るのですが、映画の物語の時間はムラ歌舞伎の前ですから、紅葉に色づいている秋、そのなかの狭い道、村から見た南アルプス、もう冠雪しているその山並みの風景、入った塩気の多い立ち寄り湯、映画はヤッホー君をムカシに引き戻してくれました。

 さらに映画の冒頭から『ディアイーター』の看板まで。
 もう原田芳雄の「遊び心」がはじまっています。『ディアハンター The Deer Hunter』だったら、1978年公開のアメリカ映画で主演はロバート・デ・ニーロ。第51回アカデミー賞をもらった、とかわかるのですが、これは鹿肉、映画の後半では『馬鹿鍋』までメニューにのぼります!
 ところでこの鹿、これもヤッホー君、ネクタイ締めて銀座のレストランに繰り出そうかなかな、って思っていたんですが、大鹿村という手もあったのですね:

人の数より、鹿の数の方が多いと言われる大鹿村。
 鹿、猪、猿などによる農産物や高山植物に対する被害が深刻化しています。
 このような状況を逆手にとり、鹿、猪など野生鳥獣肉を素材にして、ジビエ(野生鳥獣肉)料理を地域ブランドとして確立させていこうという取組みが観光協会を中心に行われています。
 狩猟文化が受け継がれているヨーロッパでは、鹿などのジビエは高級食材です。
 仏教の影響を強く受け、わが国では肉食をしない時代が長く続きましたが、実際には、鹿肉や猪肉はそれぞれモミジ鍋、ボタン鍋として食され、山国では最高のごちそうでした。
 大鹿村では、獣肉の加工工場が村内にあるという強みを生かし、新鮮で、衛生的な、そしておいしいジビエ料理を提供できる体制を整えております。
 是非、一度、自然の恵み「大鹿ジビエ料理」をご堪能ください

(大鹿村公式サイト)
http://www.vill.ooshika.nagano.jp/kankou/tokusanhin/oosikajibie/

 この映画、実は主役の原田芳雄、いま腸閉塞と肺炎を併発し闘病中ですって。7月11日月曜日のプレミア試写会には、それでも車いすで登場、声が出づらいため、一緒に登壇した共演者の石橋蓮司が代わりに「今日はどうもありがとうございます。どうぞごゆっくりご覧ください」とメッセージを代読したそうです。
(毎日新聞の運営するポップカルチャーの総合情報サイト)
http://mantan-web.jp/2011/07/11/20110711dog00m200040000c.html

 この映画の主題歌は忌野清志郎アルバム『RUFFY TUFFY』に収録されている「太陽の当たる場所」!
http://www.youtube.com/watch?v=9mU6x-ChRlw

 暑い中、映画館は涼しいし、ぜひ足を運んで観てあげてくださいね、そして大鹿村にもぜひ一度、お出かけくださいね!タダチでなく、ただし、塩見岳を計画している方は:
現在、登山道塩川ルートでは、塩川小屋手前村道にて崩落のため当分の間通行出来ません。
 三伏峠、塩見岳方面への登山をご予定の方は鳥倉ルートをご利用下さい。
 尚、徒歩での通行も出来ませんのでご承知下さい

(ムラからの2011年7月11日付けお知らせです。しかし「山ミシュランさん」情報でも、三伏峠小屋までクルマをデポしたところから4時間! は登るようです!!)
http://yamamichelin.blog39.fc2.com/blog-entry-327.html

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2011年07月17日

リニア・市民ネット

 缶けり、だって。そうですか。
 大好きな祖父が生きていた頃、まだ鯉が池に泳ぎ、山羊も鶏も小屋で餌を食べていたころのヤッホー君の遊びでしたね。
 これは鬼が見つけたら、缶のところに戻ってこなければ無効、そして見つけていない者に缶を蹴られた場合、無効。つまり、捕われていた者はまた自由になり、缶けりは振り出しに戻る、とても疲れるゲームなんです。
 いまの選民たちを見ているとまるでこの缶けり、ですね。何やってもいっつも振り出しに戻ってしまう、あるいは戻っていいんだ、みたいな空気が流れていて、一方、被災地やフクシマゲンパツ、被災者、難民、つまり現場は混乱。

 2010年8月= 連合(古賀伸明会長)は傘下の労組間で意見が割れていた原発政策について、初めて「推進」を明確に打ち出した。
 2010年10月= 菅内閣は、官民一体でベトナムの原発建設を受注。同時に経産省主導で2国間の調整のため、電力9社とメーカー3社(三菱重工、日立、東芝)の連合体「国際原子力開発」を設立した(その後、菅の脱原発表明が業務に影響しているかと思いきや、国際原子力開発は「政府から『脱原発』の指示や説明はない。粛々と業務を進めています」(広報部)と答えた)
 2011年5月= 連合は東京電力福島第1原子力発電所の事故を受けて原発推進政策を凍結し、新規立地・増設を「着実に進める」としてきた方針を見直す。26日午後の中央執行委員会で決定する。
 しかし幹部リーダー諸氏は社会との接点も見失ったカタツムリ、牛歩戦術どころではありません…そりゃあ、労組の幹部も、労働者の委任を受け、政労使の調整に大忙し、寝食を忘れて文章をつくって単組にゲキを飛ばし、汗をかいて、かいた汗は生ビールで補給しているそうですから…。
民主党最大の支持母体である連合の古賀伸明会長は7月14日木曜日(フランス革命記念日)の記者会見で、エネルギー政策の見直しに向け議論を開始する方針を明らかにした。連合は東京電力福島第1原発事故を受けて、従来の原発推進の主張を凍結。古賀会長は「震災から4ヶ月たち、これからのエネルギー政策を検討しないといけない段階になった」と強調した
(時事通信7月14日22:28付けブログ版)

 その革命記念日の前日、2011年7月13日= 菅首相は「原発に依存しない社会を目指すべき」と高らかに脱原発依存社会を掲げた。
 しかし、…動員型市民運動のリーダーとして駅頭でぶった街頭演説だったよう!
 7月15日金曜日になると、『菅首相は15日の衆院本会議で「将来は原発がなくても、きちんとやっていける社会を実現していくと、私の考え方を申し上げたところであります」などと述べた。
 政府の大方針かとみられたが、私的な考え方へと、一気にトーンダウンしてしまった

http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00203489.html
 
 同じニュースでこんなことも…へえ〜。なんとア缶は、おれには何でもできるとまた缶ちがい!
『「FIFA女子ワールドカップ ドイツ 2011」の決勝戦に、政府専用機を使って観戦に行くことを一時、検討していたことが明らかになった。結果的に断念した理由は、自らの不人気ぶりだったとみられている』

 また7月14日革命記念日、つまり菅首相が脱原発方針を表明した日の翌日になると…、
トルコの首相あての祝電の中で、引き続き、原発の売り込みに意欲を示していたことがわかった。政府関係者によると、菅首相は14日、6月の総選挙で勝利したトルコのエルドアン首相に、両国の協力関係の継続を求める祝電を送り、その中で、原発の受注交渉の継続を希望していることがわかった。菅首相は、前の日に原発のない社会を目指す考えを示したばかりで、原発の輸出を進めることとの整合性が問われるとみられる
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00203497.html

 次元が低い、一貫していない、プリンシプルがない、公私混同、時局・時勢を読みながら、延命をはかる道筋だけ探しているサイテイなリーダーと言わざるをえません。

 ゲンパツ以外にも実は…、そのひとつがリニアです。ムカシの大石武一(1909-2003)ほどの見識、尾瀬を残した信念のある政治家はモウ、いないようで。
『中央新幹線は、本年5月に、国土交通大臣により、南アルプスルート・リニア方式による整備計画が決定され、東海旅客鉄道株式会社へ建設指示がなされたことから、飯田下伊那地域への中間駅設置が確かなものとなった』
 ヤッホー君のブログ、2011年2月7日付け日記『大鹿村』で、指摘していた「リニア中央新幹線」ですが、明日7月18日月曜日(祝日、海の日)14-17時まで男女共同参画推進センター、ソレイユさがみ・セミナールーム1(JR横浜線、京王線・橋本駅北口下車、スーパー・イオン6階、Tel 042-775-1775)で緊急シンポジウムが開かれます!参加費は飼料代としてワンコイン500円。
http://www.soleilsagami.jp/index.html
 ヤッホー君の下町からは、都営新宿線の笹塚で京王線に乗り換え、1時間ちょっと、交通費片道700円弱でした。

 タイトルはビックリマークとクエスチョンマークだらけ:
『どうする原発! どうするリニア!原発とリニア、この二つは無縁ではありません!相模原市に駅誘致2200億円!私たちの生活はどうなるの?』
 そりゃあ、そうですよね、だった皆んなに節電、節電と呼びかけ、電気が足りないから冷房設定温度を30度にしよう、なんて熱中症もものともせず、耐乏生活、窮乏生活を送っているのに、電気使い放題のリニアをわざわざ作るんでしょう、それも地震の巣のようなところに、しかも南アルプスにトンネルを掘って換気口を、南アルプスの女王さまの許可も得ずに開けて、モウこれだけでも許しません。
 ヤッホー君の2011年3月20日付け日記『忌野清志郎』の歌のよう、やっぱり電気は余ってたんですね。
 司会は川村晃生(1946年甲府市生まれ、現慶応大学文学部教授、リニア・市民ネット代表)です。
http://www.gsn.jp/linear/news/20110718.pdf

 先生はこう語りかけています:
高度経済成長後、日本人の最大の問題は、幸福の哲学を語ってこなかったことです。企業や社会は、効率や利潤を最優先に人々を働きづめにした。その結果、うつ病で体を壊すなどして追い込まれ、年間3万人の自殺者を出すような国にしてしまった。これまで文学や哲学など、私たち人文学の研究者は象牙の塔に閉じこもりがちで、社会問題への働きかけが弱かった。もっと人間の幸福、命という観点から切り込んでいく責任があると思います。
 人間不在、効率優先の考え方が、リニアの問題に凝縮されているのです。発展ばかりを追い求める20世紀的な価値観からは、もう離れるべきでしょう。文明、社会を見直し、身の丈に合ったものにしなくてはなりません

(朝日新聞マイタウン山梨、ウエブ版)
http://mytown.asahi.com/yamanashi/news.php?k_id=20000641103230002

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2011年07月16日

星守る犬

 Koriyama、福島県郡山市出身、といえば西田敏行(1947年生まれ)。

 『あなたを嫌いになったわけじゃないけど、あなたを支えていくほどの強い思いが、もうなくなったのよ
…不況で解雇され、妻からも三くだり半をたたきつけられた西田敏行扮する「おとうさん」は、飼い犬のハッピーとともに車上生活者となって、あてのない死出の旅にでて、福島県いわき市、宮城県東松島市、岩手県遠野市、青森県弘前市、そして北海道名寄市、と北に向かってさすらい続けます。
http://www.youtube.com/watch?v=Qiatr_9bknI&feature=related

★『東松島市では、旅館に泊まり、宿泊客の記念写真にハッピーを連れて乱入するというシーンを撮影しました。実は、その撮影に参加してくださったエキストラさんが、一人津波で亡くなられたんです。皆さん地元だったので、地震があった後は、「どうか無事で…」と祈り続けていたんですが、最後までその方だけ消息がわからず、最近亡くなられたことがわかりまして。とても胸が痛かったです
(美しい景観を津波によって奪われてしまったロケ地を思いながら、涙を浮かべた西田敏行と玉山鉄二。皮肉にも、この作品は震災が起こる前の東松島と、いわき市の姿を残した最後の作品となってしまった。そんな本作が描いたのは、何の因果か、まさに今日本の人々が求める“きずな”の物語だ。2人が作品に込めた願いは、きっと観た者の心に静かに、ゆっくりと届くはずだ)
http://www.cinematoday.jp/page/A0002948

★『必ず、皆さんがにっこり笑える幸せな日が来ます。この映画「星守る犬」では震災前のいわき市内にある永崎海岸の姿が、美しくおさめられています。私(西田)が小学校の頃、臨海学校で初めて来た海が永崎海岸の海でした。私は内陸に住んでたものですから、初めて水平線を見た海が永崎海岸です。きれいな海岸でした。そして、昨年の8月から9月にかけて、その海岸で撮影をさせてもらいました。劇中、犬のハッピーと一緒に泳いでいます。ここに来る前、その永崎海岸を見てきました。私の知っている永崎海岸からは姿が変わってしまっていて…、つらいなぁ。あの景色を取り戻しましょう。人が元気じゃないと街も元気になりません。一緒にがんばりましょう
(6月29日水曜日、と言えば山歩クラブでは安達太良山を歩いた日でしたが、西田敏行さんは福島県は福島県でも、いわき市に凱旋し、町おこしのキックオフイベントに参加しておりました)
http://toho.channel.yahoo.co.jp/index.php?catid=347

★『柳田国男の「遠野物語」発刊100年という記念の年で、震災がなければ遠野市は多くの観光客でにぎわっていたものと思われますが、観光客の姿はまばらでした。こんなところにも震災の影響がうかがえました。それにつけても、岩手の風景は宮沢賢治の「イーハトーブ」のイメージそのままです
…www.yuyunosato.or.jp/pdf/news/news096.pdf

★ 次の動画も。これは石狩浜でのロケの舞台裏です。このシーンは、もう北海道なのですが、ハッピーといっしょにきれいな夕陽が沈む海をいつまでもみつめ、カフェの店長にハッピーを託し、ひとりであの世へ旅立とうとするのですが、ハッピーが行っちゃだめ、一人ぼっちにしないでってワンワン吠える場面で使われています。
http://www.youtube.com/watch?v=4bIuhe4EZ-A&feature=related
 
 ヤッホー君のこのブログ、4月10日付け日記「白河市の小峰城」「We Love 東北!」など、なんどか西田敏行が怒っている、涙している、とお伝えしてきましたが、今日、7月16日土曜日、ヤッホー君は、とうとう『星守る犬』を友人を誘って見ることができました。
 新宿や日比谷の映画館ではもう夏休みモードにシフトしており、この映画『星守る犬』が午前中から見られる映画館は限られてきておりました。
 そこで、仲間を誘って立川駅まで足を延ばし、シネマシティ(立川市曙町2ー8ー5 Tel 042-525-1237)に入りました。
 映画を見た後は、魚力海鮮寿司、立川ルミネ店(立川市曙町2-1-1立川ルミネB1F Tel 042-526-1296)でランチをいただきました。
 帰りの電車、中央特快のなかでは、良い映画に何年ぶりかの美味しい寿司にヤッホー君はバクスイだったそうです! いやあ、山もいいけど、映画もいいですねってケイタイメールもしていたって…

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2011年07月15日

le 14 juillet à Koriyama 

東日本大震災などに苦しむ本県を元気づけようと、駐日フランス大使館はフランス革命記念日の14日、平和を祝う式典「パリ祭」を郡山市の迎賓館グランプラスで行った。
 浜通りの避難者約640人を招き、早期の復興と平和を願った。
 震災のため一時、自粛を検討したが、フィリップ・フォール大使が震災と東京電力福島第一原発事故、風評被害に立ち向かう本県を励まそうと、本県での開催を決めた。
 東京都の大使公邸以外での開催は初めて。
 フォール大使が「この地で革命記念日を祝えることがうれしい」と述べた。
 佐藤雄平知事が「原発事故が革命的に収束する願いを込めて来た。本県での開催と被災者を招く計らいに心から感謝している」とあいさつした。
 フレデリック・ミッテラン文化・通信相がスピーチした。
 松浦晃一郎前ユネスコ事務局長の発声で、フォール大使や佐藤知事、佐藤憲保県議会議長、瀬谷俊雄福島日仏協会長、原正夫郡山市長らが乾杯した。
 式典に先立ち、本県産の農産物を応援してもらおうと、JA福島五連の大橋信夫副会長がミッテラン文化・通信相にJA伊達みらいの桃「日川白鳳」を贈った。
 三春町に避難している富岡町消防団員の木下博之さん(39)は、「震災状況や町について聞かれ、本県を心配しているのが分かった」と話した。
 川内中の生徒らも大使館関係者らと話すなど交流を深めた

(2011年7月15日金曜日10:09付け福島民報より<避難者招き「パリ祭」郡山で開催> 
http://www.minpo.jp/view.php?pageId=4107&blockId=9866229&newsMode=article

 この後、フレデリック・ミッテラン文化・通信相は仙台の東北大学に向かいます。
『日仏文化交流-フランス人から見た日本人・日本人から見たフランス人-』が同日10:30〜12:00東北大学川内北キャンパス・マルチメディアホール(マルチメディア教育研究棟2F)』が予定されているからです。
http://www.tohoku.ac.jp/japanese/newimg/pressimg/tohokuuniv-press20110711_3.pdf

 この企画の中心をつとめた小林文生教授は、2011年5月29日日曜日、ヤッホー君が学んだ一橋大学で開催された<震災とフランス語・フランス文学研究・教育のあり方をめぐるターブル・ロンド>で下記のようなことをおっしゃっておられました:
東北大学では、2名の学生が亡くなった。
 5月9日に授業が始まる前、私はいつもの新学期のように学生たちに笑顔を見せることは出来まいと思っていた。
 ところが、教室に集まった彼らを見て理解した。
 彼らは授業開始を待ち望んでいたのだ。
 震災の中でも、彼らは、知らない言語を学び、異文化を知りたい、教養を身につけたいと強く望んでいる。
 これを生かさないわけにはいかない。
 私たち被災者は物質的なものだけを求めているのではない。
 傷ついた心は元に戻すことはできない。
 変化として受けとめ、プラスの方向にもっていくことしかできない。
 そこで言葉と文学は大きな力をもつ。
 それは、目に見えない自分や、震災で失われた目に見えない最も大事なものを可視化する営みであるからだ。
 今ほど、言葉と文学の力が求められているときはない。
 今すぐ被災地に行き、文学作品を勧める、ということではない。
 長い時間の中で言葉と文学に接していくことで人間は強くなる。
 本とペンと紙と頭さえあれば、私たちには何かができる

(日本フランス語フランス文学会 2011年度春季大会 報告)
http://wwwsoc.nii.ac.jp/sjllf/archives/tableronde2011p.pdf

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2011年07月14日

パリ祭

 市川昆監督の1960年作品『おとうと』でお姉さん役を演じた岸恵子は、とっても良かったですね。
 あれから50年! 半世紀もたってまだお元気、彼女はパリ祭の今日、仙台にいるのかな。フクシマかな? いややっぱり東京かな?
 といいますのもフランス大使館情報では、今日のパリ祭は、東京は銀座界隈のシャンソニエではないようなんです:

Au cours de la journée du 14, il s’entretiendra avec plusieurs hautes personnalités japonaises, parmi lesquelles M. Yutaka Banno, Secrétaire d’Etat aux Affaires étrangères, M. Yuhei Sato, Gouverneur de la préfecture de Fukushima, M. Masao Hara, maire de Koriyama, ainsi que les nombreuses autres personnalités japonaises ayant fait le déplacement pour assister à la réception du 14 juillet à Koriyama.

La matinée du 15 sera essentiellement consacrée à une lecture du Ministre à l’Université du Tohoku, qui sera suivi d’un échange avec les étudiants sur le thème ≪ Regards croisés : le Japon vu par les Français, la France vue par les Japonais ≫. Le Ministre se rendra ensuite sur les zones sinistrées, à Arahama puis Yuriage, où il rendra hommage aux morts et disparus dans la catastrophe, en compagnie du maire de Natori.

Le Ministre présidera enfin en soirée une cérémonie de remise de décorations à la Résidence de France, durant laquelle l’actrice Keiko Kishi, l’artiste Reiko Kruk et les mangaka Jiro Taniguchi et Shin et Yuko Kibayashi seront décorés.

L’Ambassadeur a décidé cette année de célébrer la fête nationale du 14 juillet à Koriyama (Département de Fukushima) afin d’apporter un peu de réconfort à ceux qui en ont aujourd’hui le plus besoin et de montrer la solidarité de la France dans un moment difficile pour nos amis japonais. Cet événement, qui réunira plus de 1200 personnes - pour moitié des réfugiés victimes des catastrophes de mars, l’autre moitié étant composée d’officiels japonais du Tohoku et d’invités qui feront le déplacement depuis Tokyo – s’inscrit dans le cadre de l’opération ≪ France-Japon : Ensemble pour demain ≫, d’aide à la reconstruction du Tohoku

(http://www.ambafrance-jp.org/spip.php?article4878)

 地元のメディア河北新報の記事から目が離せません。それにしても、こんな記事が実は…、放射能入りステーキって、ぼくらのせいじゃないよ、ゲンパツがジコったとき、「チェルノブイリとは違います、安全です」ってお墨付きだったんじゃないかあ、モウって抗議しにきた、と思いません?皆の衆!
 マルセイユからパリへの行軍中の歌を、フクシマから東京まで行進するんだから習いに来たんだよって言っているのかも…邪魔するんじゃないって、ね。
http://ceron.jp/url/www.youtube.com/watch?v=GtoHs0Ua_Tg

東京電力福島第1原発事故で警戒区域に指定されている福島県楢葉町山田岡の国道6号で10日夜、巡回していた福島県警のパトカーめがけて牛2頭が突進、衝突し、パトカーが破損する「事故」があった。
 県警によると、現場はJR常磐線木戸駅近くの国道6号交差点。午後9時15分ごろ、パトカーを停車させたところ、牛5、6頭が現れ、取り囲まれたという。牛は耳にタグが付いており、飼い主の住民が避難した際、放し飼いにしたとみられる。
 2頭の牛にぶつかられ、パトカーの運転席側のドアなどがへこんだが、中の警察官2人は無事だった。
 原発事故で立ち入り禁止になり、無人になっている警戒区域内では牛などが放置され、野生化する恐れも指摘されている。
 県警広報課は「警戒区域内に一時帰宅する際には、不用意に牛に近づかないようにしてほしい」と注意を呼び掛けている

(2011年7月13日水曜日付け河北新報)

 さ、今晩はビストロ「ヤッホー君」だい、だってボジョレーのシャルドネ種の白ワインが手に入ったんだい、それにステーキはフクシマ産牛肉だい、おトモダチ作戦でもらったお中元のアメリカ産じゃ、ないやい、それにきっとフレデリック・ミッテラン文化・通信大臣だって食べてくれると思うよ。
 い・た・だ・き・ま・す!

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2011年07月13日

財政赤字

 財政赤字ってヤッホー君の薄いお財布のこと…、ひっくりかえしても綿ゴミも落っこちてこない、銀行通帳見ても入金の当てがあるはずもなく、弁当のおかずをヤマキの「花かつお」をふりかけてしのいで、山に行く費用を捻出しているヤッホー君、霧降高原お山歩会が終わってほっと一息、パソコンでインターネットを検索していたときです。
 思わず、あっ、と叫んでおりました。カナダ紙「The Globe and Mail」の記事にありましたヨーロッパの地図です:

web-0712rbeugreece_1296993a.jpg

 このところトウデンフクシマゲンパツジコにばっかり気をとられ、日本の南、沖縄はどうなったんだろう、年金福祉医療はどうなるんだろう、すっかりぬけていました!
 モウ放射線の数字ばかり(他国産なら少しでも基準値を超えていると大騒ぎをするけど、この国では「基準値を超えている放射線でも健康にはタダチに影響がない」と政府からメディアまで報道してしまう)、あカンの支持率(NHK調査では、7月の内閣支持率は16%(不支持率68%)と麻生内閣の最終支持率15%に迫った)、消費税の税率(なぜマスゴミは皆んな足並みそろえて夏ゼミのように「早急に消費税率引き上げよ」と増税大合唱をするのでしょうか)なんて数字、それにばっかり拘っていたことに気がつきました。

 そうしたら、今朝になってそろそろ、でてきましたね、ギリシアじゃなくってイタリアだってんですよお〜:
国際通貨基金(IMF)はイタリアに対し、財政赤字の対国内総生産(GDP)比率を2012年までに3%以下に引き下げるため「断固たる措置」を取るよう求めた
(2011年7月13日8時55分付け朝日新聞は、こうやって昨12日のロイターの記事をただ訳しただけでした)

大西洋の片側では、市場がユーロ圏を必要以上に危険にしている。対岸では、市場が米国を実際よりリスクが低いように扱っている
(日経も12日付英フィナンシャル・タイムズ紙の記事を訳しただけでした)

 あ、あの、何を言いたいかと、あのお、じゃあ、日本は、アメリカは、対GDP比率はどのくらいあって、額にしてどのくらいあるのか、そのため3%以下に引き下げるための「断固たる措置」は何なのか、を言わなきゃいかんのだ、と。
 そして、ヤッホー君のような無学文盲な貧民も含めて、皆んなで考えて、皆んなが発言していかなきゃいけないんじゃないか、と。
 なにもこの国のメディアにIMFの替わりをするよう求めているのでなく、ほら、たくさんいるじゃないですか、いろんなムラ社会の選民たち、このトウダイ出の偉人さんたちにまずは語らせないといけなんじゃないか、と。えっ、原稿料が安いとそんな話にのってこないって…、困ったもんです。また、カネかあ〜、ね!

 政府機関には、こんなのがありますが、もっと分かりやすくして、自分たちのウエブサイトにアップするよう、そうです、夏休みの宿題! おこちゃまにお願いしようかな…。。。
http://www.zaisei.mof.go.jp/pdf/4-1財政収支の国際比較(EO88).pdf

※ 「花かつおをまぶしたご飯だけの弁当」って実は山田洋次監督が選んだ日本の名作、『おとうと』(1960年、角川映画、市川崑監督、幸田文原作、6月19日放送)で弟役の川口浩が姉役の岸惠子に言う台詞)にヒントを得たもので、最近の弁当ヒット作。

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2011年07月12日

紅い花垣根から黄色い花園へ

霧降高原のキスゲ平周辺で、ニッコウキスゲが見ごろを迎えた。
 例年より1週間から10日程度遅く、今月中旬まで楽しめるという。
 多くの観光客が空中散歩を楽しんだ霧降高原リフトは昨年、45年の歴史に幕を閉じた。
 市は跡地に遊歩道などを整備する計画で工事を進めている。
 このため、群生地までは登山道を約20分登る必要がある。
 市観光交流課によると、開花が遅れた分、小丸山の山頂付近から裾野まで全域で一気に開花したという。
 現在は斜面が黄色に染まり、ハイカーたちは壮大なパノラマに感激していた。
 キスゲ平は、シカの食害でキスゲが減少していたものの、地元ボランティアなどが植栽を続け、徐々に回復。現在は26ヘクタールに約26万株が咲き乱れている

(7月9日05:00付け下野新聞)

 ところで、そのニッコウキスゲの黄色い花園の前、つまりバスが東北道を走っていたとき、高速道路沿いに咲くあの花はなんと言うんだっけ、と喉から名前がでてきそうででてこないもどかしさにちょっと気分が沈みこんでいたんです、ヤッホー君は。
 はるちゃんからは、加齢が『順調です』という呪文が響いてはいるんですが、なんとなく不調!そこで、頼りの御方にそうっと尋ねてみました。

「あの花の名前は…?」
「あれは、キョウチクトウっていうんですよ、公害にも強いということで高速道路の植栽にもなっているようです。実は、ね、この花、原爆で被災した広島市で、原爆により70年間草木も生えないと言われた焦土にいち早く咲いた花なんですよ。どれだけ広島の人びとに復興への希望と光を与えてくれたことか。それで原爆犠牲者への慰霊の意もこめて、1973(昭和48)年、広島市の花に選定されたのです」
「えっ、そうだったんですか」

 オウム返しにそのまんま大谷PAでトイレ休憩のときハルちゃんに伝えました!
 たしかにキョウチクトウは、『「夾竹桃物語−わすれていてごめんね」(弁護士緒方俊平先生著)を全国の子供達に読む機会を創り、未来を担う子供達の、平和を愛し、生きるもの全てを愛しみ、世界平和を願い、地球環境を大切に護る心を培うことを目的としてい』るウエブサイトまでありました。
http://www.kyouchikutou.jp/ 

 著者の緒方俊平は広島在住の弁護士でもあります。
広島市在住の弁護士・緒方俊平氏(54)は、 羽黒山で修験の荒行を修め、 正覚院法俊の法名を持つ。
 近年は墨絵画家として広島やミラノなどで個展を開き、 弁護士と画家と、 双方で活躍中だ。
 その緒方氏が 『夾竹桃物語―わすれていて ごめんね』(ガリバー・プロダクツ刊) を出版し、 原爆で犠牲になった動植物たちの慰霊碑建立を呼びかけている。
 弁護士としての氏は、 広島スモン訴訟で弁護団の事務局長を務め、 また長年原爆詩の朗読を続けている女優・吉永小百合さんの法律顧問を務めるなど、 幅広い取り組みを行なってきた。

http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-interviews/Nint/n-d000826.htm

 ヤッホー君、何を感違いしたのか、吉永小百合の朗読を聞く前に突然、美空ひばりの美声に耳を傾けることにしました。『夾竹桃の咲く頃』です:
http://www.youtube.com/watch?v=EzdF8wOqvbw

 いやぁ〜、山もいいけど、こころに響く日本の歌って本当にいいですね、名曲、美空ひばりもさすが、ですね。
 だけど、ちあきなおみはもっと感動的です。『紅い花』から:
http://www.youtube.com/watch?v=J1fn4BASJF8&feature=related

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2011年07月11日

栃木の梅雨明け

 昨日の日曜日の栃木県、大変でございました。
 朝、われわれのバスが東北道を向かっているときには、「梅雨明け山行」とか車内で大騒ぎするほどの良い天気、車窓からは雲ひとつない夏空を仰いでいました。事実、
10日の県内最高気温(午後3時現在、気象庁発表。単位は℃)で、宇都宮35.4、佐野37.2、小山36.1、真岡36.9、鹿沼34.7、那須烏山34.9、今市32.6、大田原35.5、黒磯33.9、奥日光26.3※大田原は7月の観測史上最高気温、黒磯は今年最高気温
(7月10日15:16付け下野新聞)

 なのに一転して空がかきくもり、一陣の突風が吹き、空から突然、雹か飴か、大粒の雨が落ちてきたのですからびっくり。キスゲ平から小丸山への途中でした。さらに、その予兆はあったのでした。われわれは、ぜんぜん気にも留めずに歩いていましたが、キスゲ平までモウ一息、という原生林の間でのころになりますが、
10日午前9時57分ごろ、岩手県、宮城県、福島県で震度4の地震があった。
 北海道から近畿にかけての広い範囲で揺れを感じた。
 気象庁は岩手、宮城、福島3県の太平洋沿岸に津波注意報を発表したが、大きな津波は観測されず、1時間45分後に解除した。
 同庁によると、岩手県の大船渡と、福島県の相馬で10cmの津波を観測した。
 3.11東日本大震災以降で実際に津波が観測されたのは初めて。 震源地は三陸沖で、震源の深さは約34Km。地震の規模はマグニチュード(M)7.3と推定される

(2011年7月10日日曜日河北新報ニュース)

 バスドライバー梅津さんの証言では、バスも揺れ、そして豪雨。車中に缶詰めとなり、トイレにも行けなかったほどのもの凄さだったそうです。下野新聞報道では:

★ 宇都宮地方気象台は10日午後4時9分、大田原市、那須塩原市、那須町、日光市の大雨警報(土砂災害)を解除した。県内全域に大雨、雷注意報が、県南部には洪水注意報が出ている。(7月10日16:19)
★ 10日午後5時8分ごろ、佐野市戸奈良町の男性方に雷が落ち、シュロの木3本が燃えた。けが人は無かった。佐野署によると、男性がバケツで消火を試みたが消火できず、消防通報した。(7月10日18:37)

 濡れ鼠になってバスに戻ってきたわれわれは、お昼も取らずほうほうの体で、もう1時ころには立ち寄り湯に予定していた大江戸温泉物語「日光霧降」(日光市所野1535-1 Tel 0288-50-1212)に。
http://www.ooedoonsen.jp/shukuhaku/nikko/index.html
 しかしこの温泉は午後2時半にならないとお掃除が終わらず開場になりません。
 そこで開場を待つ間に6階のロビーに陣取って昼食会を開きました。
 これを見かねたのか、浴場の掃除も手際よくすすめてくださいまして、2時には入れるようにしていただきました、ありがとう、「大江戸温泉物語」のスタッフのかたがた、御礼を申し述べておきます。ただし、「さきほどの雷雨で外の露天風呂がまだ暖まっていないので冷たいかもしれませんのでご容赦ください」
 ン?
 
 どなたかは、さっそく「VIVAハワイアン」のポスターを見つけ、えっ霧降に「ハワイが…江戸だけじゃないんだ…」なんておっしゃっていましたが、すかさず、実は本物のダイヤモンドヘッドにも登りまして、とか実は本物のピタラス、もとぇ〜っ、ピラタスにも乗りまして、とか、相変わらず賑やかな山歩クラブの面々。

 帰路の車中での打ち上げ用お神酒は、東武日光駅前の「米源(日光市松原町9-5、Tel 0288-54-0300)」で仕入れました。
 このお店、1772(安永元)年創業の老舗蔵元でした。いまは酒卸を営み、栃木県内の地酒、地焼酎、ワインを販売しております。
 仕入れたお神酒は渡邊佐平商店(日光市今市450、Tel 0288-21-0007)醸造になる「清開」。
 この蔵元は、『1842(天保13)年の創業以来、日光山麓の清冽な名水を汲み、日光連山から吹き下ろす冬の寒気の中で、酒造りを続けています。
 また、「純米醸造酒こそ本来の地酒である」と考え、その製造に力を入れています。
 当社の全製造量中の約90%が、「純米醸造酒」です

http://www.watanabesahei.co.jp/

 さ、あとは矢でも鉄砲でも持ってきやがれってんだ、ガッテン承知の助、バスは事故渋滞をさけ鹿沼から左に折れ北関東自動車道に入って常磐道から下町に戻りましたが、大、清開!7時には帰京できました!実に良い気分。雨ん中の山行の記憶も遠ざかり、夢気分!

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2011年07月10日

ニッコウキスゲ


 今日のお山歩会は赤薙山でしたが、リフトがもうなくキスゲ平まで1時間の登りを余儀なくされ、かつお昼前なのにもう、大粒の雨、雷鳴!
 途中のキスゲ平経由小丸山までのところで名誉ある撤退となりました。
 ヤッホー君なんかは、「おなかと背中がくっつくよ」とお昼を取ろうと何度か小休止を入れましたが、雨が降ってきて、だめぇ〜。
http://www.youtube.com/watch?v=t1_0wt2H8Ck&feature=related

 でも家康様からは、丸ごと塩味効かせた煮た小芋、さらに冷凍した葡萄など山行中、なにかとおかずが出てまいりまして、今日も抜群の行動食オンパレード!
 ヤッホー君のお尻にぴったりの岩があって、よし、と座って「いざ、飯!」と号令をかけた途端にざあ〜っと降ってきて、ぶう〜!
 下界では梅雨明け宣言となりましたが、ここ霧降高原はまだのようで。雨具装着してのお山歩会となりました。
 ま、美ヶ原も何度目かの挑戦でやっと企画が実現できた経験もあるし、またチャレンジすることにして。
 でも、念願のニッコウキスゲを見ることができ、仲間のどちら様も、大満足でした。

<お客様へ>
 霧降高原・キスゲ平のリフトは、2010(平成22)年をもって廃止となりました。
 現在、ニッコウキスゲ等の自然観察のための遊歩道の整備を進めています(平成25年完成予定)。
 このため、今年のニッコウキスゲの開花時期(例年7月上旬)には、登山道を約20分上った地点での見学となりますので、ご了承ください。
 見学は無料です。
 登山道であり、足下がよくありませんので、運動靴等で十分ご注意の上、ご散策・ご見学ください。
⇒お問合せ(社)日光観光協会 Tel 0288-54-2496

http://www.nikko-jp.org/index.shtml

キスゲ.jpg
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2011年07月09日

中村学園

 1925(大正14)年4月、府立七中(現在の墨田川高校、墨田区東向島3−34−14)に校歌が制定されました。作詞は小説家でも随筆家でも考証家としても有名な幸田露伴(1867-1947)、作曲は童謡作家の弘田龍太郎です。
http://www.sumidagawa-h.metro.tokyo.jp/cms/html/entry/57/21.html
 どんな校歌なのか、歌声入りで聴くことができますので Let's try!

 これは6月29日水曜日、番外編での安達太良山平日山行への帰りの車中での会話。なんでヤッホー君が知っているかと言えば、それはこのブログ、6月15日付け日記「松本哉」でこんなこと書いていたからでした:

ヤッホー君の知っている松本哉って、いま読んでいる『幸田露伴と明治の東京』(2004年、PHP新書282)の著者

 そうしたら、中村学園(江東区清澄2−3−15)の校歌の作詞は与謝野晶子、と同乗の仲間が教えてくださいました。
http://www.nakamura.ed.jp/outline/song.php
 ぜひお聴きください。

 与謝野晶子(1878-1942)との縁は、中村学園第4代校長の中村三郎の時代のとき。校長は、
個性の完成・デモクラシー・思想の自由を教育方針に、「清く、直く、明るく」を校訓とし、自由で伸びやかな校風を作りました。
 与謝野晶子への校歌作詞依頼や、北原白秋などの著名人を招いた講演会開催に取り組み、校外授業の積極的な推進や、校技としてバレーボールを導入するなど、自由闊達な教育を次々と実践していきます

と学園のウエブサイトにあります。
 5代目校長の時代にこの「校訓」と「3つのS」とともに「中村スピリッツ」として、確立するのです:
小林珍雄は、師弟間の親愛の大切さを掲げ、校訓を具現化して
「1.わがままをおさえる=Self- control」
「2.ひとに迷惑をかけない=Self-government」
「3.ひとに親切をつくす=Social Service」
という「3つのS」を設定し、単に進学のための教育ではない、社会に奉仕する心の教育に力を注ぎ「智恵の学校」を希求しました。
 そして、これらは中村スピリッツとしてわたしたちの胸に刻まれ、現在も大切に受け継がれています

http://www.nakamura.ed.jp/outline/history.php

 ところで7月6日の水曜日、山歩クラブの「たなばた前夜祭」を開いたことをご報告しましたが(「砂町銀座」のご紹介に終わってしまいましたね)、翌日ヤッホー君からこんな礼状が件の仲間に:

昨日、報告し忘れてたこと…母校中村学園がいま拡張工事に入ってるめでたいお話し。進捗状況見るついでにまた集まりを開きましょう!日曜日はよろしくお願いします
…日曜日って霧降高原から赤薙山2010mへのバスは行く、お山歩会なのでございました、えっ?明日?

 山歩クラブの「たなばた前夜祭」の前に、実は中村学園は、地鎮祭を開いておったのです。ですので前夜祭も地鎮祭もとってもおめでたい、元気のでる催しものとなりましたね!

 2010年に幕を開いた中村学園第2世紀、新世紀の開幕に相応しく、いま、『新館LADY』新築の槌音を高らかに響かせているのです。完成予定は来春、2012年4月です。
http://www.nakamura.ed.jp/topics/top/%E3%80%8C%E6%96%B0%E9%A4%A8LADY%E3%80%8D.pdf

 第10代目にあたる現校長の梅沢辰也も元気です。2010年4月6日にはこんな「開花宣言」を:

新入生の皆さん。
 学校とはどんな所でしょうか? 私が思い描く学校とは宝箱のようなものです。
 そのなかには、河原で拾ってきた真っ白いすべすべした石、面白い形をした石、海岸で集めたピンク色の貝殻、手作りのビーズのネックレス、お土産でもらったストラップ、あるいは、光輝く宝石。
 これから輝く宝石の原石。
 どれも大切。
 どれもキラキラ。
 唯一無二の存在がそこにはあるのです。
 ひとたびふたを開ければ「未来への夢と希望・そして思い出」につつまれるのです…』

(「チャンネル 校長室」がオープンいたしました。中村学園「校長先生」のブログです)
http://www.nakamura.ed.jp/principal/2010/04/index_5.html

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2011年07月08日

ザビエルとその弟子

 加賀乙彦と光太郎、実はふたりともフランスのパリに住んで異文化の空気を吸っていたことがあるのです。
 光太郎は1906(明治39)年2月、まずはニューヨークに渡ります。23歳のときです。パリに移るのは2年後、1908(明治41)年6月のことです。
ちょうどビショビショ雨の降る日だった。そしてぼくの青春らしい青春は、パリからはじまったような気がする』と書くのは戦後、1951年『中央公論』10月号です。光太郎は、この翌年、1909(明治42)年6月に帰国します。

 加賀乙彦は、1957年、28歳のときフランスに留学し、パリ大学サンタンヌ病院、北仏サンヴナン病院に勤務し、1960年に帰国しています。
 
 だから加賀乙彦と光太郎も、祖国、ふるさと日本を外から見えるのだ、と思います。ムラ社会を外から眺めて、こころにひっかかることをためらわずに、そのまんま、自然に文章表現できるのでしょう。
 そして、共通してこころにひつかかるということ自体、異文化から学んだのはひょっとして、批判精神 esprit critique だったのではないか、と。
 
 加賀乙彦は晩年、カトリックに入信しますが、若い頃のフランス留学経験がなかったら、きっと次のような文学作品の着想にも思い至らなかったのではないか、と思えます:

加賀 キリシタン時代がザビエル来日からわずか65年でもって徳川家康によって息の根を止められてしまうのは、やはり布教のやり方に問題があったのではないかということですね。その過ちは、そもそもザビエルから始まっている。土着の宗教など、その土地の人々の尊重しているものをよく窮めた上で、お互いに尊敬しながら布教していくというのが本当の姿勢であるべきで、それがそういう具合にカトリック教会が変わってくるのは、1960年代の第2ヴァチカン公会議以降のごく最近のことなんですよ。私はカトリックの洗礼を受けたんですが、第2ヴァチカン公会議以前のあの硬直した布教精神だったら、私はカトリックにならなかったのではないかと思います。

加賀 いまの時点からザビエルを見直すと、アンジロウの言うようなことが見えてくる。しかしそのことは皆さん遠慮して書かない、聖人ですからね。日本のザビエル伝やザビエルを主人公にした小説は、どれも彼を完全無欠な聖人として書いているのばかりで、それは、やっぱり小説家の私としては面白くない。ザビエルにも欠点はある。周りの人間としょっちゅう衝突しますし、土俗の宗教について軽蔑感もつよい。そういうことはみんな隠して完全なザビエルにしているんですが、それは変だと思う。歴史の中の存在として正しくザビエルをとらえるべきです。私としては、聖人伝を書く気は全然なかったんですよ。『ザビエルとその弟子(2008年2月には講談社文庫に入る)』は、私としては小説の構造についてものすごく冒険したと思っています。人間ザビエルを書こうと思うと、どうしてもこういうかたちになってしまう。この小説がちょっとでも成功しているといいと思っているのは、ザビエルというのはああいう欠点のある、しかし面白い人物だということがわかってもらえたらと思うからです。遮二無二イエスの真似をして、日本へ来て、それから中国へ行こうとして挫折した。そういうダイナミックな人物で、神秘的な、不思議なところもあるとともに、欠点もある人物だった、そんなふうに読んでいただければありがたいんです

(2004年6月14日 東京・本郷の加賀乙彦さんの仕事場にて収録)
http://www1.e-hon.ne.jp/content/sp_0031_o_kaga.html

 ちなみにこれは、<e-hon>というウエブサイトの2004年8月号からですが、<e-hon>というのは、出版物取次(卸売会社)の(株)トーハンが運営するインターネット書店です。

 また光太郎も、こんなふうに歯に布着せぬ言い方をしています。
日本は4等国だとか5等国だとか言われているが、文化の上ではたしかにそうだ。文化の比例がとれていないからだ。自分で美を選択し、守って行けるようになるのは、大へんなことだと思う。
 もっともわたし自身、東京の町の比例をやぶって、三越でもどこでもゴム長で出かけるが、こんなことを遠慮せねばならぬほど尊敬する都でもないと思う。なぜならデパートの包紙までマチスになってしまって、しかもだれもそれをあやしまない。じつにおろかな都だからだ

(「おろかなる都」、初出は1952年11月『週刊朝日』)

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2011年07月07日

加賀乙彦

 7月2日土曜日の日記「レモン哀歌」で、津村節子が1998(平成10)年度の芸術選奨文部大臣賞の文学部門に選ばれたと言いました。これは、加賀乙彦との同時受賞でした。
 この加賀乙彦は、1929年東京生まれ。東大医学部卒。日本芸術院会員。病院や刑務所に精神科医として勤務。犯罪心理学に詳しく、代表作に『フランドルの冬』『宣告』『湿原』『永遠の都』など著書多数。近著は『不幸な国の幸福論』(集英社新書、2009年12月)。
 今日はこの加賀乙彦の声に耳を傾けてみましょう。出展は朝日新聞、毎日新聞、そして東京新聞からです。

『私は、今、81歳。
 この1月半ばに心臓病で倒れ、4週間ほど入院し、心臓にペースメーカーをつける手術をした。
 退院して、ペースメーカーの調子を診てもらうために、大学病院に行き、機械の調子がいいと言われて安心して、外へ出たところで3.11大震災の余波を示す地震にあった。
 東京・本郷のマンションに帰りつくと、点検のためエレベーターが全部停止していて、寒いロビーに住人が集まって震えていた。
 ここには老人が多く、階段を登れない人が大勢住んでいるのだ。
 風邪をひくか、手術直後の心臓を使って9階の自宅まで登るか。
 私は後者に決めて、ゆっくり登りだした。
 ドアを開くと、5千冊の本の散乱に、ただただ打ちのめされた』

(2011年3月29日付け朝日新聞ウエブ版「再建という希望が残った、作家・医師 加賀乙彦さん」)
http://book.asahi.com/clip/TKY201103290134.html

−−著書「悪魔のささやき」(集英社新書、2006年8月)にこう書かれました。<あのとき感じた、人間の思想や国家のイデオロギーというのはなんて脆(もろ)いものなのかという驚きは、今もずっと続いています。そして1945年8月15日こそが、私がものを考える原点となった>
 加賀 戦争が終わると、昨日までの日本を否定して、「民主主義、民主主義」と正反対のことを言い始めた。大人はウソつきだ、いちばんひどい騙し方をしたのだと愕然とした覚えがあります。国家を、組織を、支配者、教育者を、私より上の世代の人間を信じない、それが戦後に到達した心境でした。

 −−かくも「悪魔のささやき」に乗せられたのは。
 加賀 日本人の国民性はひとえに流されやすいのです。それは集団主義的な傾向や、「個」を主張しづらい日本の社会に起因していると思います。「個」を押し殺して、集団の「和」を大切にしようとする人たちは悪魔のささやきに弱い。それほどに悪魔の力は強いのです。

 −−「悪魔のささやき」に打ち勝つには。
 加賀 悪魔は、人間の無知につけこみ、曖昧でぼんやりした心に働きかけます。戦争前に、国民がアメリカの国力を知っていたなら、たとえ政府や軍部の圧力があっても、簡単にアメリカに勝てるなどとは思わなかったはずです。あれほど熱狂的に戦争へとひた走ることはなかったのではないでしょうか。
 長いものに巻かれる、お上の言うことには黙って従う、そういう気持ちが強まると、考えることを放棄しがちです。大事な点は自分で考え、自分で選択して行動する、その習慣を身につけることでしょう。悪魔にささやかれて痛い思いをした私の実感です。

 −−東大の医学生時代、長崎原爆で被爆死した7歳の子どもの脳細胞を研究室で見て衝撃を受けたそうですね。
 加賀 あのような脳を見たのは初めてです。神経細胞がなく、戦後に見た廃虚、それも延々たる廃虚のような脳でした。原爆がこれほどすさまじく、異様で残酷なものかと思い知らされました。残酷な殺人としか言いようがない。
 後に原爆を落としたトルーマン米大統領の回顧録を読んだとき、さしてためらいもなく、むしろ誇らしげに投下命令を出しているのを知って、トルーマンは悪魔にとりつかれていたなと思いました。今もなお、原爆投下は正しかったと信じているアメリカ人が多いのは、悪魔のささやきに身を委ねているからだと、私は思います。

 −−戦後も66年を迎えましたが、この間の日本をどうみられますか。
 加賀 戦後の日本は戦争をしなかった、戦争によって一人の外国人も殺さなかった、だから平和国家だというのは間違いだと思います。朝鮮戦争、ベトナム戦争と米国の戦争に協力してきたではありませんか。平和を守っていると言いながら、21世紀になってもアフガン戦争、イラク戦争で米国に協力している。これでは真の平和国家といえず、憲法9条を守れていないのではないでしょうか。

 −−真の平和国家とは。
 加賀 日本という国は、あれだけの戦争をして、原子爆弾を落とされて、被害をこうむって、そうして平和憲法をつくったにもかかわらず、もっとも好戦的な国・アメリカの基地をたくさん抱えている奇妙な国なのです。日本列島が米軍の「不沈空母」であるかぎり、独立国としての自由は阻害され、平和国家としての外交活動も制限されるでしょう。だから日本人が真の平和主義を実行するための条件は、まず米軍基地をなくすことです』

(2011年1月24日付け毎日新聞大阪夕刊)
http://mainichi.jp/select/wadai/heiwa/talk/news/20110124ddf012070044000c.html

『国内総生産(GDP)は世界2位なのに、社会保障は先進国で最低水準。
 格差は拡大し、自殺者は年間3万人、うつ病患者は百万人を超える。
「本当に日本は不幸な国になった」と嘆く精神科医で作家の加賀乙彦さん(80)は、「この状況を脱するカギは米軍普天間飛行場にある」と言い切る。話を聞いた(立尾良二、書記)
 自分の意見 若者は持て
 加賀さんは、オバマ米大統領のノーベル平和賞受賞演説について「全く矛盾した言葉だった。『平和を守るために正義の戦いをすべきだ』と言ったが、ブッシュ前大統領と同じ。これでは日本人は憂うつになり、希望を失う。逆にいえば、日本は付き従っていた米国から、いまこそ自立する絶好の機会だ」と言う。
 現在、長編小説を執筆中で「昭和10年から始まり、戦後の独立、高度成長を経て、阪神大震災前にバブルが崩壊したころの状況をちょうど書いている。資料を調べているうちに、日本の不幸の始まりは1952年、日米安全保障条約の発効にあることを確信した」と振り返る。
 日本は同年、主権を回復するとともに、占領米軍の既得権をそのまま駐留米軍に認めた。「米軍基地と公共事業は関係がある。日本は防衛を米国に任せ、公共事業で高度成長を支えた。日本は米軍基地を通じて朝鮮戦争からイラク戦争まで加担したのだ。つまり日本の高度成長の裏には戦争がある」
 バブル崩壊後も、むだな公共事業を続けて環境を破壊し、小泉政権の「聖域なき構造改革」で社会保障を切り捨て、国民は勝ち組と負け組に二分された。「日本は大きな曲がり角に来ている。このままでは破滅する。この不幸を脱するにはどうしたらいいか。政権交代が実現したからこそ、根本的に考えるべきだ」と力説する。
 その試金石になるのが普天間問題という。「普天間を端緒に米軍基地をすべて撤廃すべきだ。防衛は自衛隊だけで結構。政治家もジャーナリストも『北朝鮮や中国の軍事的脅威から、米国が日本を守っている』『米国を怒らせたら大変なことになる』というが、全くの幻想だ。むしろ日本に米軍が駐留し続けているために、北朝鮮も中国も軍備増強に走る。米軍が日本から出て行けば、東アジアは平安になるのではないか」
 加賀さんの主張は自衛力強化と受け取られて「軍国主義者と誤解されるが、私は戦争体験者であり、戦争は絶対にいやだ」ときっぱり。「日本が米国に守られているのなら、日米関係は同盟ではなく、日本は米国の属国になる。事実上の属国であることが日本の最も大きな不幸だ」という。
 幸福な国を目指すには「経済的にも道義的にもきちんとした国になるべきだ。米国の力を借りずに、日本は自分の国でやれる時代に入ったと思う」と説く。
 その上で、若い世代に対して「米軍基地に象徴されるように、誰かに全部任せっきりにして、『分からない』『興味がない』と考えることを放棄したり、『どうせ何も変わらない』と行動する前からあきらめる習慣から脱却しよう。これからは自分たちで考え、自分自身の意見を持とう」と呼びかける』

(2009年12月25日付け東京新聞朝刊より)

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2011年07月06日

砂町銀座

 以下は2006(平成18)年1月18日(水)と言いますから、5年前になりますでしょうか、江東区砂町銀座商店街を岐阜県は多治見市商店街連合会が視察したときのリポートです:

下町の情緒を残す商店街、すなまちぎんざ(砂町銀座)。
 日本経済新聞2005(平成17)年2月5日で「訪れてみたい商店街」の3位にランクインした全国でも有数の商店街です。
 ちなみに1位は、巣鴨地蔵通り商店街、2位は横浜市元町、4位が小布施(長野県小布施町)、5位が吉祥寺サンロード(東京都武蔵野市)及びみやのかわ商店街(埼玉県秩父市)です。
 商店街に詳しい方なら、なぜ有名なのか思いつくところばかりですよね。
● 立地条件はかなり不利
 江東区にある砂町銀座商店街は、一番最寄り駅の地下鉄「西大島駅」からも徒歩で15分ほど歩かなくてはならず、交通の便はあまりよくありません。
 しかし、東京の下町の情緒があふれる商店街には、終日多くのお客さんが訪れ、生鮮品も一週間ですべて売り切ってしまうとのこと。
 地域の台所としての役割を担っていることが伺えます。

● 販促イベントで賑わいづくり
 商店街を歩くと鮮魚店、青果店、惣菜店などが非常に多いことに驚きます。
 日用品を取り扱う店も多く、低価格を訴求するPOPが店頭に並び、商店街内部での競争はかなり激しそうです。
 通りの幅は3.5mで非常に狭く、長さは670mあります。
 その中に、約180店の店が並び、その内50店が新しい店に変わったそうです。
 古くからあった店は売上不振から廃業したのではなく、すべて高齢化が原因とのこと。
 坪2万円の家賃はかなりの負担だと思いますが、空き店舗もすぐに埋まってしまうという商店街です。
 砂町商店街の一番の特徴は、豊富な販促イベントにあります。
 毎月10日に行われる「ばか値市」は、各店が思い切った値下げ商品で競争をします。
 そのほかには、歳末福引売り出し、砂銀七夕祭り、中元福引き大売出し、春の砂町銀座フェアなど、1年を通して地域のお客様に喜ばれる販促イベントが行われています。

● 縁日のような雰囲気づくり
 この砂町商店街の特徴は、店頭陳列にあります。
 陳列台は通りに大きく見える形で並べられており、歩道が狭いことも幸いして、商品の安さ、ボリューム感が前面に出ています。
 まるで縁日が行われているような雰囲気の商店街ですね。
 実は、こちらの商店街も百貨店の進出から一時衰退の危機もありましたが、徹底して地元密着型の経営を行うことで、地域顧客の支持を得ることができました。
 現在は、マスコミなどの取材も多く受けることから、知名度も向上し、賑わいに一役買っているそうです

http://www.chuokai-gifu.or.jp/syouten/17kennren/17sisatu-sunamati.htm

 いや、なに、あのね、その、今日7月6日水曜日はほら、七夕祭りの前夜祭、ということで、いつもの「スローフードと山の会」を夕方4時から開催したのですが、仲間が持参したのが、これ:
レアーでとろとろふわふわ、豆乳生チーズケーキ

 製造者は(株)篠崎屋(越谷市千間台西1-13-5 Tel 0120-167-102
 販売者は「三代目 茂蔵 豆富」砂町銀座直売所(直営店、江東区北砂3-30-10 川田ビル1F Tel 6458-6393)

 これが一番の好評で、ヤッホー君の手作りの「海老ご飯」にも「味噌汁」にも手をつけてくださる方はおりゃせんだ、は〜、良いや、良い!

 どこに「しげぞう」がおりゃっしゃるか、砂町良いとこ、一度は探しに行ってみらしゃんせ:
http://www.youtube.com/watch?v=I64SJOgt8Aw&feature=related
 また、砂町銀座商店街公式ウエブサイトはこちら、下↓参照:
http://sunagin.main.jp/

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2011年07月05日

智恵子飛ぶ

 津村節子の『智恵子飛ぶ』が1998(平成10)年度の芸術選奨文部大臣賞の文学部門に選ばれたと言いました(7月2日付け日記「レモン哀歌」)。加賀乙彦との同時受賞でした。
 
 『授賞式は平成10年3月26日に、上野の日本藝術院会館で行なわれた。昭和26年の学習院文芸部時代から、二人で芸術院の授賞式に出席するまで、48年の年月が経っていた

 半世紀近くも、作家を生業とする男と女がひとつ屋根の下で暮らしてきたのです。一体、どんなんだったろう、と思いませんか。津村節子と吉村昭は。しかし、智恵子と光太郎と違い、とてもあっけらかん、あけっぴろげ、風が吹き渡っています。

 智恵子と光太郎は、1914(大正3)年上野精養軒で結婚披露宴をあげたと言いました。津村節子と吉村昭は、1953(昭和28)年、おなじ上野精養軒で式をあげています。

 結婚後、節子は、『よく夢にうなされた。
 室内に液体が流れ込んで来て、それがくるぶし、膝、腰、胸と上って来る。
 黒い濃度のある液体は、肩から喉に達し、せいいっぱい背のびをするが容赦なく増え続け、頬まで浸してしまう。
 あるいは、脚に細い糸がついている。
 それを取ろうとすると、するするとのびる。
 糸は毛穴から生えていて、他の毛穴からも糸が生え、見る見るうちに毛穴という毛穴から吐き出されて糸で繭のように包まれてしまう。
 声を出そうと思っても出せないで苦しむ夢は、「智恵子飛ぶ(平成7-9年)」を書いた時に、絶望が深まって精神の異常をきたすようになる高村智恵子の夢として書いた


 あるいは浜辺で砂の上に文字を書き、人の目に触れることもなく、波が消し去ってしまうような気持ち、とも語っています。

 と、言う(書く)、言って(書いて)しまうことが津村節子を救った、とも言えなくもありません。

 1965(昭和40)年、津村節子が芥川賞をとると、夫の吉村昭はこう言ったそうです。

よかったなあ、おい、おれはおまえのヒモになるぞ
 
 そして『智恵子飛ぶ』の舞台化がすすむのです。
 2000(平成12)年新橋演舞場公演、智恵子は三田佳子、光太郎は平幹二郎でした。脚本は大西信行、演出は村上祐二。三田と平のコンビは「みだれ髪」で絶妙の演技を見せ、期待はふくれ上がったと言います。

ところが11月2日には幕が開くという10月27日明け方、夢うつつに聞いていたラジオで、「三田佳子降板」という言葉が飛び込んできた。
 三田の次男が覚醒剤取締法違反の容疑で逮捕されたという。
 もう幕が開くまでに1週間しかない…
 代役は片岡仁左衛門の二女片岡京子で、智恵子の妹役からの抜擢であった…
 スポーツ紙各紙に「代役片岡京子完ぺきの演技」「片岡京子涙の初日」「京子で満員御礼」などなどと大々的に報じられ、私は生れて初めてスポーツ紙というものに、主役二人と並んだカラー写真が掲載された。
 吉村はその写真を見て、「おまえ、道を誤るんじゃないぞ」と呆れていた


 以上、引用は、津村節子『ふたり旅ー生きてきた証しとして』(2008年、岩波書店)からです。
 とても良い本です、お買い求めの上ぜひお読みください。

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2011年07月04日

高村智恵子

 ヤッホー君は「長沼智恵子」と7月1日の日記のお題にしました。
 どうして「高村智恵子」ではなかったのか、自分でお題を決めていながら、いまだ考えあぐねています。

 ふたりが結婚したのは、1914(大正3)年2月22日。上野精養軒で内輪の者達によって披露宴がとり行われた、といいます。出席者は高村光雲の弟子達や与謝野寛・晶子夫妻、柳夫妻等だけであったそうな。

 光太郎の智恵子に捧げた愛の歌、光太郎が智恵子から得たインスピレーションは詩となっていて、いまだに感動を与えていますが、何か不満や不自然さや過剰さを感じてしまうのはヤッホー君だけ? 肝心の智恵子からの表現がさほど見当たらないのもなぜ? まだまだ背景を知る勉強が足りないのかも知れません。
 まるでヤッホー君が山に想い入れる感傷のときのよう。まるで片想い amour malheureux 返ってくるのは、ヤッホー君の叫ぶ声に応じる木霊だけ。山からの表現はないのにも似て。
 ふたりでつくる愛のかたちも、片方からしか聞こえてこず、片方は紙絵を残しただけ、というのも不思議で。

 いま手元に『オペラ智恵子抄台本(上演時間1時間30分)』があります。1989年10月6日が初演なのでしょうか。
原作 高村光太郎 
作曲 仙道作三
台本 山本鉱太郎
監修 北川太一


 コウタロウは光太郎でなく鉱太郎は、第一幕第二場で、(人々の合唱)結婚のワルツを次のように書いております:
  ほめよ、たたえよ 婚姻の喜びをうたえよ
  新郎と新婦と 手を取りたてり
  さかんなるかな
  新しき命は今 創められんとす
  新郎は力に満てり 新婦は愛に満てり
  ほめよ、たたえよ 婚姻の喜びをうたえよ

 
 ところがふたりは20年も経った1933年(昭和8)年8月にはじめて入籍しているのです。しかしその1年前、1932(昭和7)年7月15日に智恵子は未遂に終わりましたが、睡眠薬を飲んで自殺を図っています。
 サルトルとボーボワールの愛の関係ってなんだっけ。ところで。光太郎は『智恵子抄』でよく食べることをも詩のモチーフにしています:

  『私達の最後が餓死であらうといふ予言は…』(大正15年3月11日、「夜の二人」)
  『智恵子は貧におどろかない』(大正15年2月5日、「鯰」)
  『湯をたぎらして
   餓鬼道のやうに喰う我等の晩餐』
(大正3年4月、「晩餐」)
  『あなたの抱擁は僕に極甚の滋味を与へる
   此等はみな僕の最良のいのちの糧となるものだ』
(大正2年12月)
  『さあ 又銀座で質素な飯でも喰ひませう』(大正元年10月、或る宵)

 大正年間、よく食べる光太郎なのです。なにかヒントがあるのかな?もう少し読んでいきましょうよ、ね。

 それにしても鉱太郎のこの台本は深川図書館に寄贈されていたのですが、何で?と思ったら、現在は、千葉県流山市にお住まいになり、流山市立博物館友の会企画編集委員長をやられていますが、もともとは、1929(昭和4)年(智恵子の実家長沼家が破産、一家も離散する年)、深川は木場に生まれています。ということは父は材木商でした。
 江東区立明治小学校を出て1943年(この頃光太郎は、発足したばかりの日本文学報国会の詩部会会長でした)、東京都立第七中学校(現、都立墨田川高等学校))に入学sしますが、1945年3月10日 B29による東京夜間大爆撃で戦災に遭い、九死に一生の体験をします(光太郎は4月13日夜、駒込林町のアトリエが焼け落ち、ほとんどの制作、資料等を失います。智恵子の紙絵だけは焼失から護った、と)
 鉱太郎一家は、親戚を頼って栃木県足利に疎開する(光太郎は岩手県花巻町の宮沢賢治の実家に疎開します)
 
 そんな縁で、深川図書館に寄贈なさっていたのですね。オペラは最近ですと2006年10月14、15日にも日暮里サニーホールであったようですね。
 次回こそ、山歩クラブの仲間と連れ立って、観て聴いてみたいですね。

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2011年07月03日

智恵子抄

 まずは森昌子の1984年の歌声から:
http://www.youtube.com/watch?v=8gQ8d3JB0dg&feature=related

 そして、1960年代に活躍した、二代目コロムビア・ローズのヒット曲も:
http://www.youtube.com/watch?v=yVc6ra64SbU&NR=1
 原節子も顔をのぞかせています;
http://www.youtube.com/watch?v=HhmCH_GtAn4

 荒井真澄が朗読する『智恵子抄』の「あどけない話」も:
http://www.youtube.com/watch?v=ZCVkl9PEjH0&feature=related

★ 森昌子は1958年10月、栃木県宇都宮市生まれ。最近の活動日誌は下↓参照。
 <森昌子さんが初の台湾公演へ、支援に謝意> 2011年6月3日付け毎日新聞

7月の台湾公演を前に台北市内のホテルで会見した森昌子さん(52)、東日本大震災で170億円を超える義援金を集めた台湾の人々に対して「日本は台湾の皆さんの力を借りて復興の道を少しずつ歩んでいる。日台の友情のたまものです」と感謝した。
 森さんは東日本大震災の被災地を回り、慰問ライブを行っている。
 台湾からも寄せられた被災者への支援にお礼を伝えたいと考え、コンサート「2011台湾感恩之旅」を企画したという。
 デビュー40年を記念する初の海外公演に台湾を選んだ。
 この日の会見では、ヒット曲「越冬つばめ」をアカペラで歌ったほか、1995年に42歳で急逝した友人のテレサ・テンさん(台湾出身)が歌った中国語の「夜来香」をコンサートで披露できるよう練習していることを明らかにした。
 コンサートでは日本の四季の叙情歌や童謡を歌う。
 森さんは「日台の文化交流が深まることを願っている。私も台湾公演が楽しみ」と笑顔を見せた。
 コンサートは7月7、8日に台北国際会議センター、9日には高雄市現代化総合体育館(高雄アリーナ)で開かれる


★ 二代目コロムビア・ローズは1944年4月生まれ。初代の引退後、二代目募集オーディションにより応募総数3500人の中から選ばれた。
 1964年、「智恵子抄」で第15回NHK紅白歌合戦に出場するなど、初代に負けない勢いを誇った。
 1975年に渡米し、現在はロサンゼルスで歌手活動をしており、日本での活動も乞われれば行なっている、そうです。

★ 荒井真澄は宮城県塩釜在住のボイスパフォーマー。
3.11地震より11日目になりました。家は電気が6日前の夜、18日の夕方に水が復旧してずいぶん余裕がでました。今日ようやくインターネットが使えるようになりました。
 ソフトバンクのケータイはつかえますが、ウィルコムはいまでも圏外のままです。
 水がないうちは給水所と食料買い出しで一日が暮れて、メールの返信もままならない状態でした。

 私の家族、親戚、友人は今のところ全て無事でした。フェンスにつかまって津波より生還した叔父や、家を流された親戚はいますが、とにかく命は助かりました


今日7月1日は新月、おつきさまがふくらみはじめる日。そして今年の後半戦もスタートの日、となりました。
 スタートには一番佳い日ですよね♪
 そんな日に、ある方とこれからのことをミーティングしました。朗読の計画です。

 震災当初は朗読しようという気持ちになかなかなりませんでした。あまりにもすごい現実をつきつけられて。
 でも今は、強烈に朗読したいのです。
 なによりも朗読したい。
 気持ちはすっきりしています。
 すぐにというわけにはいきませんが、時が満ちその時は来ると。
 新月に願いをかけましょう

http://geocities.yahoo.co.jp/gl/happyhappypockets/view/201107

 そして、締めは高村光太郎『智恵子抄』「亡き人に」の朗読を画像とともに:
http://www.youtube.com/watch?v=ET5qeFFbX-8&NR=1

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2011年07月02日

レモン哀歌

『智恵子は日本女子大を卒業した頃に肋膜炎(結核)に罹りました。
 52歳で亡くなった死因は粟粒結核と言われます。
 結核は智恵子が画家として力を振るう妨げとなっていたようで不幸なことです。
 もう一方、智恵子は45歳頃から幻覚妄想、精神運動興奮、時に著しい退行を示す精神病に罹ります。
 日本医大の初代精神医学教授であった斉藤玉男先生が開かれた大井町のゼームス坂病院にて、1938(昭和13)年10月に亡くなるまで入院治療を受けました。
 診断は統合失調症でした。
 遅い発病、赤児同然の退行した状態と綺麗な色彩の切り絵を作ることのできる状態など変化にとんだ病像は非定型的だと思われます。
 遅い発病の分、智恵子の発病には明確な心因が見受けられます。

 一つは実家の破産と没落で1929(昭和4年)、43歳時のことです。
 もう一つは画家として光太郎から尊敬されるようになりたいという夢が破れたことだと思われます。

 「智恵子抄」は智恵子の死後に光太郎が書いた智恵子との心の交流日記ですが、光太郎にとって智恵子のあどけなさ、純真さが魅力であったことが示されているものの、画家としての力への尊敬は見えてきません。
 光太郎は智恵子にとって越えられない壁でした。
 亡くなる前、ゼームス坂病院入院中に千代紙や広告の切れ端を使って智恵子が作った切り絵は色彩の美しい綺麗な作品です。
 智恵子は光太郎に見せるためにだけ切り絵を作ったようです。 回診の時に主治医に見せることを拒んでいる程です。
 光太郎は切り絵を見てとても良くできていると感心し智恵子を誉めています。
 智恵子にとっては切り絵により、画家として光太郎から尊敬されるようになりたいという夢がやっと叶ったのでした

(福島医大神経精神医学講座教授丹羽真一先生から一陽会病院への寄稿です。丹羽教授は、1992(平成4)年に東京大学より福島医大に着任し、専門の精神医学・心身医学のみならず、福島県の歴史にも大変造詣が深い先生です)
http://www.ichiyo.jp/

 智恵子は光太郎より愛される以上に、きっと芸術家としても自立したかったのかも知れません、そして多分、没落した実家の再建、復興を願っていたのかも知れません。
 
 芸術家同士のカップルの愛のかたちを綴った名作に津村節子『智恵子飛ぶ』(講談社文庫、2000年)があります。この作品は1998年、芸術選奨文部大臣賞を受賞しています。
 作者の津村節子(1928年生まれ) は、このようにふたりの愛のすがたを描いています;

自分を全面的に理解してくれる智恵子の愛と尊敬を生命の糧として仕事に打ち込み、その歓びに高揚していた光太郎は、智恵子の心の奥に押し籠められた焦燥と失意には気づかなかった。
 光太郎は、汚れ果てた自分の目の前に現れた純粋無垢な智恵子を審判官とあがめ、自分の為に生れた女性として理想化し讃え続けてきたが、生身の智恵子は、光太郎の描く智恵子に自分を合わせることに疲れてしまったのであった


 1938(昭和13)年10月5日夜、智恵子が光太郎の持参したサンキストのレモンの一顆に歯をたてて、すがしい香りと汁液とに身も心も洗われながら、「きわめて静かにこの世を去った「ゼームス坂病院」は、品川区大井町駅近くのゼームス坂の途中にあったのですが、いまは、その跡地に記念碑、「レモン哀歌の碑」が建てられています:

そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
私の手からとつた一つのレモンを 
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ 
トパアズいろの香気が立つ 
その数滴の天のものなるレモンの汁は 
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関ははそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう

(高村光太郎『智恵子抄』1999年角川文庫版、この詩は「目次年表」によると智恵子の亡くなった翌年1939年、昭和14年2月23日の作)


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2011年07月01日

長沼智恵子

 安達太良山も歩き終え、立ち寄り湯で「除染」もし、さあ、帰京か、というその前、田部井さんのおっしゃったお土産をどっさり買うことを忘れないように、われわれは、岳温泉・佐藤物産館に寄りました。
 「佐藤物産館(二本松市岳温泉1-14、Tel 0243-24-2504)」のウエブサイトはこちら、下↓:
http://www7a.biglobe.ne.jp/~satoubussan/
 だって信長さまが、ここは保証しますっていうんだもん。

 このウエブサイトには佐藤物産日記もあります:
皆さんご無事でしょうか?
 一昨日の地震で岳温泉もかなり揺れましたが、幸いにも建物の大きな倒壊などは起こっておらず道路の状況も、目立った損壊はありませんでした。
 温泉も入れるところがありライフラインも復旧しております。
 断水などでお風呂に入れない方はぜひ

(大地震岳温泉現状2011年3月13日21:37更新)

 ヤッホー君がいのいちばんに買い求めたのはもちろん地酒。
 「奥の松」です(二本松市長命69 Tel 0243-22-2153)。ウエブサイトはこちら、下↓:
http://okunomatsu.co.jp/index.php
この度の東北地方太平洋沖地震では、亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、被害にあわれた方々に心よりお見舞い申し上げます。
 お蔭様で破損しておりました瓶詰ライン、パック詰めラインも予想以上に早く復旧し、商品の出荷が可能となりました。
 しかしながら、まだ平常の70%程度の稼働率にとどまっているのが現況で、出荷状況によっては品切れとなる商品がございます。
 お客様にはご迷惑をお掛け致しまして大変申し訳ございませんが、完全復旧に向け努力を重ねて参りますので、今後とも宜しくお願い申し上げます


『「奥の松」は福島の地酒としての誇りを込めて奥州二本松の「奥」と「松」から命名されました。
 日本酒造りでの質へのこだわりを貫き、100%自蔵で精米して290年余年、19代の長い歴史は、積み重ねられた皆様の信頼の証であると奥の松は考えます


1346(正平元)年南北朝の頃、足利尊氏の一族で、文武兼備の名将、畠山高国は奥州探題に任ぜられ、二本松に居を構えました。その畠山家に家老として仕えていたのが当主の祖先でした。1586(天正14)年畠山家は伊達政宗に滅ぼされ、当主は二本松に土着し、その後、商家として繁栄。1716(享保元)年に酒造りを開業、また味噌・醤油も商う一大製造業を始めました。明治維新の後、いわゆる千石酒屋として繁栄し、昭和初期、16代伊兵衛の頃、1933(昭和8)年の全国品評会優等賞受賞を皮切りに、名誉賞盃を連続受賞し、「伊兵衛の吟醸蔵」と呼ばれるまでとなったのです

 ところで、ヤッホー君の目には「阿多多羅山の山の上に出ている天空」があったし、二本松の酒造り、というイメージがこびりついていました。

今しずかに振りかえって彼女の上を考えて見ると、その一生を要約すれば、先ず東北地方福島県二本松町の近在、漆原という所の酒造り長沼家に長女として明治49年に生まれ、土地の高女を卒業してから東京目白の日本女子大学校家政科に入学、寮生活をつづけているうちに洋画に興味を持ち始め、女子大学卒業後、郷里の父母の同意を辛うじて得て東京に留まり、太平洋絵画研究所に通学して油絵を学び、当時の新興画家であった中村彝、斉藤与里治、津田青楓の諸氏に出入りしてその影響をうけ、又一方、その頃平塚雷鳥女史等の提起した女子思想運動にも加わり、雑誌「青鞜」の表紙画などを描いたりした

…高村光太郎「智恵子の半生」、高村智恵子『智恵子紙絵』(1993年ちくま文庫版所収)、さらに『私たちはどう生きるかシリーズ第9巻』(ポプラ社、1959年)にも収められており、それによると執筆したのは、1940(昭和15)年9月とあります。

 高村光太郎が、智恵子が「郷里の父母の同意を辛うじて得て東京に留まり」とあるのは、深い訳がございまして、これも「智恵子の半生」では次のように述べられています:

1914(大正3)年に智恵子との結婚をゆるしてもらうように両親に申し出た。両親もゆるしてくれた。両親のもとにかしずかず、アトリエに別居するわけなので、土地家屋等いっさいは両親と同居する弟夫婦の所有することにきめておいた。わたしたちふたりはまったくはだかのままの家庭を持った。もちろん熱海行きなどはしなかった。それからじつに長い間の貧乏生活がつづいたのである

 この智恵子の生家は造り酒屋、これが『奥の松』とうる覚えにしていたのですが、実は違っていました。そりゃ、そうですよね。つぶれたんですが、それも智恵子のこころの病の一因になったのでした:

彼女の弟である実家の長男は、かなり常軌を逸した素行があり、そのためついに実家は破産し、かれ自身は悪疾をも病んで陋巷に窮死した
(同「智恵子の半生」)

智恵子が愛してやまなかった「ふるさと安達」
 その純朴さを残す町並みの中に智恵子を育んだ「生家」が当時の面影をそのままに甦りました。
 明治の初期に建てられた生家には、造り酒屋として新酒の醸成を伝える杉玉が下がります。
 屋号は「米屋」、酒銘「花霞」。
 二階にある智恵子の部屋からは今にも智恵子が降りて来そうな気配が漂います

(二本松市智恵子記念館、二本松市油井字漆原町36、Tel 0243-22-6151)
http://www.city.nihonmatsu.lg.jp/kanko/chieko/seika.html

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