2020年01月29日

子規没後の次の百年作り

 野球好きだった俳人の正岡子規(まさおかしき)はベースボール用語を日本語に訳した。
 打者、走者、四球……。
 これらは今も使われている。
 自身の雅号も幼名の「升(のぼる)」にちなんで「野球(のぼーる)」と名付けた。

 東京の上野公園に「正岡子規記念球場」という野球場がある。
 1890(明治23)年、子規はここで野球の試合をした。
 野球が日本に紹介されてまだ歴史の浅い頃である。
 時代は移り、令和になって最初となる高校野球甲子園大会が2019年8月6日に始まる。

 同じ甲子園でも、こちらは俳句甲子園だ(ヤッホーくん注1)。
 子規の故郷、松山市で2019年7月17日から開かれる。
 地方大会を経た全国の高校生たちが5人1組で俳句の出来栄えや鑑賞する力を競う。
 今年で22回を数える。
 真剣勝負が繰り広げられるのは高校野球と同じだ。

 このところ俳句がブームだ。
 芸能人らが俳句を作って昇格を目指すテレビの人気バラエティー番組「プレバト」の影響が大きいようだ。
 先生役の夏井いつきさん(ヤッホーくん注2)も松山市在住の俳人である。
 俳句甲子園の創設にも関わったという。

 若い人が俳句に親しむのを子規もきっと喜んでいるだろう。
 上野公園に近い住宅街には、子規と家族が暮らした「子規庵」が残る。
 仲間と語り合い、庭を眺めながら俳句を詠んだ畳の部屋に座れば同じ空気を吸っている感覚になれる。
 子規庵には今も多くの若者が訪れる。

 令和の時代も、それぞれの甲子園で高校生が躍動する。
 そこにある青春のまぶしさが、見る者を引きつける。

夏草や ベースボールの人遠し

(子規)


毎日新聞・東京朝刊、2019年7月26日
[余録]
野球好きだった俳人の正岡子規は… 
https://mainichi.jp/articles/20190726/ddm/001/070/176000c

(ヤッホーくん注1)第22回俳句甲子園全国大会

「今までになく柔らかい」

 多くの審査員が高く評価した。
 2019年8月18日の第22回俳句甲子園全国大会で初優勝した弘前(青森)のディべート。
 相手の句を受け止めて分析する力と、主張を譲らない心の強さを持ち、好勝負を演出した。

 決勝戦の相手、名古屋B(愛知)の句「白靴のかろやか新曲をかけて」。
 弘前は「非常にきれいで軽やかな景。白靴の弾むような感じが伝わる」と受け止めた上で、句を突き詰める。
 白靴と新曲は言葉が近いのではないか。
「かろやか」と「かけて」はなぜ平仮名なのか―。

 名古屋Bも6年連続6回目の出場で優勝経験もあるだけに、負けてはいない。

「漢字、ひらがな、漢字、ひらがなで表記しリズミカルな歩みを表現した」

 いい質問で句の魅力が引き出され好勝負となった。
 過去には、相手句の欠点の指摘し合いになりがちともいわれた俳句甲子園。
 弘前のディベートに審査員の評価は高く、俳人夏井いつきさんは「しなやかなのに、したたかなのが魅力」と絶賛。
 名古屋Bに対しても「即座に相手の句を分析して素晴らしい」とたたえ、濃密な議論を喜んだ。
 弘前の部長武田鮎奈さん(18)は、自分たちの句も各チームに素晴らしい鑑賞をしてもらったと喜び、
「仲間と『楽しい、楽しい』と言いながら過ごせた大会。1勝が目標だっただけに恵まれている」と笑顔だった。

 名古屋Bのリーダー、2年の斎藤壮人さん(17)は、
「悔いはない。決勝という場で戦えたこと、たくさんの人に句を見てもらえたことがうれしくて、すがすがしい」と胸を張った。


[写真]
俳句甲子園決勝戦で、3ポイント連取で初優勝し喜びに沸く弘前チーム(青森)=18日午後、松山市湊町7丁目

愛媛新聞、2019年8月19日(月)
分析と心の強さ 高評価
初V弘前(青森)のディベート 句の魅力を引き出す

https://www.ehime-np.co.jp/article/news201908190065

(ヤッホーくん注2)夏井いつき

「いつき組」は「広場」である

 例えば「結社」は「家」だ。
 そこには「主宰」という「家長」がいて、「文学的主義主張」という名の「家訓」があったりする。厳格かつ保守的な「家」もあれば、自由奔放な「家」もあって、「俳句修行」という名の「躾」をきちんとする家もあれば、「自由な表現」という名の「放任」をモットーとする家もある。そこに集うのは「誌友」「同人」という名の家族契約を結んだ人たち。「家長」である「主宰」を尊敬し、師と仰ぐ人たちだ。

 それに対して『いつき組』は「広場」だ。
 広場だからいろんな人が出入りする。
「結社」という名の「家」に自分の居場所を持っている人が「広場」での交流も楽しいもんだとやってくることもあれば、「家」というものの存在すら知らないまま『いつき組』という広場で俳句を楽しみ始めた人もいる。
 ふらりと現れ、ふらりといなくなり、久しぶりに「広場」に顔を見せたかと思ったら「この度、こんな『家』に所属することになりました」なんて、自分の作品の載ってる本を見せてくれる人もいる。
「別の町へ引っ越すことになったんですが、私の俳句に合った『家』を紹介してもらえませんか」なんていう人もいるから、あそこの町にはこんな「家長」がいるよ、あなたにはあの「家長」がいいかもね、とアドバイスすることだってある。

 私は、いわばその「広場」をアジトとしてる住人。
 気が付けば「組長」と呼ばれていたから、ちょっと態度がデカかったのかもしれない。
「広場」には、そもそも「家」のような序列もなければ、積み上げていくべき地位もない。
 野ざらしだから、俳句の世界で生きていくとすれば、なかなかにキビシイ状況下に置かれているともいえる。
 が、面白い作品を見せてくれる人には、広場中の歓声と拍手が集まる。
 無条件で賞賛される。
 それが快感なものだから、皆、この野ざらしの「広場」で、己の力を磨きあったりする。
 それもまた楽し、というヤツだ。

「広場」であろうが、「家」であろうが、表現者である以上、その評価は17音の作品が全てだ。
 たった17音、そこが潔くていい。
 それ以外の余計なモノが、作品評価を捻じ曲げたり、過大評価される原因になったりってのは……どうも性に合わない。
「広場」に住んでいようが、「家」を持っていようが、作品の評価には一切関係はない。
 佳い作品を作る、それが全てだ。

「夏井いつきの100年俳句日記」2009年10月6日記事より抜粋

「広げる」ことと「高める」こと

 正岡子規がなくなって百年経ちました。
 私は子規没後の次の百年作りをしたい。
 日本には平安時代から和歌っていうのがあって、俳句は和歌の五七五七七の雅な世界から俗のエネルギーを抽出して、その俗のエネルギーを核にして生まれた文学なんです。
 俳句っていうのは俗のエネルギーがふつふつと湧いてくる、猥雑さも全部呑み込めるような文学だと思うのです。
 私はたまたま俳句の歴史のなかで、この時代に、たまたま生まれ合わせたわけですよね。
 この時代の私に出来ることはいったい何なのかって考えたときに、もう一度俳句をたくさんのひとたちの前に開いてみせたい。
 私にだって俳句を楽しめる、俳句のある人生がどんなに素敵な人生なのか、前向きに明るく好奇心いっぱいに生きられる。
 どんな辛いことがあっても、それを俳句にしたら生きて行ける。

 もちろん裾野を広げる中で天才が出てきてくれたらうれしいよ。
 次の百年をになう新しい俳人が出てきてくれたらそれはうれしいけど、一人の天才を見つけるためにやってるんじゃないんです。
 たくさんの人たちに俳句のある人生を味わって貰いたい。

「夏井いつきの100年俳句日記」2012年1月1日記事より抜粋/「夏井いつきの一句一遊」2004年放送分よりの聞き書き


いつき組長あいさつ
https://www.natsui-company.com/leader/

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2020年01月28日

井上ひさしの『頭痛肩こり樋口一葉』

『頭痛肩こり樋口一葉』(以下『頭痛』と略す)は、井上ひさし(1934–2010)が自分の作品を上演するために作った「こまつ座」の旗揚げ公演に備えて1984(昭和59)年、作者50歳の年に執筆した戯曲である。

 初演の演出は木村光一、音楽は宇野誠一郎が担当し、それ以来何度 も再演を繰り返している人気作である。
 こまつ座だけでも8回再演しているほかに、他の劇団でも取り上げているので(劇団新派や松竹など)、上演回数はかなり多い。
 音楽劇としての魅 力と、女性だけ6人の登場人物たちの人生模様の切実さが観客の興味を引いているようだ。
 それゆえ井上ひさしの代表作といってよい評価がされている。

 1934(昭和9)年に左翼の活動家である父修吉、看護師見習いの母マスの次男として生まれた井上ひさしは、丸谷才一の弔辞の表現を借りるなら、「プロレタリア作家」である。
 昭和初年のプロレタリア作家が「知識人が大衆を指導する」ようにではなく、「シェイクスピアがしたやうに、あるいはブレヒトと同じやうに、知識人は知識人なりに楽しめ、大衆は大衆なりにおもしろがることができる芝居を書いた」(注1)という丸谷の評価は、この劇作家の本質を捉えたものである。

(注1)丸谷才一『あいさつは一仕事』朝日文庫、2013年、p. 48–49。
 この分類は1930年代の日本文学を芸術派、私小説、プロレタリア文学の3つに分類した平野謙にならったもので、丸谷は、芸術派には村上春樹、私小説派には大江健三郎を分類している。

 井上がその初期からこの二人の演劇の巨人たちの影響のもとに戯曲の執筆をしたことは、1972(昭和47)年に第17回岸田國士戯曲賞を受賞した『道元の冒険』をはじめ、翌年の『藪原検校』や『天保十二年のシェイクスピア』などから見てとることができ、そこでは シェイクスピアとブレヒトの作劇術を巧みに採り入れている。

『頭痛』の執筆はそうした初期から中期へと移る時期に当たっている。
 戯曲全集である「井上ひさし全芝居」全7巻でも、第3巻(新潮社、1984年7月)の最後に載せられており、初期の試行的時期のあと、井上演劇の円熟期の到来を告げる位置づけができる。
 初期の代表作である『雨』や『藪原検校』 などの戯曲にこめられたドラマトゥルギーはすでにこの劇作家の演劇的仕かけの巧みさを証明しており、『頭痛』にもその流れがつづいている。

 そしてその後の『化粧』、『父と暮せば』、『きらめく星座』、『シャンハイムーン』、『黙阿弥オペラ』、『太鼓たたいて笛ふいて』などの人気作には井上演劇の到達地点が如実に示されている。

井上ひさしと樋口一葉

 井上ひさしは『頭痛』の中で樋口一葉(劇中では夏子)をどのような人物として描こうと考 えたのであろうか。

 一葉は五千円札の顔として知られ、国語の教科書に載っていたりするので、日本人で知らない人はいないくらい有名な作家である。

 作家として作品を残した時期は短く、19歳のときに小説家になろうと決心し、22歳から24歳までの2年に満たない間に傑作を続けざまに発表して一躍有名作家になった。

 島崎藤村、上田敏、幸田露伴、森鷗外などに評価され、天才と呼ばれるに至った。
 夭折しているだけに、「もっと長生きしてさらなる傑作を書いてほしかった、まさに薄倖の 女性だ、可哀そうだ」と、とかく考えてしまう。

 しかしこの戯曲を書いた井上ひさしはそうは 捉えていない。

〈一葉ほど幸福な人は珍しい、天分と努力によって小説家としての絶頂をきわめた、代表作を書きあげてすぐに死ぬのが作家としての理想の死である、小説家としての最大の不幸は代表作を書きあげたあと二十年、三十年と生きつづけなければならないことだ、太宰も三島も川端もその宿命を回避しようとして自分の生涯に自分で幕を下ろしたのだ、仮に一葉 が百歳まで生きても『大つもごり』、『たけくらべ』、『にごりえ』、『十三夜』を超える小説を書けなかった、文語文の頂点を極めたが言文一致体の口語文では『にごりえ』のような緊密なリズムを出せなかった、だから死ぬべきときに死ぬことのできた幸福な作家なのだ〉と(注2)。

(注2)井上ひさし・こまつ座編著『樋口一葉に聞く』(文春文庫、2003年、p. 32–35参照)

 作家らしいシニカルな視点で井上ひさしは樋口一葉の作家人生をこう捉えたのである。
 なるほどそうかもしれないし、そもそも過ぎ去った過去を「もし」と仮定しても意味はない。
 だから井上は一葉を「可哀そうだ、薄倖だ」と悲劇のヒロインにしようとしてはいない。

 中島歌子の塾「萩の舎」での小間使い同然の扱いも、半井桃水に恋い焦がれながら、戸主であるがゆえに嫁に行くことができず添い遂げることができなかったことも、可哀そうだという視点で描いていない。
 むしろそうした経験を小説を創作する元手にすることができたと肯定的に考えている。

 そのように考えると『頭痛』があっけらかんとカラッと描かれているわけが分かる。
 樋口家を盆礼に訪れる鐄や八重など、それぞれの登場人物が苦労をして逆境に陥るのも笑いのネタとして扱われ、その笑いが劇にテンポを与え、観客に登場人物に同化するのではなく、彼女たちの生き方の意味を考えるように仕向けるのである(注3)。

(注3)『頭痛』執筆当時の井上ひさしの妻西舘好子によると、最初の題名は『なんだ坂、あんな坂』というものだったと言う。
 それが明治の女を象徴するものとして「頭痛肩こり」に変わった経緯も明かされている。
 遅筆で原稿が上演に間に合わないことの多かった井上ひさしだが、この『頭痛』の場合は舞台稽古にぎりぎり間に合ったようだ。
 チケットも発売開始2時間で売り切れとなり上演も成功した。
 ……西舘好子『表裏井上ひさし協奏曲』(2011年、牧野出版、p. 281–285参照)

 樋口一葉は1872(明治5)年旧暦3月25日(新暦5月2日)に東京府第二大区一小区内幸町の官舎に父樋口則義、母多喜の第5子(次女)として生まれた。
 父の則義は甲斐の国、現在の山梨県に農民の長男として生まれたが、1857(安政4)年に多喜を伴い、駆落ち同然に江戸に 出た。
 伝手を頼って武士階級に接近し、維新直前の慶応3年に御家人の株を買って八丁堀同心となった。
 苦労をして農民から武士へと身分をあげたが、翌年幕府の滅亡によってその努力の成果を失った。
 それでも維新後は東京府の役人になり、警視庁などに勤務した。
 母の多喜は長女ふじを出産後に、劇中に出てくるように旗本稲葉大膳の娘鐄の乳母として奉公した。
 一葉が15歳のときに長兄泉太郎が、17歳のとき父則義が病没した。
 長兄は秀才で期待の星だったが、若くして死んでしまい、父親の則義はその後は希望を失い、気力をなくしてしまって病に斃れたのであった。

『頭痛』で描かれるのは父の死の翌年1890(明治23)年、一葉が18歳になる年からである。
 生活が苦しく、次兄の虎之助が母との折り合いの悪さから家を出てしまった時期である。
 一葉は14歳で歌の塾「萩の舎」に入門していたが、父や長兄が死んでしまい、次兄はあてにならず、長女は結婚して家を出ており、彼女が相続戸主としての役割を求められる立場になった。
 家制度の中で戸主として家に残らねばならないため、他家に嫁ぐこともできず、婿を取るしかない立場となったことは一葉の人生航路を大きく決定した。

 父の死後、家計が困窮を極めていたので一葉は歌の塾「萩の舎」に内弟子として入り、住み込みで師匠の雑用をした。
 しかし和歌では生活できないことを知り、小説で身を立てようとする。

 妹邦子の同級生の中に、兄に小説家半井桃水を持つ女性がおり、その伝手で桃水に小説を師事することになる。
 一葉は半井桃水に出会ってすぐ一目惚れしてしまうが、彼女は戸主であったため、婿取りしかできず、結婚は不可能だった。
 ただ、二人は冬の雪の日に結ばれたのではないかという説がある。
 しかし桃水は別の女性に子供を産ませたという噂もあり、遂には絶交となった。

 桃水と出会う前に一葉は、父の生前に17歳で一度婚約している。
 相手は渋谷三郎という、のちに早稲田大学の法学部長や県知事にまで出世した男だが、一葉の父の死後樋口家の借金の多さに驚いて一方的に婚約を破棄してきたのであった。
 のちに一葉が20歳のときに復縁を求めてきたことがあったが、これには一葉の方が応じなかった。

 もう一人22歳の一葉に近づいた男がいて、それが久佐賀義孝である。
 久佐賀は占い師で一葉が小説だけでは生活ができないので借金の申し出をした。
 すると、単なる付き合いだけでなく、深い関係も求めた。
 ついには「妾になってほしい」と要求したというが一葉はこれを拒絶している。

 三人の男性との交際はいずれも一葉にとっては不本意な結末となったが、それが彼女の創作にはむしろ深みを与えたと考えることもできる。

 さらには当時の男性中心の社会への眼差しをより鋭いものとしたであろうことも十分に想像できることである。
 久佐賀とのことがあった1894(明治27)年の12月に一葉は突然小説で傑作を生み出しはじめる。
 まずは代表作の一つ『大つごもり』である。
 それからの14ヶ月は「奇跡の14カ月」 と言われ、翌年1895年1月からは『たけくらべ』を「文学界」に連載しはじめ(1896年まで)、9月には『にごりえ』、12月には『十三夜』をともに「文学倶楽部」に発表した。
 こうして小説家としての評価が高まり、一葉は「明治の紫式部、清少納言」と褒めそやされるようになる。
 森鷗外、幸田露伴、佐藤緑雨らが雑誌で絶賛し、川上眉山、平田禿木や上田敏らが一葉の家を訪ねてきた。

 しかし1896(明治29)年の11月23日に一葉は24歳で結核のため死亡した(注4)。

(注4)前掲書『樋口一葉に聞く』p. 76–149参照

京都産業大学論集、人文科学系列、2016-03
女性6人のドラマ
井上ひさしの『頭痛肩こり樋口一葉』

(時田浩)
AHSUSK_HS_49_267.pdf

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カジノ法、明治天皇も怒っている!

 ねえ、ねえ、安倍総理大臣が日本の各地に導入したがっている「カジノ」!
 でもね、これって安倍総理大臣が戻そうとしている明治時代にもあったの?

大門実紀史・共産党参院議員
(刑法で)賭博が禁じられてきた理由の一つは、勤労の美風を損ない、経済活動を阻害することにあります。
 立法事実は江戸時代末期にさかのぼります。
 資料によれば、江戸後期から末期にかけて、世相は乱れ、町の辻々で昼間からばくちが行われ、博徒がはびこっていた。明治維新になって、「新しい日本の建設、経済発展のためには、まず賭博撲滅、風俗矯正だ」ということになり、明治天皇のもとで定められた刑法において厳しく賭博を禁止することになったのです。

 こういう最初の立法時の趣旨を知った上で、自民党の皆さんは「カジノが経済の目玉」などとのんきなことを言っているのでしょうか。
 明治天皇も雲の上で怒っています。
「共産党、頑張れ」と言っているのではないでしょうか。
(カジノ解禁法案を可決した2016年12月14日の参院本会議の反対討論で)


朝日新聞、2016年12月14日 22時53分
共産・大門氏
「カジノ法、明治天皇も怒っている」

https://www.asahi.com/articles/ASJDG771CJDGUTFK02C.html

 ヤッホーくんのこのブログ、次の日付の日記の再読、周囲の皆さんへの拡散をお願いします:
☆ 2015年02月04日「福徳神社(芽吹神社)」
☆ 2016年11月05日「きのうTPP強行採決」
☆ 2016年11月30日「自公維、年金カット法案強行」
☆ 2016年12月01日「カジノ献上で売国まっしぐら」
☆ 2016年12月01日「日本を売り渡す」
☆ 2016年12月09日「2016年12月8日」
☆ 2018年07月10日「カジノ法案は、安倍首相からトランプ大統領への“貢ぎ物”」
☆ 2018年07月11日「豪雨災害対策の不手際」
☆ 2018年07月16日「早稲田大学、水島朝穂の”直言”」
☆ 2018年07月21日「山本太郎が安倍政権の被災地無視に吠えた!」
☆ 2018年11月20日「外国人技能実習生の失踪データの誤り」
☆ 2019年02月14日「政治とニッポンの行方」
☆ 2019年11月15日「共産・大門氏”世界の流れは庶民増税でなく減税”」
☆ 2019年12月27日「放置国家なのか、法治国家なのか、秋元司逮捕から見えてくるもの」

 今日は、再度、復習:

 刑法が禁じる賭博場であるカジノを解禁するカジノ実施法の成立が参院本会議で強行されました。
 西日本豪雨被害が拡大するなか「カジノよりも災害対応を」と求める国民の声を無視し、反対の世論を踏みにじり、問題だらけの法案を強引に押し通した安倍晋三内閣と自民党、公明党、日本維新の会の暴挙に強く抗議します。

史上初の民間賭博解禁

 カジノ合法化は、2014年5月にシンガポールのカジノ施設を視察し「日本の成長戦略の目玉になる」とのべた安倍首相の異様な執念で進んできた話です。
 国際会議場や展示場、ホテルやエンターテインメント施設を併設した統合型リゾート(IR)を建設することで、国際観光振興、地域経済振興、雇用や税収の増を図るというのが「表看板」です。
 しかし、IRの「収益エンジン」となる中核施設はカジノです。
 いくらIR法と言い換えようとカジノ解禁法であることは隠せません。

 カジノは、これまで日本では絶対に認められることがなかった民間賭博です。
 民間の事業者が、私的な利潤追求のために、賭博を開帳する自由を与えたのです。
 これによってアメリカなど海外のカジノ資本が日本に乗り込む道を開いたというのがことの本質です。

 首相が視察したシンガポールのカジノ施設を運営する米カジノ大手ラスベガス・サンズのシェルドン・アデルソン会長は「シンガポール進出はウオームアップだった」とのべ、日本のカジノへの1兆円規模の投資を公言します。
 1800兆円とされる個人金融資産をもつ日本にカジノをつくれば、初期投資はすぐに取り返し、ぼろもうけできるのは確実というのが海外カジノ資本のもくろみです。

 今回の実施法に先立つ「カジノ解禁推進法」(2016年12月成立)の提案者議員5人全員が、米カジノ企業のコンサルタントからパーティー券購入の形で資金提供を受けていた事実が浮上しました。
 海外カジノ企業は長い時間をかけ、人も金も惜しまずに、日本のカジノ解禁への地ならしを進めてきたのが実態です。
 その意に従った「最も悪質な売国法」を絶対に許すわけにはいきません。

 深刻な懸念があるギャンブル依存症の拡大について、安倍首相は「(賭博の)機会は増えるが、今までなかった依存症対策を行うので、全体数は減っていくと期待している」と答えました。
 無責任な態度です。
「世界最高水準のカジノ規制」(首相)をいいながら、中心となる日本人客の入場「制限」は1週間に実質6日間の滞在を可能にしており、入り浸ることができる穴だらけのものです。

 ギャンブル依存症拡大の“ガソリン”ともいわれるカジノ事業者による賭博資金貸し付けなど、客を深くのめり込ませ、カジノ事業者のもうけを最大化する「悪徳の仕掛け」が満載の制度設計です。

不幸の上の繁栄あり得ぬ

 市民団体「全国カジノ賭博場設置反対連絡協議会」が2018年7月20日、国会前で開いた集会では、
「人の不幸を前提の経済政策はあり得ない」
「全国どこにもカジノをつくらせぬたたかいを広げる」
という決意が口ぐちに語られました。

 カジノ開設への今後の具体的な動きに対し、「賭博国家」を許さないたたかいを、さらに巻き起こすことが重要となっています。


しんぶん赤旗・主張、2018年7月21日(土)
カジノ法成立強行
日本のどこにも賭博場いらぬ

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik18/2018-07-21/2018072102_04_1.html

 カジノを中核とする統合型リゾート(IR)事業への中国企業の参入をめぐり、昨年末に秋元司衆院議員・元内閣府副大臣(IR担当)が収賄容疑で逮捕され政界に激震が走る中、年が明け、疑惑が一気に拡大しています。
 自民党や日本維新の会の5人の衆院議員に100万円前後の金が中国企業から渡ったと、贈賄容疑で逮捕されている中国企業関係者が供述していることが判明(2020年1月4日)。
 供述では、秋元氏が300万円を受け取ったとされる2017年9月末ごろ、自民党の岩屋毅前防衛相や日本維新の会の下地幹郎衆院議員らにも、100万円前後の金を渡したとされています。

 疑惑がどこまで広がるのか予断できませんが、2020年1月20日に召集が予定される通常国会で、徹底した疑惑解明が課題となります。

 またカジノ事業候補地が決まる前から、こうした重大な汚職疑惑が広がる根本にある、カジノ解禁・民営化をめぐる安倍政権の責任、政策の根本的見直しが問われます。

そもそも違法

 カジノは賭博場のことであり、賭博は本来、違法です。
 賭博が違法とされるのは、これを放置すれば人がまじめに働く意欲を失い依存症に陥るなど、ひいては社会全体が崩壊しかねないこと、けんかや殺人の原因にもなり治安の悪化や暴力団の資金源になるからです。

 競馬、競輪、オートレース、競艇、宝くじなどは賭博の一種ですが、それぞれ特別法によって公営賭博として「合法」とされてきました。
 ところがカジノ解禁は民営を前提としており「公設、公営、公益」のもとで「合法」とされてきたこれまでの法体系で説明できません。
 自民党や維新は、こうした疑問に答えないまま2016年12月にきわめて短い質疑時間でカジノ解禁法を強行しました。
「国策」として違法な事業を進める恐るべき決定でした。

 また、ギャンブル依存症の拡大、違法な資金洗浄(マネーロンダリング)、治安対策など、前提として解決されるべき諸問題についてまともな議論も対策もないままの強行でした。
 公明党は「自主投票」という形で協力しましたが、投票では山口那津男代表も「反対」せざるをえなかったのです。

癒着の可能性

 質疑の当時から、数兆円ともいわれるカジノの巨額利権をめぐり、業界と政治家、政府の癒着の可能性も指摘されていました。

 今回、まさに衆院内閣委員会委員長としてカジノ解禁法を強行し、その後IR担当の内閣府副大臣だった秋元氏やカジノ議連幹事長を務めてきた岩屋氏、一貫してカジノ推進で自民党に協力した維新の下地氏らに、疑惑が直撃しているのはまさに必然性のある状況といわれても仕方ありません。

 人の不幸や悲劇を食いものにするカジノを「成長戦略の目玉」などと位置づけ、深刻な国民的疑問を不問にして暴走した安倍政権の責任は極めて重大です。

カジノ=賭博場解禁の経緯(所属、名称などはいずれも当時)
2001年12月 自民党議員36人が「公営カジノを考える会」(会長=野田聖子衆院議員)を結成
2002年6月 同会を「カジノと国際観光産業を考える会」と改称
(同年2002年12月に「国際観光産業としてのカジノを考える議員連盟」に再改称)
2004年6月15日 同議連が「ゲーミング(カジノ)法・基本構想(案)」を発表
2006年2月15日 自民党政調内に設置された「カジノ・エンターテイメント検討小委員会」(委員長=岩屋毅衆院議員)が初会合
同2006年6月16日 同小委が「我が国におけるカジノ・エンターテイメント導入に向けての基本方針」策定
2010年4月14日 国会議員による超党派議連「国際観光産業振興議員連盟」(カジノ議連)が発足
2011年8月 同超党派議連がカジノを中心とした複合観光施設(IR)の国内整備のための議員立法「特定複合観光施設区域の整備の推進に関する法律案」(通称:IR推進法案=カジノ法案)を発表
2012年2月 自民党政調の内閣部会と国土交通部会の合同部会がIRをテーマに議論を開始
2013年9月 日本財団、三井不動産、鹿島建設、フジ・メディア・ホールディングスが政府の産業競争力会議国家戦略特区ワーキンググループに対し、東京臨海副都心に国際観光拠点を整備する「エンターテイメント・リゾート戦略特区」の設置を提案
同2013年12月6日 臨時国会で自民、維新、生活の党が衆院にIR推進法案を共同提出。継続審議に
2014年4月28日 日本共産党の大門実紀史議員が参院決算委員会で、刑法が禁じる賭博場・カジノの合法化は、最悪のギャンブル依存症大国・日本で依存症をさらに増やすと厳しく批判
2015年4月28日 自民、維新、次世代の党が衆院に共同でIR推進法案(カジノ法案)を再提出
同2015年10月 自民党の秋元司衆院議員が同党国土交通部会長に就任
2016年9月 秋元議員が衆院内閣委員長に就任
同2016年12月1日 日本共産党の志位和夫委員長が記者会見で、カジノ法案はギャンブル依存症が深刻な日本社会に重大な影響を与え、経済効果も期待できないと断固反対を改めて表明
同12月2日 衆院内閣委でカジノ法案の採決を強行し可決
同12月6日 衆院本会議で同案が自公維の賛成多数で可決
同12月14日 共産、民進、自由、社民の野党4党が書記局長・幹事長会談を開き、安倍内閣不信任案提出とともに、カジノ法案の会期内成立を結束して阻止し廃案を目指すことで一致
同日 参院本会議で同法案の修正案が自民、維新などの賛成多数で可決
同12月15日 衆院本会議で同法が自公維の賛成多数で可決・成立
同12月26日 同法施行。政府がギャンブル依存症対策を検討する関係閣僚会議を開催
2017年3月24日 政府の「特定複合観光施設区域整備推進本部」(本部長=安倍首相)が発足。内閣官房にIR推進室設置
同2017年8月3日 第3次安倍晋三再々改造内閣が発足。同7日には秋元議員が国交副大臣に就任(内閣府のIR担当副大臣を兼務)
2018年4月27日 IR(カジノ)実施法案を閣議決定
同2018年6月19日 衆院本会議で同実施法案が自公維などの賛成多数で可決
同2018年7月20日 参院本会議で同実施法が自公維などの賛成多数で可決・成立
2019年12月25日 東京地検特捜部が秋元議員(同日自民を離党)を中国企業「500.com」社からの収賄の容疑で逮捕。その後、自民4人、維新1人の国会議員が同特捜部の事情聴取を受けていたことが判明


しんぶん赤旗、2020年1月6日(月)
広がるカジノ汚職
推進した政権の責任重大

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2020-01-06/2020010601_04_1.html

Q カジノ汚職が大問題になっていますが、日本のカジノ解禁は誰が、いつ決めたのですか(東京・女性)
A ・・・
 カジノは刑法が禁じる賭博にあたります(刑法185条、186条)・・・


(新版)お魚と山と琵琶湖オオナマズの日々、2020年01月28日 06時49分03秒
今日の赤旗記事
カジノ解禁、誰がいつ決めたの?
安倍政権、国策として推進

https://blog.goo.ne.jp/uo4/e/0670e7bb248d093a30ca47042add4009

 憲法を守るべき立場のこの国の首相が、憲法改正の言い出しっぺであるねじれ現象をおこしているわけですから、法治国家でなく、もはや刑法まで無視する放置国家に成り下がっているのかも知れません。
「ここまで私物化がすすんでいるというのに、有権者、納税者、主権者の皆さま、なんか一言発していきましょうね」ってヤッホーくん、黙っているとどうなるか、明治からの歴史が証明していますよって。
 ヤッホーくんが身体をぶるぶる震えあがさせているのは、あのね、1月20日の「大寒」のせいでも、最近ニュースでとめどなく流れてくる新型コロナウイルスによる肺炎の広がりのせいでもなさそうですよ!

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2020年01月27日

山歩クラブ「下谷七福神めぐり」

 こんにちは、お元気のことと思います。
 昨日2020年1月26日日曜日は山歩クラブのお散歩会。
 お天気がいまひとつで、4人も欠席!しかし11名で七福神めぐりをして験を担いでまいりました。お疲れ様でした。

 この七福神めぐりにはもうひとつ隠されたテーマがございました。
「敬天愛人」の像のもとにつどいあつまったわれわれ、それは正岡子規から樋口一葉まで日清戦争までの明治を偲ぶ、小さくて大きな旅でもあったのです。

 ヤッホーくん、出だしは風邪が抜けず往生していたそうで調子に乗れず、しかし台東区立「一葉記念館」(台東区竜泉3-18-4 Tel 3873-0004)まできましたらヤッホー漫談がさく裂!
 持参した資料を配布し、その解説がはじまりました。
 そして……
☆「たけくらべ」が一括掲載された1896年って明治で言うと何年?
☆ 一葉何歳?(何歳まで生きたか)、
☆ 子規は何歳?(何歳まで生きたか)、
☆ 子規の家賃はいくら?
☆ 一葉の生活費はいくら?……

 もう立て続けに質問が発せられ止まることを知りません。

 そこへヤッホーくんの田舎の同級生、やすゆきくんも出席、参加していたんですが井上ひさしのお芝居、「頭痛肩こり樋口一葉」を観たことがあるというので、さらに話は二回りも三回りももりあがります。
 このやすゆきくん、終点の上野で一休みし、打ち上げたときには、「秋田大黒舞」と「最上川舟歌」をお披露目、いやあ、2020年はなんか良いことがありそうですよ、皆さん!


・ ヤッホーくんのこのブログ、2016年12月03日付け日記「一葉没後120年」をどうぞお読みください。

・「秋田大黒舞
https://www.youtube.com/watch?v=fqWTbwuQYyk
 あっ、失礼。
https://www.youtube.com/watch?v=ikGWEkAMtO4

・「最上川舟歌」 
https://www.youtube.com/watch?v=PaIiTh0vSvI
あっ、失礼
https://www.youtube.com/watch?v=_FPUeAZ4sWA

・ 井上ひさし「頭痛肩こり樋口一葉」

 何度見ても心打たれる芝居なんて、そうそうあるものではない。
「新作」が使い捨てにされる演劇界の現状にあっては、なおさら。
 井上ひさしの「頭痛肩こり樋口一葉」が貴重であるゆえんだ。
 井上演劇を上演するこまつ座の好舞台(東宝と共同製作)から、その魅力の秘密を探ってみよう。

歌の魅力

 ぼんぼん盆の16日に 地獄の地獄の蓋があく 地獄の釜の蓋があく……

 闇の中から童歌(わらべうた)のような「盆の練り歩き歌」が近づいてくるという幕開きだ。
 かわいらしい童歌は残酷な内容をもつことが多いが、まさにそんな歌。
 井上ひさしとテレビ「ひょっこりひょうたん島」以来の名コンビだった宇野誠一郎の音楽が鮮やかに響く。
 日本語の韻律を生かす井上ひさしの音楽劇の中でも会心の導入部なのである。

 明治の女流作家、樋口一葉(1872〜1896)の幸薄い人生をたどる舞台は、年々の盆の情景を描きだす。
「たけくらべ」「にごりえ」など珠玉の作品を残した一葉は極貧の家を文才で支えたが、肺結核となって24歳で夭折(ようせつ)した。
 母、姉夏子(一葉)、妹邦子の女の暮らしがいかに酷薄なものだったか。
 借金まみれの苦しみが仏壇の目立つ質素なわび住まいに映りでる。
 死者を迎える盆の習俗、幽霊の出る夏芝居の伝統を踏まえているあたりも心憎い。
 男の身勝手な横暴さ、苦界に沈む女のうめき。
 樋口家につどって思いのたけを吐露する女たちの心情を受け、ゆるゆると流れる音楽が悲劇調でないのもいい。
 オッフェンバックのオペラ「ホフマン物語」の有名な「舟歌」のような、優しくたゆたう旋律。
 わたしたちのこころは あなのあいたいれもの わたしたちのこころは あなだらけのいれもの……。
 苦しみを溶かし、祈りに転じる音楽といえるだろう。

幽霊の面白さ

 自分で自分の戒名をつける一葉には幽霊が見える。
 井上ひさしの作劇で幽霊はおなじみ。
 代表例は原爆で死んだ父親が幽霊になって娘のもとに現れる「父と暮せば」だろうが、この舞台の花蛍というユーモラスな幽霊も「父と暮せば」の父と並ぶ傑作キャラクターといえる。
 誰をうらんでいるのかわからないまま成仏できずにいる花蛍は一葉の探索で、女郎だった自分の前世を知る。
 大工の恋人が身請けの金を落とし、拾ったお婆さんにネコババされた。
 恋人は身投げし、世をはかなんだ女郎も命を絶ったという。
 花蛍はお婆さんのもとへ恨みをはらしにいくが、そこにも悲しい事情があり……。
 次々に恨みをたどるが、因果の源にたどりつけない。
 女を苦しめる非合理はついに皇室にまで及び、際限がない。

「これはもう世の中を丸ごと恨め、というのと同じ。いくらなんだって世の中全体に取り憑(つ)くなんてことはできやしない。だから諦めたのよ」

 おひとよしの花蛍は幽霊である自分を最後に否定する。
 こんな奇抜な幽霊を創造したのは、井上ひさししかいないのではないか。

 1984年、こまつ座の旗揚げ公演における初演から花蛍を一貫して演じたのは、文学座の新橋耐子だった。
 大仰な声色、蝶(ちょう)のようにひらひら動くおかしさが抜群。
 ほかに大橋芳枝、池畑慎之介も演じたことがあるが、おどろおどろしい新橋耐子の壁は超えられなかった。
 ところが今回、前回から演じる若村麻由美が大奮闘、客席をわかしているのに驚いた。
 コメディエンヌの才が開花、バタリと倒れる呼吸がおかしい。
 おかしみに加え、透明な悲しみを帯びる花蛍だ。終盤の憔悴(しょうすい)ぶりにまだ伸びしろがあり、今後が楽しみだ。

 死者によって生者は生かされている。
 井上ひさしの演劇は年を経るにしたがい、そういう思想を強めた。
 理屈っぽい話になるけれど、そこには日本の演劇の源にある能の構造が実は隠されていただろう。

 能の舞台はおおおむね、こういう展開をとる。
 旅の僧の前に死者の化身が現れ、その本体を現す。
 前世の悲運を物語り、ひとしきり舞ったあと供養されて闇の国にかえる。
 専門用語では夢幻能ともいう。

 能だけでなく茶の湯も連歌も座の芸能であり、主人も客人も思いをひとつにして一座を建立する。
 自作を上演するための劇団名に座をつけ、公演プログラムを「The座」と名づけた井上ひさしは、一座建立が演劇なのだと考えていたふしがある。

 演出家として舞台を生き生きと弾ませてきたのは木村光一だったが、前回公演から継承した栗山民也は井上ひさしの思いを深くくみとり、新たな世界を完成させたといえそうだ。
 能舞台のように、これ以上ないほどそぎ落とされた空間で死者のまなざしを強調する。
 柱だけがあり、上部は虚空となる(松井るみ美術)。
 孤独な心を照らす月だけが見え、白い幽霊を宇宙の中に浮かび上がらせる行き方だ。
 能の演劇性を演出の起点におく栗山が編み出した空間であろう。

 生き残った邦子のシルエットを薄明の中の影として見せる幕切れは、観客を酔わせるだけで終わらない。
 その影は邦子であり、あなたであり、私たちなのだと問いかけてくるようだ。
 蜷川幸雄なきあと現代演劇の中核をになう演出家だけに、こうした手法をいっそう輝かせてほしい。
 あえて言えば、生活感の面白さ、音楽の躍動感をどう加えていくか。
 荘重な交響曲に軽快な楽章が欠かせないように。

女優劇の楽しさ

 出演者6人、そのすべてが女優という劇である。
 主役の一葉は香野百合子、日下由美、原田美枝子、宮崎淑子、未来貴子、有森也実、波乃久里子、田畑智子、小泉今日子がこれまで演じ、今回は永作博美。

 中では香野の慈愛に満ちた聖母のような一葉が忘れられないが、永作のきっぱりとした一葉には明日を見すえるポジティブな勢いがある。

「でもわたし小説でその因縁の糸の網に戦さを仕掛けてやったような気がする」

 死に向かうやつれよりも、未来につながる生気が吹き出すようなセリフだった。
 明治の話を一気に現代につなげる得がたい感覚をこの女優はもっている。

 他の5人は前回公演と同じで、栗山版の輪郭を肉づけする。
 さすがと思わせるのが母役の三田和代で「家」のしきたりに固執する頑迷さにも、夫を喪った女のかなしみをまとわせる。
 この役では名脇役だった大塚道子が忘れがたいが、三田和代の演技には現代的な激情が走る。
 そこが余人にないところ。

 出入りする薄幸の女、八重は男に捨てられ、身を売るところまで落ち込む。
 過去、風間舞子のすさみがすごかった。
 今度の熊谷真実は懸命に生きる必死さに痛覚がある。
 妹、邦子の深谷美歩は死んだ姉を思っての「石になっているかしら」のセリフがいい。
 澄んだ声にりんとした力がみなぎっている。
 愛華みれは「わたしたちのこころは……」の歌いだしに決定力が出てきた。

 こうしてみると、女優を育て大きくする演劇だということが改めてわかるのだ。


日本経済新聞、2016/8/16
「頭痛肩こり樋口一葉」
名作女優劇、あせない魅力

(編集委員 内田洋一)
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO05986020S6A810C1000000/

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2020年01月25日

首相答弁の問題は、中身よりもその幼児性にある

 公選法違反容疑で強制捜査が入った自民党・河井案里議員と夫である河井克行・前法相に持ち上がった、「安倍マネー1億5000万円」問題。
 昨年の参院選で広島選挙区から新人候補として自民党から出馬した案里議員の選挙に、なんと自民党本部が1億5000万円も投入していたという疑惑だ。

 昨日おこなわれた参院代表質問では、立憲民主党・福山哲郎議員がこの問題を取り上げ、「考えられない金額。自民党総裁として事実かどうか答えてください」と迫り、「安倍総理の秘書が少なくとも4人、広島の選挙に手伝いに入っていたという報道もあるが、これも事実か」と問いただしたのだが、安倍首相はこの質問をスルーして答弁しなかった。

 なぜ質問に答えられないのか、答えは明白だ。

 そもそも、これほどの巨額を動かせるのは、自民党でも安倍首相か菅義偉官房長官、二階俊博幹事長しかいない。

 そして、本サイトで繰り返し言及しているように、この問題の選挙は安倍首相のことを下野時代に「過去の人」呼ばわりした自民党の重鎮・溝手顕正氏を蹴落とすために、2人区の広島選挙区に安倍官邸が主導して案里氏を擁立。
 福山議員が言及したように、安倍首相は自ら案里氏の応援に駆けつけるだけではなく、地元・山口の安倍事務所の筆頭秘書をはじめ少なくとも4人の秘書を案里氏の選対に送り込んでいたといわれている。

 つまり、選挙を私怨を晴らすために使い、その資金として1億5000万円という異常な巨額を投じていたのだ。
 実際、溝手陣営が党本部から受けた選挙資金は1500万円だといい、じつに10倍もの差となっている。
 溝手氏の支援者もテレビ朝日の取材に対して「ひどすぎる」「『新人だから倍』くらいなら許容範囲かもしれないけど『10倍』はおかしい」と憤りをあらわにしていた。

 あまりにも露骨な安倍首相の肩入れぶり──。
 一方、安倍首相による復讐劇の“刺客”となって当選した案里議員は、昨日、「いただきましたが、違法ではありません」と大見得を切った。

 だが、案里議員がそう抗弁する他方で、この金の流れをめぐっては、公選法247条違反(選挙費用の法定額違反)にあたるのではないかという声もあがっている。

 選挙では各陣営が使う選挙費用については公選法で上限が定められ、上限額は選挙の種類によって異なる固定額と選挙人名簿に登録された有権者数などによって算出される。
 これは選挙の公平性を担保するためのものだ。
 法定額を超えて支出すると、出納責任者が3年以下の禁錮又は50万円以下の罰金になり、連座制の適用によって候補者も当選無効となる。

 そして、昨日23日おこなわれた野党合同ヒアリングに出席した総務省の自治行政局選挙部の担当者は、参院広島選挙区の場合、選挙費用の法定上限は「4700万円くらい」と述べた。
 つまり、自民党本部が投入した1億5000万円の約3分の1だ。

 案里議員は「違法性はない」と言うが、1億5000万円を選挙資金として投入されながら、支出をその3分の1におさめたとは考えにくい。実際、この問題をスクープした23日発売の「週刊文春」(文藝春秋)では、〈異常な「金満選挙」は選挙中から注目を集めていた〉と報じ、1回1500〜2000万円ほどかかるビラのポスティングを公示前から何回もおこなっていたことを自民党の広島県議が証言し、「菅義偉官房長官が演説に来たときは駅から数百メートルにわたって看板が立てられるなど、とにかく物量がケタちがい」とも述べていた。

河井選対に送り込まれた安倍首相の秘書4人も違法選挙を黙認か

 案里氏の選挙ではすでに車上運動員、いわゆるウグイス嬢に対して法定上限額である日当1万5000円を超える3万円を支払っていたと報道され、このほかにも〈陣営の一員として選挙運動をした男性会社員に対し、約86万円を支払った〉という疑惑も浮上(共同通信2019年12月29日付)。
 また、案里氏の選対を取り仕切っていたといわれている夫の克行氏が関与するかたちで、複数の選挙運動員に違法な報酬を支払っていたという疑惑を「週刊文春」も伝えている。
 1億5000万円という巨額資金は、ほかにも違法行為に注ぎ込まれていなかったのか、さらなる追及も必要だろう。

 このような違法性が濃厚な「金満選挙」が、「安倍マネー」である1億5000万円が原資になっていたとしたら、これが大問題であることは言うまでもない。
 そして、安倍首相の責任は極めて重大だ。
 前述したように、安倍首相は秘書を最低でも4人も送り込んでおり、違法な選挙実態を知りながら見て見ぬふりをしていた可能性すらある。

 繰り返すが、この問題選挙は安倍首相の私利私欲のための復讐選挙だったのだ。
 そこで金に物を言わせて運動員を買収し、不当な選挙をおこなわれていたという疑惑にくわえ、その金の出処が安倍自民党だったのである。
 これはある意味、昨年の参院選や一昨年の総裁選のために「桜を見る会」を使い、税金で地元関係者や地方議員を接待してきたやり方と通底するものだ。
 金さえあればどうにでもなる──これが安倍首相のやり口ということなのだろう。

リテラ、2020.01.24 10:49
河井案里議員の「安倍マネー1億5千万円」はやっぱり違法!
安倍首相に嫌われた対立候補にはわずか10分の1の金額で「ひどすぎる」と激怒

https://lite-ra.com/2020/01/post-5222.html

 通常国会がようやく始まり、衆参両院で2020年1月23日まで2日間にわたって代表質問が行われた。
 積み上がる疑惑から逃げ回り、51日ぶりに国会答弁に立った安倍首相の発言の空疎なことと言ったらなかった。
 老眼鏡をかけて手元のペーパーに始終目を落とし、官僚作文を棒読み。
 安倍が疑惑のド真ん中にいる首相主催の「桜を見る会」をめぐる公金私物化問題、成長戦略の柱に掲げるIR(カジノを含む統合型リゾート施設)を舞台にしたカジノ汚職、2閣僚辞任に関する説明責任。
 野党の厳しい追及にマトモに答えようとしなかった。

 桜疑惑の招待者名簿の再調査については「調査で廃棄を確認。改めて調査を指示することは考えていない」とし、ホテルニューオータニで破格の会費5000円で催された前夜祭の明細書開示は「ホテルは公開を前提としての資料提供に応じかねるとのこと」。
 招待者名簿が公文書管理法で義務付けられた管理簿にも、政府ガイドラインで定められた廃棄簿にも未記載だった問題を受け、内閣府の歴代人事課長6人を厳重注意処分にして幕を引こうとしている。
 それでいて、いまだに民主党政権を当てこすりだ。
 2011〜2017年分の管理簿未記載は「両年(2,011年と2012年)の措置を前例として漫然と引き継いだ」と釈明し、民主党政権の対応が未記載の発端だったというのだ。
 官僚のせい、ホテルのせい、野党のせい。
 透けて見えるのは異常なほどの自己愛、敵への攻撃性、自己中心の論理。
 そこからは軽さ、品のなさ、薄っぺらさが滲み出ている。

■ ムキになり「指摘はまーったくあたりません!」

 IR担当の内閣府副大臣だった衆院議員の秋元司容疑者の逮捕については、「捜査に影響する可能性があり、詳細なコメントを控える」。
 昨年2019年7月の参院選をめぐる公選法違反疑惑で広島地検の捜査対象となっている河井克行前法相と妻の案里参院議員の件は、「捜査に関する事柄については答えを控える」といった具合だ。

 耳タコ答弁を崩したのは、23日の衆院本会議での共産党の志位委員長による質問だった。
 自衛隊の中東派遣をめぐり、「安倍政権の対応は米国の『お先棒担ぎ』そのものだ」と批判。
 すると、安倍は「米国のお先棒を担いでいるとの指摘はまーったくあたりません!」とムキになって反論した。
 齢65、一国を背負って立つトップの子供じみた言動にはア然とするほかない。
 野党を揶揄し、責任を押し付け、この期に及んでもオレ様気取り。
 もはや首相答弁の問題は、中身よりもその幼児性にあるのではないか。


■ 言動は「子供の言い合い論理」と専門家

 臨床心理士の矢幡洋氏が言う。

「安倍首相の言動は子供の言い合い論理に近いものを感じます。悪さを注意された子供が〈オマエだってやってるじゃないか!〉と筋違いの反論をすることがある。指摘された事実に焦点を当てず、論点をズラしてごまかそうとするのです。こうした傾向は自己愛性パーソナリティー障害の特徴と合致します」

 医学事典によると、自己愛性パーソナリティー障害には、誇大性、称賛への欲求、共感欠如の持続的パターンが認められるという。
 具体的な診断基準はこうだ。
▼ 自分の重要性および才能についての誇大な、根拠のない感覚
▼ 途方もない業績、影響力、権力、知能、美しさ、または無欠の恋という空想にとらわれている
▼ 自分が特別かつ独特であり、最も優れた人びととのみ付き合うべきであると信じている
▼ 無条件に称賛されたいという欲求
▼ 特権意識
▼ 目標を達成するために他者を利用する
▼ 共感の欠如
▼ 他者への嫉妬および他者が自分を嫉妬していると信じている
▼ 傲慢、横柄――。

 驚くほど、安倍の人格と一致する。

「自己評価が非常に高く、自分をおとしめるような事実を受け入れようとしないのが特徴です。不都合な事実を突きつけられると、自分以外の外部のせいにして責任転嫁することが多い。自分のプライドを守ることが主目的で、言い合いに負けたくない心理が先に立つ。ですから、事実に基づく議論は成立しません。自己愛型の人は政治家として危うい。折れるべきところで折れないので、周りにイエスマンしか残らなくなります」
(矢幡洋氏=前出)

 ちなみに、人口の0・5%が自己愛性パーソナリティー障害を有していると推定されていて、女性よりも男性に多いという。

■ 支持率が下がればガクッといく

 安倍の任期は7年を超え、昨年2019年11月20日に通算在職日数で戦前の桂太郎を抜き、憲政史上最長となった。
 自民党総裁任期は2021年9月まで。
 東京五輪後の8月24日まで政権を維持すれば、連続在職記録でも大叔父の佐藤栄作を抜いて単独1位に躍り出る。
 その任期の長さを考えれば愕然とする人品骨柄(じんぴんこつがら)だ。

 安倍に関する著書もある政治評論家の野上忠興氏はこう言う。

「養育係の久保ウメさんは幼少期の安倍首相について、〈自己主張、自我が人一倍強い〉〈わがまま勝手で、こうと言ったらテコでも動かず、すねやすい〉と言っていました。夏休み最終日に〈宿題は終えたの?〉と聞くと、〈うん、やった〉と答えるのに、実際は全く手つかず。ウメさんが徹夜をして左手で仕上げたそうです。祖父は岸信介元首相。両親は外相を務めた安倍晋太郎氏と、岸の長女の洋子さん。政治家の家庭に生まれたため、多感な時期に両親が不在なことが多く、その寂しさからオレはオレなりにやっているんだと開き直るようになったようです。攻めに強く守りに弱い政治スタイルは、謝ることが嫌だから。自分がかわいすぎて、指弾されることに我慢ならない。再登板以降、言行不一致のその場しのぎがあまりにも目立ちます」

 こういう首相だからこそ、周囲をオトモダチで固め、批判を決して許さず、ライバルを徹底的に潰し、ここまでやってきたのだろう。

 大学入試改革をめぐる「身の丈」発言で大炎上した萩生田文科相も、経産相時代に安倍の意を受けて韓国叩きに鼻息が荒かった世耕参院幹事長もオトモダチ。
 その結果、日韓関係は戦後最悪に陥り、2019年の貿易統計(速報)で対韓輸出額は12.9%減の5兆441億円に縮小。
 全体の貿易収支は1兆6438億円の赤字で、2年連続の赤字となった。

 公選法違反疑惑の河井克行もアベ応援団のひとりだ。
 2012年の自民党総裁選で克行が鳩山邦夫氏(故人)を説得し、鳩山主宰の「きさらぎ会」を安倍支持でまとめた。
 案里が初出馬した選挙戦では、党本部が案里陣営に1億5000万円を支給する超VIP待遇。
 その2ヶ月後に克行は初入閣した。

 一方、官邸主導で擁立した案里の滑り込み当選のあおりを受け、落選の憂き目に遭ったのが溝手顕正前参院議員だ。
 第1次安倍内閣で防災担当相を務めながら、野党時代に安倍を「過去の人」と評し、首相再登板を公然と批判。
 恨み骨髄の安倍は溝手の参院議長就任の芽を摘み取り、国会からも追い出した。
 ここにきてポスト安倍に再浮上するライバルの石破茂元幹事長に対する冷遇もあからさまだ。
 年末に収録されたBS番組で「ポスト安倍」の候補として岸田文雄政調会長、茂木外相、菅官房長官、加藤厚労相に言及。
「ぜひ競い合いながら、自民党にはたくさんの人物がいると国民に思っていただけたら」とか言っていたが、世論の支持が最もアツい石破は論外だといわば公言したわけである。

「世論調査では桜疑惑の政府説明に7割が納得せず、IR整備に6割が反対しているのに、内閣支持率がガタ落ちすることはない。〈他に適当な人がいない〉という消極的選択と野党の体たらくの結果ですが、果たして本当にそうなのか。安倍首相は〈政治は結果だ〉と言いますが、これまでどんな結果を出したのでしょうか。内閣の最重要課題に掲げる北朝鮮による拉致問題は解決の見通しが立たず、北方領土返還はむしろ遠のいている。戦後最長の景気拡大を喧伝していますが、経済指標は景気後退を示唆しています。安倍首相が唯一のよりどころとする支持率が下がればガクッといく」
(野上忠興氏=前出)

 消極的支持を積極的不支持に変える潮目にきている。


日刊ゲンダイ、2020/01/24 17:02
また野党を揶揄の首相答弁
任期の長さとは反比例の幼児性

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/268071

 選択的夫婦別姓導入を訴えた野党の衆院代表質問に、自民党の杉田水脈議員が「だったら結婚しなくていい」とヤジを飛ばした問題が炎上している。
 立憲民主、国民民主、共産の野党3党の有志議員は2020年1月24日、大島理森衆院議長に発言者の特定を求める申し入れ書を衆院に提出。
「選択的夫婦別姓の制度がないために苦しむ人の心を傷つけ、憲法が保障する結婚の自由を否定する暴言だ」とし、謝罪と撤回を促すよう要求した。

「一昨年の〈LGBTは“生産性”がない〉との主張で猛バッシングにさらされて以降、杉田さんはイメージ回復に躍起だった。所属する首相派閥・細田派の先輩議員の稲田朋美さんとネット番組の企画で新宿2丁目を訪れ、当事者に涙ながらに〈本当にごめんなさいね〉と謝罪したり、稲田さんが共同代表を務める女性議連にも参加して未婚ひとり親支援にも熱心だった」
(与党関係者)

 猫かぶりしたところで、多様性を否定して差別を肯定する極右思想は隠し切れないのだろう。
 当の本人はどうしているかといえば、トンズラだ。
 杉田氏のツイッターによると、きのうは航空自衛隊防府南基地(山口県防府市)で行われた第14期一般空曹候補生過程卒業式に出席。
 日の丸をバックに祝辞を伝え、卒業生との祝賀会食にも参加したそうで、こうツイートしている。

〈最後は、皆様の今後の活躍と自衛隊の憲法明記を祈念し万歳三唱。参列者全員で拍手でお見送りしました〉

 衆院本会議に出席し、党本部などに姿を見せていたおとといは、スマホを耳にピタリと押し当てて報道陣の問いかけをガン無視。
 “エア電話”と揶揄される始末だ。
 問題のヤジとは無関係ならスパッと否定すればいい。
 そうでないのなら、国民の代表たる国会議員だ。
 国民が知りたがっている発言の真意を説明する責任がある。
 報道対応するつもりはあるのか。

「特に今のところ、予定はないです。党からの連絡? 本人でないとわからないと思います。本人は地元の山口に戻っています。戻り? 月曜か火曜か……」
(杉田水脈事務所)

 野党時代の杉田氏は兵庫6区を地盤としていたが、安倍首相の推しで2017年衆院選に比例代表(中国ブロック)で立ったことで山口県連入り。
 首相のお膝元でヌクヌクとは見上げたものだ。
 いっそのこと居ついたらどうか。


日刊ゲンダイ、2020/01/25 14:50
杉田水脈議員「夫婦別姓ヤジ」で安倍首相お膝元に雲隠れ
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/268123

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100兆円超えした2020年度の一般会計予算案

総額102兆6,580億円で過去最大となる、2020年度の一般会計予算案。
政府は「経済再生と財政再建を両立した予算案」と言うが、100兆円超えまで膨張した巨大な規模にとどまらず、さまざまな問題がある。
1月20日に始まった通常国会は、この予算案をめぐって論戦が繰り広げられる。
主な議論の場である「予算委員会」で、野党共同会派の質疑の調整を担うのが、元財務省官僚の大串博志衆議院議員だ。
官僚、政権与党、内閣が関わって作られる予算案は、政権の意思が色濃く反映される、「政権そのもの」だ。
大串議員に予算案を読み解いてもらい、現政権の姿勢、問題点を聞いた。

予算は、政権そのもの

―― 自己紹介をお願いします。

大串博志衆議院議員: 佐賀県出身で高校まで地元で生活し、今でも週末は100%、佐賀にいます。
 大学卒業後に入省した大蔵省(現財務省)では、今回の話題である予算の編成の他に、国際金融の仕事をしました。
 2005年に国会議員になり、今は衆議院予算委員会の理事として、野党共同会派の委員の誰に、どういう質疑をしてもらうか、とコーディネートをしています。

−− 国の家計簿である予算は、どういうスケジュールで作られるのですか?

大串: 国も企業と同じように、4月から翌年3月までの予算を組んで、政策や事業を実施します。
 この予算をつくる作業は、各省庁で夏前から始まります。
 来年度の予算をどういうふうに要望しようか、と官僚たちが考え出す。
 その要望を8月末に財務省へ、予算要求書として提出します。
 その要求をもとに、9月には財務省と各省庁のあいだで議論が始まります。
 各省庁は予算が欲しい、一方の財務省はいやいや財源が足りないよ、といったやり取りをするわけですね。
 その後官僚は政権与党にのみ、根回しをします。
 今は自民党と公明党ですね。
 この根回しが終わったものを内閣が閣議決定し、12月末に「政府予算案」として公表します。
 政府予算案は翌年1月から始まる通常国会に提出されます。
 そこで今度は国会議員が、予算の配分は適切か、審議します。
 だいたい2月いっぱいまで衆議院の予算委員会、3月いっぱいまで参議院の予算委員会、この2ヶ月間の審議を経て3月末、つまり年度末に来年度の予算が完成します。

−− 官僚、政権与党、内閣の意思が予算に反映されていくんですね。

大串: 予算というのは、内閣がこの国をどういう方向にもっていくか、という全体像を表します。
 だからある意味、政権そのもの。
 もし仮に国会で予算案が否決されたりしたら、単に予算が出ないだけではなくて、内閣自体が否定された、というくらいのインパクトがあるんです。

102兆円の財源は、どこからやって来る?
−− 次に2020年度予算案についてうかがいます。総額は102兆6,580億円で過去最大、2年連続100兆円を超えました。こんなに大きな財源を、政府はどう作っていくのでしょうか?

大串: まず、非常に楽観的に税収の見込みを作っているんです。
 名目GDPで2.1%、実質GDPで1.4%の成長率見通しを前提に、税収を計画している。
 よく報道でも出ていますが、民間のエコノミストから見通しが甘いという指摘が多いです。
 今、世界経済は不安定です。
 米中貿易摩擦が解決するかも分からないし、中東情勢が悪化すると原油価格が上がるかもしれない。
 日本でも消費増税以降、非常に厳しい経済指標が出てきています。
 その中で来年度、これだけ高い経済成長率を見込んで良いのか、非常に疑問です。

−− 歳入には税収以外の財源もありますね。そちらはどうですか?

大串:「税外収入」と呼ばれる財源は、毎年あります。
 国が持っている株式を売りました、とかですね。
 ただ、来年度予算案で作る予定の特例が問題なんです。
 前年の予算が余ったら、翌年に繰り入れることは、企業でもありますよね。
 でも、国の予算の繰り入れについては法律でルールがあります。
 剰余金の半分までは翌年の予算に使って良いです、でも残りの半分は借金の返済に使いなさいね、と財政法で決まっています。
 ところが来年度予算案では、わざわざ新しく法律を作ってまで、去年余ったお金を全部使っちゃおうという特例を作る予定なんです。

−− そんなに特別なことなのですか?

大串: 同じように特例を作ったのは、東日本大震災時でした。
 震災後、どうしても予算が足りなくて急遽必要だったためです。
 でも普通はそういった大災害後くらいしか、特例は作りませんよ。
 そんな異例の措置によってやっと、102兆円を越える予算の財源を作っている。
 非常に綱渡りで、膨張した予算なんですね。

国債発行額を小さく見せる、「粉飾まがいの予算案」?−−政府は「経済再生と財政再建を両立した」と言うけれど…
−− 政府は国債、つまり借金の発行額を今年度(2019年度)より1,000億円少なく抑えたから「経済再生と財政再建を両立した予算案だ」と発信しています。

大串: 先ほど話した税外収入を、例年より大きく繰り入れたから、国債発行額を少なくできたってだけの話です。
 わたしに言わせれば「粉飾まがいの予算案」を作っている。
 喧伝していることは立派だけれど、実は見せかけだけ、これが第二次安倍政権のよくやる手だなと。
 それと、本予算だけ見ればたしかに国債発行額は今年度に比べて減りましたけど、補正予算では赤字国債を約2兆3,000億円発行していますからね。

−− 補正予算とは何ですか?

大串: 前年度に計画的に作り、4月の年度当初から動かすのが本予算。
 一方で、年度当初には予測できなかった出来事に対して緊急に追加する予算を、補正予算と言います。
 たとえば年度途中で災害が起きた。急にリーマンショックのようなことがあって経済が大きく冷え込み、国が予算を出して景気を下支えしなきゃならない。
 こういった、どうしようもない理由がなければ、補正予算は出してはいけないのが原則です。

−− その補正予算で、国債(=国の借金)を発行することはいけないことなのですか?

大串: 2019年度補正予算でなぜ国債を発行したかと言うと、来年度と同じように、税収の見通しが楽観的だったんですよ。
 去年の予算審議でも「見通しが甘いのでは」と議論はしていました。
 それが案の定的中して、年度末が近づいて「やっぱり予定していた税収があがらない」と分かり、借金を出すことになってしまった。
 国債には2通りあって、1つが「赤字国債」、まさに赤字の穴埋めのための国債です。
 もう一つは「建設国債」。
 橋や道路といった公共インフラを作るときに発行できる。
 なぜ区別するかと言うと、公共インフラは資産として長期間、世の中に利益が残るという側面もあります。
 一方で、単なる赤字の穴埋めのための赤字国債は、厳に慎まなければいけないですよね。
 2019年度補正予算で約2兆3,000億円発行するのは、この赤字国債です。
 しかも本予算だけ見れば、国債発行額は前年度より少ないけれど、補正予算も含めれば、前年度より多いんです。
 でも年末の予算案公表時には本予算が中心だから、その事実が見えにくい。
 先ほど申し上げたように、「見せかけ」をしているんです。

補正予算編成のルールはないがしろに。過去最大の防衛費がまかりとおる
−− 2019年度補正予算案を見ると、緊急的な歳出ではない項目がたくさん混ざっていますね。

大串: 防衛装備品、つまり兵器を補正予算で大量に購入するのが、安倍政権の特徴です。
 例えば2019年度補正予算案では、約4,000億円が計上されました。
 艦船、戦車といった装備品を買うには、もちろん長期計画があります。
「あ、これが明日足りない」なんてことはない。
 それなのに、防衛装備品調達の予算が、安倍政権になってから毎年かなりの額、補正予算に盛り込まれているんです。
 何でもかんでも補正予算に繰り込んで、ゆるく国会を通してしまおうという下心が見える。
 原則の乱れを感じます。

通常国会、予算審議の追及ポイントは?
−− 防衛費は本予算でも約5兆円を計上し、6年連続で過去最大額を更新しましたね。

大串: 第二次安倍政権になって、防衛費が顕著に伸びています。
 本予算でさえ毎年過去最高を更新している中で、補正予算でも計上しているんだから、相当伸びている。
 米国から高額な装備品を買っているためです。
 本当に必要なものなのか、国会でしっかり追及する必要があります。


−− 予算審議で、他に審議のポイントとなる点はありますか?

大串: 政府が昨年10月から始めた、「幼保無償化」の制度には約3,410億円が充てていますが、問題があります。
「無償化」する以前も、所得の低い方に対しては保育所や幼稚園の料金は軽減してきました。
 今回はそれを一律に無料にしたわけですから、今まで軽減されていなかった、比較的所得の高い人のところに約3,410億円もの財源が使われているわけです。
 一方で、2017年度末までだった解消目標が3年先送りになるなど、待機児童問題はいまだに解決していません。
 その待機児童のご家庭は、無償化の恩恵を受けられない。
 子ども子育て関係に予算を使うのであれば、待機児童を完全にゼロにするために、不足している保育士の待遇を抜本的に上げるべきです。

−− その幼保無償化の財源には、消費増税分があてられました。一方で増税による景気の落ち込みを防ぐために、軽減税率をはじめとした経済対策に1兆円の予算が使われていますね。

大串: 軽減税率制度は、不適切だと考えています。
 食料品は生活必需品だから8%のままというのは、一見良い制度のように見えますし、政府も消費税は逆進性が強いから是正するための制度だと言っています。
 でも所得が高い人ほど価格の高い食料品を買いますよね。
 1兆円の財源の半分は、年収600万円以上の人たちのところに消えてしまうと言われています。
 1兆円もの予算があったら、所得の低い方々にフォーカスした施策を打ち出すべき
です。

「一強多弱」を超えて
−− 予算案から見える安倍政権の問題点は何ですか?

大串: 国の借金は若い世代に負担を残すものですよね。
 今の政権についている人たちは痛みを負わないけれど、きちんと向き合わないといけない問題です。
 それなのに、剰余金の繰り入れなどあらゆる手段を使って、本予算上の国債発行額を少なく見せる。
 防衛費をどんどん膨らませる一方で、所得が低い人たちに向けた政策は打ち出さない。
 見栄えだけを良くして、麻酔のようにあらゆる問題を覆い隠す、問題を先送りにする。
 そういう安倍政権の姿勢が、表れている予算案だと思います。


−− 予算審議をはじめチェック機能を果たす上で、与党の「一強」、野党の「多弱」と言われる政情は、影響していましたか?

大串: これまで野党が多弱と言われて、バラバラでしたから、なかなか予算委員会でも効率的、効果的な論戦をするのが難しい時期が続きました。
 幸い、去年の10月から野党共同会派「立憲民主・国民・社保・無所属フォーラム」を組みました。
 衆院予算委員約50人の内訳で見ると、やはり共同会派は数の上では小さいですが、それでもバラバラの時よりは随分、迫力と追い込む力を持てたと思います。
 私は予算委員会の理事として、各委員の得意分野を考慮して、誰にどういう質問をしてもらうかコーディネートするのですが、共同会派を組んだことで人材の幅が広がり、ずいぶん効果的に質疑ができるようになりました。
 今後は安倍政権の問題点を、より浮き彫りに出来るんじゃないかと思います。


立憲民主党公式サイト、2日前
財務省出身議員が予算から読み解く、現政権の問題
−−大串博志・衆議院議員

https://cdp-japan.jp/interview/54

 社会部記者たちが税の流れを追い、無駄遣いや政財界の利権を追及している調査報道キャンペーン「税を追う」のうち、防衛費の闇に切り込んだ部分の書籍化である。

「税を追う」では、沖縄県辺野古における新しい米軍基地建設のための工事、東京五輪予算、医療費など幅広いテーマを取り上げ、納税者の目線で批判的に検証してきた。
 キャンペーンはいまも続いているが、2019年の日本ジャーナリスト会議 (JCJ) 賞を受賞した。
 書籍化にあたり追加取材し改稿した。

 第2次安倍政権の発足以来、日本の防衛費は右肩上がりで5兆円を超えた。
 なかでも際立つのが首相官邸主導による巨額な米国製兵器の購入だ。
 この本では、自動車に関する関税引き上げの脅しで兵器購入を迫るトランプ米大統領の戦略、軍事上の必要性よりもトランプ氏のご機嫌取りのため官邸主導で兵器を爆買いすることで現場では何が起きているか、に肉薄する。

 高い買い物をしながら支払いを先送りする「後年度負担」という事実上の “兵器ローン” は積もり積もって5兆3000億円、メーカーではなく、米政府が購入の交渉相手となる「対外有償軍事援助」(FMS) では相手の言うなりの価格で文字通り「買わされ」ている。

 次々と高額兵器を買わされる一方で防衛省の台所は火の車。
 取引先の国内メーカーや商社に代金の支払い延期要請をしたこともあるという。

 兵器には市場価格というものがなく、いまや聖域化している防衛費の使い手にはコスト意識がない。
 だから米軍が銃1丁あたり46万円 (ドルから換算) で調達している機関銃に327万円も払ったりするという、驚きを通り越して怒りがわき上がる例も紹介されている。

 粘り強い、緻密な取材、調査で掘り当てた事実の数々は「戦争のできる国」を目指して安倍首相が打っている布石とも言えよう。
「日本のいま」を考えさせる本だ。
 ジャーナリストの手になるだけに文章が平易なのもいい。


News for the people in Japan、2020年1月24日
オススメ図書
東京新聞社会部『兵器を買わされる日本』(文春新書)
[評者]飯室勝彦(1941年生まれ)
http://www.news-pj.net/book/87656
 
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2020年01月24日

傀儡政権の系譜

 今から60年前の1月19日、「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」が日米地位協定とともに締結された。
 日本側で文書に署名したのは岸信介(総理大臣)、藤山愛一郎(外務大臣)、石井光次郎(法務大臣)、足立正(日本商工会議所会頭)、朝海浩一郎(駐米特命全権大使)だ。

 1951年9月にサンフランシスコのプレシディオ(第6兵団が基地として使っていた)で署名された日米安保条約を失効させて、新たな条約として批准されたもの。
 1951年のものを旧安保条約、1960年のものを新安保条約とも呼ぶ。
 旧安保条約が署名されたその日、同じサンフランシスコのオペラハウスで「対日平和条約」が結ばれている。

 日本に限らず、アメリカが結ぶ軍事同盟の大きな理由はふたつある。
 相手国を侵略の拠点にすること、そして相手国を支配し続けることだ。

 イギリスやハリー・トルーマン以降のアメリカはソ連/ロシアを侵略する動きを見せているが、これは本ブログで繰り返し書いてきた長期戦略に基づいている。
 その最終目標は世界支配だ。

 これは制海権を握っていたイギリスが考えた戦略で、ユーラシア大陸の周辺部を支配して物流をコントロール、内陸国を締め上げていくというもの。

 これをまとめ、1904年に公表したのが地政学の父とも呼ばれている地理学者のハルフォード・マッキンダー(Halford John Mackinder、1861 - 1947、ハートランド Heartland 理論を提唱)。
 ジョージ・ケナン(George Frost Kennan、1904 - 2005)の「封じ込め政策(Containment Policy)」やズビグネフ・ブレジンスキー(Zbigniew Kazimierz Brzezinski、1928 - 2017)の「グランド・チェスボード Grand Chessboard」もこの戦略に基づいているが、その後、この戦略が放棄された兆候は見られない。

 それに対抗してロシアはシベリア横断鉄道を建設した。
 ロシアが建設しているパイプライン、中国が推進している一帯一路もそうした対抗策だと言えるだろう。

 NATOの場合、加盟国には秘密工作部隊が設置されている。
 中でも有名な組織がイタリアのグラディオ Operation Gladio。
 1960年代から80年頃まで「極左」を装って爆弾攻撃を続けた。
 狙いは左翼勢力に対する信頼をなくさせ、社会不安を高めて治安体制を強化することにあり、「緊張戦略」とも呼ばれている。

 そうした秘密工作部隊は各国の情報機関が管理、その上にはアメリカやイギリスの情報機関が存在している。
 手先として右翼団体が利用された。

 イタリアでグラディオの存在が浮上したのは1972年のこと。
 イタリア北東部の森にあった兵器庫を子供が発見し、カラビニエッリと呼ばれる準軍事警察が捜査を開始するものの、途中で止まってしまう。

 再開されたのは1984年。
 事件は右翼団体ONがイタリアの情報機関SIDと共同で実施していたことが判明する。
 SIDは1977年に国内を担当するSISDEと国外を担当するSISMIに分割され、情報の分析を担当するCESISが創設されていた。

 ジュリオ・アンドレオッチ首相(Giulio Andreotti、1919 - 2013)は1990年7月、SISMIの公文書保管庫の捜査を許可せざるをえなくなり、同年10月に首相は「いわゆる『パラレルSID』グラディオ事件 'Parallel SID‘ – The Gladio Case」というタイトルの報告書を公表した。
 グラディの存在と活動を公式に認めたのである。

 グラディオの創設に関わっていたフランチェスコ・コッシガ(Francesco Cossiga、1928 - 2010)は大統領を辞任するが、2007年に興味深いことを話している。
 2001年9月11日に引き起こされた世界貿易センターと国防総省本部庁舎への攻撃はCIAとモサドがアラブ諸国を非難するために計画、実行したことを欧米の民主勢力は知っていると書いたのである。
(“Osama-Berlusconi? ≪Trappola giornalistica≫,” Corriere, 30 novembre 2007)

 アメリカと軍事同盟を結んでいる日本にも秘密工作部隊が存在しているのかどうかは不明だが、あっても驚かない。

 1945年4月にフランクリン・ルーズベルト米大統領が急死、5月にドイツが降伏たが、その直後にウィンストン・チャーチル英首相はソ連への奇襲攻撃を目論んでいる。
 そして作成されたのがアンシンカブル作戦(Operation Unthinkable)。
 これは参謀本部の反対で実現せず、アメリカでの原爆実験の成功で核攻撃へ彼の気持ちは移っていく。

 アメリカでも好戦派がソ連に対する核攻撃計画を作成しはじめるが、そうした流れの中、1950年代に沖縄の軍事基地化が進んだ。
 沖縄を先制核攻撃の出撃拠点にしようとしたわけである。

 沖縄で基地化が推進されていた1955年から57年にかけて時期に琉球民政長官を務めたライマン・レムニッツァー(Lyman Louis Lemnitzer、1899 - 1988)はアレン・ダレスたちとナチスの高官を保護する「サンライズ作戦(Operation Sunrise)」を実行した軍人で、1960年に統合参謀本部議長となった。

 1954年にソ連を攻撃するための作戦を作成したSAC(戦略空軍総司令部)を指揮していたカーティス・ルメイもダレスやレムニッツァーの仲間で、1961年に大統領となったジョン・F・ケネディと対立する。

 ダレスたち好戦派は1957年初頭にソ連を核攻撃する目的で「ドロップショット作戦(Operation Dropshot)」を作成。​
 テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授(James K. Galbraith、1952年生まれ)によると​、攻撃は1963年後半に実行されることになっていた。

 しかし、その前にはケネディ大統領という大きな障害があった。
 この障害が排除されたのは1963年11月22日。
 テキサス州ダラスで大統領は暗殺されたのである。

 NATOにしろ日米安保条約にしろ、その目的は侵略と支配であり、防衛の要素があるとしても、侵略と支配を前提にしての話だ。


櫻井ジャーナル、2020.01.20 18:21:33
日米安保の目的は日本を支配し、ユーラシア大陸に対する軍事的拠点にすること
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202001190000/

 日米安保条約改定調印から60年が経過し、安倍内閣は2020年1月19日、外務省飯倉公館で記念行事を開いた。
 60年前の1月19日、岸信介首相は国内の猛反対を無視して米国ワシントンで改定日米安保条約に調印した。
 当時の米国大統領がアイゼンハワー。
 19日の行事には開かれた式典に、安倍内閣はアイゼンハワー元大統領の孫娘まで招いた。
 1957年に岸信介首相は訪米し、アイゼンハワー大統領とゴルフをした。
 安倍首相は自分がトランプ大統領と4回ゴルフをしたことを自慢するかのように話した。

 私たちは日本の現実を冷静に見つめる必要がある。
 主権者の多数が暴政だと判断する安倍政治が長期政権になっているのは、日本の支配者米国がこの内閣を支配し、利用しているからだ。
 日本は第二次大戦で敗北した。
 それ以来、日本は米国に支配され続けてきた。
 米国に隷従する政権は長期政権となり、米国にものを言う政権は短命に終らされてきた。
 この厳然たる事実を冷静に見つめなければならない。

 1957年に岸信介氏が首相の地位に上り詰めた背景に米国の介入があった。
 岸信介氏は1945年9月15日にA級戦犯容疑で逮捕、収監された。
 その岸氏は、満州時代の盟友・東条英機が絞首刑で処刑された翌日の1948年12月24日に不起訴処分で釈放された。

 そして、わずか9年も経たずして岸氏は日本の首相に就任し、日米安保条約改定を強行した。
 東条英機氏は絞首刑に処せられたが、岸信介氏はGHQによって助命され、首相の地位に上り詰めた。
 その背後に、米国と岸氏との間の取引があったと見られる。
 米国のエージェントとして活動することと引き換えに助命され、さらに、首相の地位にまで押し上げられたと考えられる。

 1956年12月に鳩山一郎首相が日ソ国交回復を花道に辞任した際、米国は岸信介氏の首相就任を望んだ。
 春名幹男氏(1946年生まれ)は著書『秘密のファイル CIAの対日工作』(新潮文庫)に英国外交秘密文書に記された事実を明らかにしている。

 英国外交文書に、当時の米国国務省北東アジア部長のハワード・パーソンズ氏の言葉を引用した以下の記述がある。

「アメリカは、岸が石橋にブレーキをかけることができるだろう、と期待している。いずれ、最後には岸が首相になれるだろうし、『ラッキーなら石橋は長続きしない』とパーソンズは言った。」

 この「予言」通り、1956年12月23日に発足した石橋湛山内閣はわずか2ヶ月後の1957年2月23日に総辞職し、岸信介氏に政権を禅譲した。
 石橋首相は軽い脳梗塞で2ヶ月の療養が必要と診断されたことを受けて首相を辞任した。
 石橋湛山氏は昭和初期に『東洋経済新報』で、暴漢に狙撃され「帝国議会」への出席ができなくなった当時の濱口雄幸首相に対して退陣を勧告する社説を書いたことがあった。
 この言説との整合性を重んじて首相の地位を辞した。

 石橋首相の体調異変の背景に米国の画策があったのではないかと疑われる。
 石橋湛山氏は米国に対しても堂々とものを言う稀有の政治家であった。
 米国はこのような日本の首相を潰す。
 他方で、米国の命令に服従する日本の為政者を徹底支援する。

 米国が岸信介氏に求めたことは日米安保条約の片務性の解消だった。
 改定安保条約第5条に米国の義務が定められたが、日本は米軍のための軍事出動ができない。
 この点を踏まえて改定安保条約では、「第6条 日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される」が定められた。
 日本の基地を米軍が自由に利用できる権利が付与された。
 米国には1948年のバンデンバーグ決議が存在する。
 地域的・集団的防衛協定における「相互主義」を定めたものだ。
 日本が米国のために軍事出動を行わないなら、米国は日本のために軍事出動を行わないというものだ。
 この状況下で、米国は日本の再軍備を強要し、集団的自衛権の行使を容認するように圧力をかけ続けてきた。

 その命令に従ったのが岸信介氏の孫である安倍晋三氏である。


植草一秀「知られざる真実」2020年1月22日(水)
岸信介内閣から安倍晋三内閣至る傀儡政権の系譜
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-548505.html

 トランプ大統領の弾劾裁判の審理が、いよいよきょう2020年1月22日の日本時間午前3時から米国上院で始まった。
 米CNNがその実況中継を延々と続けている。
 それを見た私は思った。
 これは米国の民主主義が試される歴史的な裁判だと。
 与野党が正面から対決している。
 この弾劾裁判の行方は11月の米国大統領選の帰趨を左右する事は間違いない。
 そして、私は思った。
 この裁判はトランプ側が勝つのではないかと。
 ここまで与野党の言い分が真正面から対立している以上、トランプ大統領の言い分が強く見えて来るからだ。
 トランプ大統領は弾劾されずに終わるのではないか。
 そうすれば、トランプ大統領が再選される可能性は一気に高まる。
 そして、再選後のトランプ大統領は、ますます「トランプ大統領らしく」なる。
 「トランプ大統領らしくなる」とはどういうことか。

 それについて、興味深い論説を見つけた。
 きょう1月22日の日経新聞が17日付の英ファイナンシャル・タイムズ紙を引用し、ワシントン・コメンテーターのエドワード・ルース氏の次の言葉を紹介していた。
 すなわち、トランプ大統領は強権をふるう指導者を好み、うらやむというのだ。
 それは、習近平主席やプーチン大統領といった強権的な指導者に対する惜しみない賛辞を見れば明らかだと言う。
 なるほど、いまでこそ少しトーンが違って来たが、トランプ大統領は金正恩委員長が嫌いではない。

 つまり再選後はこれら強権的な指導者と仲良くして民主主義を後回しにすることになるかもしれないのだ。
 そこで私が思ったのは安倍首相のことだ。
 トランプ大統領が再選されれば、安倍首相が賛辞を贈る前に、トランプ大統領が命令するだろう。
 シンゾー、もう少し私とつき合えと。
 その時こそ、安倍続投が決まる時だ。
 なにしろ、米国大統領に命じられて、それに反対できる政党はなく、政治家はいない。
 私は安倍首相はその時を待っているに違いないと思っている。
 トランプ大統領の再選を願っているに違いないと思っている。
 ひょっとして、密かにトランプ大統領に勝ってくださいと伝えているかも知れないのだ。

 見てるがいい。
 安倍首相は11月の大統領選まで、自分の進退については一切を語らないだろう。
 そのことで日本の政局は振り回されるだろう。

 何としてでもトランプ大統領の再選を阻みたい。
 その為には、きょうから始まる弾劾裁判で米国民主党の追及にしたいしたい。
 しかし、どうみても米国民主党は迫力不足だ。
 なんとかならないものか。


天木直人のブログ、2020-01-22
米国大統領選が決める事になる安倍政権のこれから
http://kenpo9.com/archives/6468

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三宅島でエコツーリズム

 伊豆諸島・三宅島(東京都三宅村)で、噴火活動による全島避難の解除から10年が過ぎた。
 避難前の住民のうち、戻ったのは約7割にすぎず、観光客も落ち込んだまま。
 帰島後に始まったランニング大会は今年幕を下ろすが、住民らはなんとか島を盛り上げようと活動を続ける。

 島中央部の雄山は2000年に噴火。
 全島避難は2005年2月1日の解除まで4年5ヶ月に及んだ。
 避難前の住民は約3800人だったが、現在は約2700人で、4割が65歳以上だ。

 火山ガスの濃度は下がり続けており、一般住民向けには2013年11月を最後に注意報は出ていない。
 ただ、雄山の火口付近を中心に立ち入り禁止が続き、一部地区ではぜんそく患者や19歳未満の住民は住むことができないところも残る。

 噴火前の1999年、ダイビングや釣りなど、島への観光客は約7万9千人に上ったが、2013年は約3万3千人にとどまっている。

 自らの手で復興を果たそうと、島の女性有志は2011年から毎年、ランニング大会「三宅島レディース・ラン」を開催してきた。
 今年2015年も3月、島内外の約250人が10、5、3キロの3つのコースを走る予定だ。

 レディース・ランは帰島10年を一区切りとし、今回で終了。
 復興事業が一段落して関係企業から協賛金が集まらなくなっているほか、10キロ以下のランニング大会では島外からランナーを呼び込みにくくなっていることなどが理由という。

 実行委員会の平野奈都さん(29)は「最後の大会になるが、島を元気にするために次につなげたい」。
 今後、村や地元の観光協会と協力し、島を1周するなど距離を延ばしたマラソン大会を検討する考えだ。


日本経済新聞、2015/2/2付
復興ラン、今年で最後
三宅島避難解除から10年

〔共同〕
https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG02H0N_S5A200C1000000/

 東京都と三宅村は2020年4月から、三宅島の活火山、雄山(おやま)周辺の自然を楽しむエコツーリズムを始める。
 雄山は2000年に噴火してから周辺が立ち入り禁止となっていた。
 現在は火山活動が沈静化したことから、都と村は観光地としてPRに力を入れている。
 火山を観光資源として生かし、専門のガイドを養成して誘客を目指す。

 雄山での「東京都版エコツーリズム」は4〜11月に、自然保護への配慮から立ち入り制限区域を設けた上で、1日当たり最大40人で実施する。
 必ずガイドが同行し、参加者は約2時間、雄山の周辺を散策する。
 有料での実施を予定している。

 都は2019年度中にガイドの養成講座と認定を実施する。
 これまでに貴重な自然が残る小笠原諸島の南島など3ヶ所でエコツーリズムを実施している。
 自然保護を目的として、いずれもガイドの同行を義務付けている。

 雄山は直近では1983年と2000年に噴火した。
 島民が島外に避難するなどして、現在では村の人口は約2400人まで減少している。

 気象庁によると、現在の噴火警戒レベルは5段階で最も低い「1」となっている。
 村は自然を生かし、マリーンスポーツやトレッキングなどの誘客に力を入れており、今回の雄山でのエコツーリズムの実施もその一環になる。
 小池百合子知事は「荒々しい火山と再生の進む緑の風景の対比を楽しめるのではないか。ぜひ多くの方々に訪れてほしい」と呼びかけている。


[写真]
三宅島の雄山をガイドとともに散策する(東京都三宅村)

日本経済新聞、
東京都、三宅島でエコツーリズム
火山周辺を観光

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO46258850Y9A610C1L83000/?n_cid=SPTMG002

 求む!消防職員――。
 伊豆諸島の三宅島(東京都三宅村)で、救急や消火活動を担う消防職員の不足が深刻だ。
 欠員が常態化し、現在は定員の8割。
 採用活動も苦戦が続く。
 台風が相次ぐ昨今、村は危機感を募らせている。

 村消防本部が管轄するのは直径8キロ、外周38・5キロの三宅島で、2400人余りが住民登録する。
 昨年1年間の出動は計164件。
 救急が154件と大半を占め、火災2件、救助1件などだった。
 三宅島空港で緊急事態に備え、すべての航空機の発着を警戒・監視する業務もある。

 職員は現在、17人の定員に対し、村外出身の10人を含む14人。
 各班4〜5人の計3班でシフトを組み、3日に1度の24時間勤務などにあたる。
 近年、定員に達しない状況が断続的に続いているが、これまで業務に支障が出たことはないという。
 各地で甚大な被害をもたらした昨年9月の台風15号や翌10月の19号の際には、住宅を一軒一軒回って個別に避難を促すなど職員総出で対応し、一人の負傷者も出さずに乗り切った。

 ただ、職員の負担は確実に増しているという。
「今後人員が減るようなことになれば、勤務シフトが組めなくなり、救急搬送や消火活動が適切にできなくなる恐れもある」と消防本部トップの三宅規之・消防長は話す。
 昨年12月から職員採用の募集をしているが、今のところ応募はゼロだという。

 都島嶼(とうしょ)町村会によると、都内の離島9町村でほかに消防本部があるのは大島、八丈の両町。
 両町とも欠員はあるものの、それぞれ25人中3人、28人中2人と三宅村より割合が低いうえ、八丈町では昨年11月、26人から採用への申し込みがあったという。

 三宅村は今月22日まで募集を続けている。1990年4月2日以降生まれなどの条件がある。問い合わせは同町村会(03・3432・4961)へ。


[写真]
三宅島空港で航空機の発着を見守る三宅村消防本部の職員=東京都島嶼(とうしょ)町村会提供

朝日新聞、2020年1月18日 10時30分
求む!消防職員
台風相次ぐ三宅島、欠員に危機感募らす

(滝口信之)
https://www.asahi.com/articles/ASN1K0QH7N1JUTIL032.html

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2020年01月23日

働く人たちのための情報労連リポート

近年、地球温暖化を背景にした自然災害が相次いでいる。
気候変動問題は人類の差し迫った課題となった。
その中で日本はどのような立ち位置にあるのか。
労働組合に何ができるのか。
気候変動の国際動向などに詳しい平田仁子さん(NGO気候ネットワーク・国際ディレクター/理事)に野田三七生(情報労連中央執行委員長)が話を聞いた。

人類にとって最後のチャンス


野田: 労働組合はこの間、環境問題に取り組んできました。ただ「脱炭素社会」の取り組みが十分だったかというと反省すべき点があります。2015年に国連気候変動枠組条約締約国会議(COP21)で採択されたパリ協定は、脱炭素社会の実現をめざすものでした。先般(2019年12月)、スペインで開催されたCOP25ではどのような議論があったのでしょうか。

平田: 今回のCOP25では、パリ協定の詳細なルールが議論されました。
 パリ協定は、2020年以降の気候変動問題に関する国際的な枠組み。
 世界の平均気温上昇を産業革命前から2度未満、できれば1.5度までに抑えることをめざしています。
 ただ、最近では2度で良いという研究者は少なく、1.5度に抑えなければ危険な気候危機は回避できないと考えられています。

 COP25が開催されたスペイン・マドリードでは、開催中にも大規模なデモが展開されました。
 過去1年、大規模なデモは世界各地で起きています。
 こうした声に各国政府が応えられたかというと、ギャップはかなり大きいと言わざるを得ません。
 異常気象に伴う自然災害が世界中で頻発する切羽詰まった現実と、各国政府の動きとのギャップ。
 これではいけないという焦燥感を、COP25の現場にいて私も強く抱きました。

 状況はかなり切迫しています。
 気温上昇を1.5度に抑えないと、2度に抑制する場合と比べて生態系の絶滅リスクは2〜3倍高まり、異常高温、激しい降雨、干ばつなどのリスクも高まります。
 しかし、このままではあと10年で気温上昇は1.5度に達すると指摘されています。
 国連の新しいリポートは、今の4倍のスピードで対策を実施する必要性を訴えています。
 2030年までにドラスティックな変化をもたらさなければ、「1.5度」という選択肢は奪われてしまいます。
 この10年は人類にとって「最後のチャンス」と言えるほど重要な意味を持ちます。

アメリカのダイナミズム

野田: グテーレス国連事務総長は各国に積極的な行動を促していますが、先進国はその役割を果たせているようには思えません。

平田: 温室効果ガスの排出量の約8割は、G20諸国が占めています。
「主要排出国」がどう動くかが鍵を握っています。

野田: アメリカがパリ協定から離脱する影響はどれくらいあるのでしょうか。

平田: アメリカは世界で2番目の温室効果ガスの排出国です。
 影響は当然大きいです。
 トランプ大統領の就任によってアメリカの気候変動対策は後退したと見られています。
 ただ、それとは異なる側面もあります。
 例えば、トランプ政権下であっても、石炭火力発電所はオバマ政権下と同様のスピードで閉鎖されています。
 シェールガスの影響もありますが、再生可能エネルギーの低廉化が大きく影響しています。
 また、政治的にもアメリカの先進的な州政府や企業、環境団体、そして民主党議員たちは「We Are Still In (我々はパリ協定に残っている)」というイニシアティブを立ち上げ、気候変動問題に熱心に取り組んでいます。
 COP25でも会場内に大きなブースを設け、州や地方レベルでの取り組みをアピールし、トランプ政権との違いを強調していました。
 政権交代の可能性もあるので、緊張感もあります。

野田: アメリカは一枚岩ではないということですね。それに比べると日本は対立する勢力が弱い。欧米では金融機関や投資家がCO2排出量の多い企業への投資を取りやめるなどのニュースを耳にしますが。

平田: まさにその通りで、アメリカでは市民社会も積極的に行動しています。
 気候変動問題に積極的に取り組む民間企業や、強力なNGOやシンクタンクもあります。
 投資撤退(ダイベストメント)は、学生運動から広がりました。
 アメリカの運動にはダイナミズムがあります。

野田: 連合でもESG投資の推進を訴えていますが、気候変動問題ではさらなる取り組みが求められそうです。

平田: ダイベストメントについては、欧米の金融機関・投資家が日本企業への投資から撤退した例も出てきています。
 また、日本の金融機関は海外の石炭火力発電への融資を批判されています。
 こうした流れは今後も強まっていきます。
 企業はその変化を強く意識しているかもしれません。
 欧米では、教職員組合のような小さな組織の活動から風穴があきました。
 日本でも期待したいです。

野田: グレタ・トゥーンベリさんに象徴されるように若者発の運動が広がっています。将来に対する危機感が高まっている表れだと捉えています。

平田: グレタさんの言葉は同世代の若者の間で強い共感を呼んでいます。
 COP25にもたくさんの若者が駆け付けました。

野田: 新しい運動がさまざまな場所で始まっていますね。

再生可能エネルギーと日本

野田: 日本で再生可能エネルギーがなかなか普及しないのはなぜでしょうか。

平田:「不安定」「高価格」「発電量不足」が、再生可能エネルギーが普及しない要因としてよく語られます。
 ただこれは、何十年も前から言われてきたことで、欧米ではすでに柔軟な電源システムへの移行を前提とし、課題を克服しつつあります。
 不安定だからという理由で立ち止まっていません。
 実際、日本が技術力に劣っているとは思えないスペインでも、天気予報に合わせてリアルタイムで需給を調整するシステムがすでに稼働しています。
 再生可能エネルギーの先進国は、そのメリットを理解しているからこそ、技術開発にチャレンジし、新しい技術や仕組みを生み出しています。
「不安定だから」などの言い分は、立ち止まるための理由に使われているに過ぎないのではないでしょうか。

野田: 日本の技術力があれば、もっとできるということですね。

平田: そうです。
 現在、日本において再生可能エネルギーが発電量に占める割合は15%程度ですが、柔軟な電力調整のシステムを導入すれば、その比率を30〜40%まで高められると言われています。
 それ以上の高い割合になると再生可能エネルギーの先進国の多くでもまだ実現できていない領域ですが、ここにこそ日本の技術力を生かす余地があるはずです。
 ただ、企業の人とお話しすると迷っている印象を受けます。

 政府は長期戦略で脱炭素社会を掲げる一方、石炭火力発電も維持する方針を掲げています。
 政府からの明確なシグナルがないため、企業は再生可能エネルギーへの投資に大胆に踏み切れないのではないでしょうか。
 めざす方向が明確に見えれば、企業も覚悟を決めて投資できるようになるはずです。
 しかし、政府の再生可能エネルギーに対するシグナルは非常に弱い。
 政府の姿勢は罪深いと思います。

 再生可能エネルギーの国際マーケットで、日本企業は中国やヨーロッパの企業に後れを取っています。
 ハード面で太刀打ちできなくなった今、日本企業が再生可能エネルギー分野で優位性を保てるとすれば、非常に高度なソフト産業ではないかと思っています。
 政府は、石炭火力発電のインフラ輸出を成長戦略の一つとしていますが、このままでは世界の動きからさらに取り残されてしまいます。

 日本は、新しい時代の産業の中で優位性を持てるのか、そこに雇用を生み出せるのかの岐路に立っています。
 対応が遅れるほど選択肢は狭まります。

脱炭素社会への道筋

野田: 石炭火力発電を巡っては、東日本大震災後に原子力発電所の稼働が止まり、石炭火力発電所の新設も含めて、仕方がないのではという声もありますが。

平田: はい。
 私たち「気候ネットワーク」では、脱炭素社会実現のためのロードマップを作成しています。
 この中では、石炭火力発電所の新設も、原子力発電所の稼働もせずに、電力需要をまかなえると具体的な数字とともに提言しています。
 日本には今、約100基の石炭火力発電所があり、約15基が新設中です。
 石炭火力発電所を新設してしまえば、長期間にわたってCO2排出を固定することになり、脱炭素社会に逆行します。

 現状、原発が動いていない状態でも電力は足りています。
 人口減少社会を踏まえれば、電力需要も頭打ちです。
 今ある設備を可能な限り早く再生可能エネルギーに切り替えていけば、電力需要に対応しながら、脱炭素社会に近づくことは可能です。

 当団体も協力したイギリスのシンクタンクによる分析では、2025年には再生可能エネルギーの方が、既存の石炭火力発電より安価になるという結果が出ています。
 経済合理性の観点からも転換が求められています。
 日本の場合、シンクタンクや環境団体による時代を捉えた分析や発信力に課題があります。

労働組合と「公正な移行」

野田: エネルギーシフトが議論される中で、「公正な移行」が大きなテーマになっています。労働組合としては雇用問題が欠かせないテーマです。脱炭素社会の実現に向け、どう捉えていますか。

平田:「公正な移行」は、国際労働組合総連合(ITUC)と、国際環境団体が強力なタッグを組んで活動を展開しています。
 環境団体や市民団体も「公正な移行」は大きな課題だと認識しています。
 COP25のサイドイベントでも、石油精製所を停止した地域がどのように雇用問題などを克服したかなどの事例が数多く共有されました。
 地域の人びとが雇用問題を含め納得しなければ脱炭素に向かえないという認識は、環境団体の中でも強まっています。
 産業の枠を超えて、地域の中でどう対話し、どう解決策を見いだせるかが重要なポイントです。
 労働組合の皆さんとの連携の必要性を感じています。

一人ひとりの行動・意識を変える

野田: 各国がパリ協定により積極的にコミットすることが大切ですし、私たちもその情報をもっと社会に伝えないといけないと感じます。
気候変動問題は本来、私たち一人ひとりにかかわる問題。私たちが加害者である側面である中で、現状では自然災害を恐れるだけにとどまっている状況が少なからずあります。一人ひとりがこの問題にもっと向き合わないといけない。

平田: おっしゃる通りで、頻発する自然災害と気候変動問題を結び付けて考えられていないという現状があります。
 自然災害による被害はすでに生じていて、多くの人が今後の自然災害に対する不安や恐怖感を抱いています。
 その一方で、自然災害から自分の身をどう守るのかという受け身の受け止め方が多い。
 でも、気候変動のこれからについては、私たちが自分たちの力で変えられる課題です。

野田: そうなんです。でも、変えられないと思っている人が多い。

平田: その意識のズレをどうするのか。非常に悩ましい課題です。
 気候変動問題はこれまで「電気をこまめに消しましょう」という伝え方ばかりで、経済や産業社会の構造的な問題であるという伝え方が不足していました。
 そのため、日本の若者たちの間にも、自分たちには変えられない問題という諦めのような認識が根底に見られます。
 しかし、気候変動問題は、地震や津波と異なり、私たちの力で未来を変えることのできる課題です。
 人びとの行動や意識を、未来を変える選択にどうつなげられるか。
 この先10年の大きなテーマです。

野田: 気候変動問題を自分ごととして考えられないのは、そういう社会をつくってきた大人たちの責任。それを変えていくのも大人の責任だと感じています。

平田: 気候変動問題以外の日本社会の問題が、この問題にも反映されているように感じています。

野田: 平田さんが、気候変動問題は「人類の安全保障」にかかわる問題だと発信されていますが、その通りだと思いました。2018年に気候変動の影響を最も受けた国は日本だったというNGOの調査結果がCOP25の中で報告されました。自然災害は、弱者により大きな影響を及ぼします。人権に関する問題でもあります。

平田: パリ協定の前文は、人権や公正、格差是正、職業の安定、人類の発展などのために気候変動問題に取り組む必要があることを強調しています。
 気候変動問題は、持続可能な開発目標(SDGs)の基盤となるテーマです。

野田: 今日のお話はとても勉強になりました。私たち労働組合としても、これまでやってきたこと、できていなかったこと、反省点もあります。労働組合として積極的にこの問題にコミットしていくつもりです。ありがとうございました。


[写真]
2015年、パリで開催された国連気候変動枠組条約締約国会議

働く人たちのための情報労連リポート、2020/01/17
[新年号委員長対談] 2020.01-02
気候変動にどう向き合うか
日本の立ち位置、労働組合への期待

http://ictj-report.joho.or.jp/2001-02/topics01.html

なぜここまで少子高齢化が進んでしまったのか。
人口減少は日本社会にどのようなインパクトを与えるのか。
『無子高齢化 出生数ゼロの恐怖』(岩波書店、2018年11月)の著者である前田正子・甲南大学教授(1960年生まれ)に聞いた。

人口減少のインパクト


── 人口減少のインパクトとはどのようなものでしょうか。

前田正子: 人口減少は今後、加速していきます。
 少子化は想定以上のスピードで進んでいます。
 2019年に生まれた赤ちゃんの数は87万人を割り込むことが確実で、出生数は今後さらに少なくなります。
 30年後に30歳になって子どもを産む可能性のある女性は43万人しかいません。
 国の予想では出生数が90万人を割るのは2021年の予定でした。
 2040年代には団塊ジュニア世代が高齢者になります。
 団塊ジュニア世代は就職氷河期などの影響で不安定雇用の中で家族を形成しないまま、高齢者になる人も多く、経済力のない高齢者が増えることになります。
 この頃が高齢化率のピークです。
 日本の高齢化率は4割近くになる可能性もあります。
 そうなれば、現在のような医療・介護制度などを維持することは困難でしょう。
 日本の年間の出生数は、2004年に111万人。
 2005年に106万人、2016年に98万人となりました。
 2019年には87万人台を割ることが確実です。
 110万人台から10万人減るのに約10年かかっていましたが、さらに10万人減って87万人弱になるのにかかったのはわずか5年程度。
 少子化は加速度的に進んでいます。
 人口減少よりインパクトが大きいのが、少子化です。
 高齢化率は高まっていくのに、それを支える若年層が想定以上に減っていく。
 非常に深刻な問題です。

低賃金・不安定雇用が背景に

── 少子化の背景にあったものとは何でしょうか?

前田: 日本の賃金はここ20数年間、横ばいのまま上がっていません。
 1990年代以降、日本企業は非正規化などを通じて賃金を安くすることで生き残りを図ってきましたが、そのことで若年層は家庭を形成できなくなりました。
 それが少子高齢化問題を深刻化させました。
 企業が非正規雇用を増やし、新卒採用を抑制してきたことに関しては、労働組合も共犯者ではないでしょうか。
 オランダでは1980年代、失業の増大などの問題に対して、ワークシェアリングを実施しました。
 オランダの労働組合は、女性や若者の非正規雇用化に対して、このままではすべての雇用が非正規雇用に置き換えられると認識し、痛みを分かちあう覚悟を決めました。
 一方、日本の労働組合は、男性正社員が世帯の稼ぎ主となるモデルから脱却できませんでした。
 男性正社員の仕事を守るために若者や女性の仕事を犠牲にし、非正規化を進めたことが、かえって自分たちの社会の首を絞めることにつながったのではないでしょうか。


変えられなかった考え方

── 政策的に欠けていたこととは?

前田: 日本社会は「若者が就職できないのは若者のせい」「子育ては親の責任」という考え方から脱却できませんでした。
 欧州は若年層の失業率が高かったため、若者雇用促進や子どもの育成を社会的にどう支えるかが政策課題となりました。
 けれども日本は新卒一括採用で若年層の失業率が低かったことなどから、時代の変化に対応できませんでした。
 2000年代前半に横浜市役所に勤めていた際にも、子育てや若者支援の必要性を訴えましたが、周りの中高年男性から「子育ては親の責任」だとずっと言われ続けてきました。
 市役所に勤務してわかったのは、大企業で働く人たちが見ている社会は、限られた社会でしかないということです。
 学歴が高く、会社からも守られている。
 そういう限られた世の中のことしか知らない一握りの人たちしか政策決定の場にいない。
 そのことが時代の変化に対応できなかった大きな理由だと思います。


行き当たりばったりの対策

── 地域社会で起きていることとは?

前田: 地域社会では、会社からは想像できないまったく別の問題が生じています。
 非正規で使い捨てされた人や高校を中退した若者、シングルマザー、孤独の中で暮らす高齢者など、ケアが必要な人たちが本当にたくさんいます。
 近年では、外国人の子どもも増えていて、母国語も日本語も中途半端なダブルリミテッドといわれる子どもたちの教育が問題になっています。
 学校での授業にもついていけず、就職も難しい。
 外国人労働者を安易に安く働かせてきた日本社会がそういう若者たちを生み出しています。
 でも、そうした人たちは自ら市役所に相談してくることはありません。
 問題が深刻化してから市役所に情報が寄せられます。
 今、地域社会で必要なのは、その人が抱えている困りごとを見いだし、必要な支援につなげることです。
 しかしケアをする人材は不足。
 ケアをする人材を増やすための税収も不足し、専門性のある人材も減少しています。
 そうした中、ケアを求める人だけが増え続けています。
 日本社会は負のスパイラルに陥っています。

 率直に言って、先行きは暗いです。
 人口減少は以前から想定されていて、本来なら対策をもっと講じておくべきでした。
 けれども、繰り返されたのは、行き当たりばったりの対策ばかり。
 就職氷河期に新卒採用をやめて、今になって中堅がいないとあわてたり、氷河期世代の中高年化が問題になって初めて対策を講じたり。
 若い世代が低賃金・不安定雇用で家庭が形成できなければ、少子化が進行し経済成長を阻害するだけでなく、将来的に貧困問題を生じさせることは想定できたはずです。
 なのに対応してこなかった。
「国家百年の計」がないと言わざるを得ません。

労働組合に期待できるのか

── 対策はあるでしょうか?

前田: 国民が真剣にこの事態に向き合わないと明るい未来は描けません。
 少子高齢化がますます進行する中で、医療や介護、年金など、何ができて、何を諦めるべきなのかを議論しなければいけません。
 厳しい選択を迫られるかもしれませんが、目をそらすわけにはいきません。
 若者だけではなく、大人たちも、自分たちを取り巻く社会保障制度などがどうなっているのかを知る必要があります。

 若者たちは企業や労働組合が信用できる組織かどうかを見ています。
 2019年5月、化学メーカーのカネカで、育児休業を取得した男性が復帰後2日で転勤辞令を出され、そのいきさつがインターネット上で炎上した出来事がありました。
 今の若者たちは、共働きすることが当たり前なので、生活基盤を破壊するような頻繁な転勤を嫌います。
 学生たちは会社の告知文を読むだけでなく、労働組合の動きも気にしていました。
 今後も、仕事をして、子どもを生んで、子育てをする女性は、増えていきます。
 男女が同じように子育ても仕事もしなければ、家庭だけではなく、日本社会そのものも回りません。
 私は、労働組合がそのサポートを本気でできる組織なのか、疑問を感じています。

 大企業から見える社会は社会の一部でしかありません。
 皆さんが会社の外のありのままの社会を見て、なすべきことを考えてくださることを期待しています。


働く人たちのための情報労連リポート、2020/01/17
「2020」その先を考える
加速化する人口減少
背景にある日本の働き方 日本社会は変われるか

前田 正子(甲南大学マネジメント創造学部教授)
http://ictj-report.joho.or.jp/2001-02/sp02.html

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映画「ロック 〜わんこの島〜」

ロック〜わんこの島〜
https://www.youtube.com/watch?v=Qcbc5z5rcR8

 今月2011年7月15日に三宅島を訪れ、地元の椎取神社で大ヒット祈願の参拝を行なった、映画『ロック〜わんこの島』の佐藤隆太、麻生久美子が、物語の舞台でもあるロケ地・三宅島への想いを語った。
 
 佐藤、麻生のほか、倍賞美津子、子役の土師野隆之介が参拝した椎取神社は、2000年に起きた三宅島の雄山大噴火により、鳥居と拝殿が埋没した神社。
 鳥居の頭部分だけがなんとか顔を出している状態となってしまっている旧神社の隣に、現在は、新しい鳥居と拝殿が建設され、キャストたちはそこで、2000年の噴火で離れ離れになりながらも強く生きていく、三宅島の家族と飼い犬ロックの強い絆を感動的に描いた本作の大ヒットを祈願した。

 大噴火から11年が過ぎた今でも、椎取神社を始め、噴火の爪痕が今だに残っている三宅島。
 本作の冒頭に起こる群発地震が発生した2000年の夏、雄山の噴火により噴煙は上空15,000メートルに達し、火山弾と呼ばれる溶岩の塊が落下。
 子どもたちの島外避難が実施され、島の子どもたちは大人たちと離れ、東京の全寮制の学校へと移り、その後、三宅島に暮らす3,895人全員が避難した。
 避難生活を送っていた住民たちに全島避難の解除が出たのは、それから4年5か月後……。
 島を愛する三宅島の人々にとっては、余りにも長い日々だった。

 だが、10年前に起きた東京都・三宅島の悲劇を、今いったいどれくらいの人が覚えているだろう。
 テレビの中で流れていたニュースを覚えている人はいても、三宅島の人びとがたどった、復興までの長い4年を知る人は少ないのではないだろうか。
 この映画は、少年と愛犬との絆を描いただけでなく、「自分たちのふるさとに、いつか戻る」と願い続けた家族の物語でもある。

 今年6月、佐藤は、本作を持って宮城県・石巻市を訪れた。
「3月に起きたばかりの震災と重なってしまうシーンもある。」と、緊張していた佐藤に、上映後、観客からかけられた言葉は、「三宅の人たちのように、わたしたちも頑張っていきたい」という言葉。
 それが、なによりもうれしかったと、佐藤は振り返る。

「三宅島の人びとの頑張りを伝えたい」、その一心で、麻生と二人、懸命に、明るく生きる三宅島の夫婦を演じきった。
「噴火のときの話を、島の方に聞いたとき“なんとかなる!”って信じていたことを聞いたんです。落ち込むことなく、明るく前向きに生きる、たくましさに、感動しました。この映画が、今の日本の力になればうれしいです」と語った佐藤と麻生。

 二人は、炎天下の中、真新しい椎取神社の拝殿に向かって静かに手を合わせていた。


[写真]
三宅島のひとびとの努力が伝わりますように!

シネマトゥデイ、2011年7月22日 6時06分
佐藤隆太が映画『ロック〜わんこの島〜』に込めた想い…
東京都・三宅島の復興を伝えたい

https://www.cinematoday.jp/news/N0033966

 2011年7月23日から公開される映画『ロック〜わんこの島〜』(中江功監督)、本作の裏側には、三宅島の島民とともに大噴火を乗り越え、逆境に負けず、自由にたくましく暮らした実在の犬・ロックと島民との感動秘話があった。

 めざましテレビの人気コーナー「きょうのわんこ」あてに、三宅島で民宿を営む沖山勝彦さんから手紙が届いたのは2007年のこと。
「きょうのわんこ」チームが約3年にわたり追い続けたロックほど、ドラマチックな運命を生き抜いた犬はなかなかいないだろう。
 2000年、三宅島を襲った雄山の大噴火。
 混乱のさなか、一時は主人である沖山さんと離れ離れになりながらも、ロックは島の誰かによって保護され、大切な家族と再開を果たした。
 それから約5年後の2005年、ロックは避難解除されたその日に、三宅島でともに暮らしていたおばあちゃんとともに島へと戻った。
 島に降り立ったそのとき、ロックは、うれしそうに自宅に向かって一直線に駆け出していったという。
 首輪もつけず、三宅島のなかを自由に駆け回っていたロックは、帰島してから5年間、沖山さんと共に民宿のお客様を出迎え、三宅島の夕日を毎日眺め続けた。
 島のひとたちと一緒に噴火を経験し、火山灰の中を歩き、復興への道のりを歩んだロックは、三宅島の復興のシンボルとして、島中のひとに愛された。
 島の誰もが、ロックをみると、うれしそうに頭をなでた。

 だが、いつもうれしそうにご主人の車に飛び乗っていたロックは、ある日、車に飛び乗ることができなくなったという。
 喉に腫瘍ができていた。
 うれしそうに駆け回っていたロックの脚力は次第に弱まり、歩くスピードも落ちていった。

「ロックの話が映画になるよ!」

 そんな声を聞きながら、クランクインの3か月前、ロックは眠るように2014年、11ヶ月の生涯を閉じた。
「ロックはただ、長い長い散歩に行っているだけ」、亡くなってからもずっと、三宅島の人々の心に住み続けていたロックが、スクリーンのなかで蘇った。

 1週間前、ロックの犬小屋を訪ねた主演の佐藤隆太、麻生久美子らは、「会いたかったよ! ロック、本当にありがとう」と話しかけ、ロックの好物だった唐揚げやビーフジャーキーを犬小屋にそなえた。


「写真」
ロックの犬小屋に手を合わせる倍賞美津子と見守る佐藤たち

シネマトゥデイ、2011年7月23日 11時30分
三宅島のわんこ・ロックは映画クランクイン前に死去
映画『ロック〜わんこの島〜』に隠された秘話

(編集部:森田真帆)
https://www.cinematoday.jp/news/N0034029

 2011年8月12日、品川プリンスシネマ「シアターZERO」にて上映された映画『ロック 〜わんこの島〜』を天皇皇后両陛下が鑑賞された。

 同作は、情報番組「めざましテレビ」の人気コーナー「きょうのわんこ」で話題を呼んだ実話を基に、2000年8月の三宅島大噴火により離れ離れになった犬と飼い主一家のきずなをつづる感動作。
 1人の少年と1匹の犬の友情を通し、家族のあり方や現代社会に失われつつある心と心のつながりを、三宅島の雄大な大自然を舞台に描き出す。
「ROOKIES」シリーズの佐藤隆太、『カンゾー先生』の麻生久美子、ベテラン倍賞美津子らの実力派キャストが名を連ねている。

 午後5時46分に劇場にご到着された天皇皇后両陛下はお出迎えの中江功監督、佐藤隆太、麻生久美子、土師野隆之介、ゴールデン・レトリーバーのロックらに対し、お声をかけられた。
 天皇皇后両陛下は、場内の試写会出席者から大きな歓声と拍手で迎えられ、隣席の中江、佐藤、麻生、土師野らと映画を鑑賞された。

 上映終了後には、中江監督、佐藤、麻生、平野祐康三宅村長が、両陛下とご歓談。
 佐藤隆太は陛下に「とても良い映画を観せてもらいました、ありがとうございましたとおっしゃっていただき、とにかくうれしかったです」と興奮さめやらぬ様子。

 また、麻生久美子は「光栄でした。お会いしたときに包み込まれるような温かさを感じました。本当に緊張していたのですが、両陛下が映画を観ながらお話をされていて、そのことでうれしい気持ちになって、そこからは落ち着いて映画が観られました。皇后さまが『アチョー! はとてもよかったですね』とおっしゃってくれました」と語った。

 平野三宅村長は「島内の経済状況について、漁業や農業はどうなっていますか、ということお聞きいただきました。また、火山ガスのことを心配されていて、濃度は減ってきておりますとお答えしました」と両陛下が三宅島をお気にかけていらっしゃることが伝わってきた。

 三宅島噴火の後、天皇皇后両陛下は、都内の避難先をたびたび訪問され、避難生活を送る島民を激励されている。
 また、全島避難指示が解除された約1年後には火山ガスの放出が続いているなかガスマスク携行の上、三宅島を訪問され島民の皆さんにねぎらいの言葉をかけられていたという。


[写真]
天皇皇后両陛下(右側)とゴールデン・レトリーバーのロック、土師野隆之介、麻生久美子、佐藤隆太、中江功監督、平野祐康三宅村長

シネマトゥデイ、2011年8月13日 1時18分
天皇皇后両陛下、三宅島の家族描く映画『ロック 〜わんこの島〜』を佐藤隆太、麻生久美子らとご鑑賞
(編集部・下村麻美)
https://www.cinematoday.jp/news/N0034565

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三宅島

 いまの江東区は白河に住んでいた浅沼稲次郎(1929年から刺殺される1960年まで)、じゃ、お生まれは、というと三宅島!

 わが生まれ故郷三宅島は大島、八丈島などとともに近世の流罪人の島として有名である。
 わたくしは先祖をたずねられると『大方流罪人の子孫だろう』と答えているが、事実、三宅島の歴史をみると遠くは675(天武天皇4、皇紀1336)年、三位麻積王(ヲミノオホキミ)の子を伊豆七島に流すと古書にある。
 島には有名流罪人の史跡が多い。
 三宅島という名の由来も717(養老3、皇紀1379)年に、多治見三宅麿がこの島に流されてから三宅島と名づけられたといわれている。
 わたくしが子供のころ、三宅島の伊ヶ谷にはこれらの流罪人を入れた牢屋がまだ残っていた。
 三宅島の流罪人名士をあげると竹内式部、山県大弐の勤王学者、絵師英一蝶、「絵島生島」の生島新五郎、侠客小金井小次郎など多士多彩だ。
 しかしこれらの流罪名士の中の英雄はなんといっても源為朝であろう。
 わたくしの友人で郷土史研究家の浅沼悦太郎君が『キミが国会で力闘しているのは為朝の血を引いているからだ』といっていたが、現代の為朝にみられてちょっとくすぐったかった。
 島の文化は流罪人から非常な影響を受けたことは事実で、父浅沼半次郎(村長)も、流人の漢学の素養のある人から日本外史、十八史略などを教えられたそうだ。
 私は母とともに13歳までこの三宅島で暮した。

 三宅島時代で最も印象に残っているのは、小学校の5、6年ごろと思うが、断崖にかけてある樋(とい)を渡って母にしかられた思い出だ。
 三宅島は火山島で水に不便だ。
 清水を部落までひく樋がよく谷間にかかっている。
 私の渡った樋は高さ数十丈、長さ十丈ぐらいの谷間にかけられたもので、学校友だちと泳ぎに行った帰りに、『あの樋を渡れるかい』とけしかけられて渡った。
 一緒にいた従兄の井口知一君が最初に渡ったものだから、私も負けん気になって渡り、ご愛敬にも途中でしゃがんで樋の中にあった小石を拾って谷間に投げ込んでみせた。
 なんとも乱暴なことをしたもので、今でも故郷に帰るとこれが昔話にされる。
 私は知れると母にしかられるので黙っていたが、母はどこかで聞いたとみえ畑仕事から帰ると目から火の出るほどしかられた。
 母として丹精して育てたわが子の無謀が許せなかったのだろうが、私は恐れをなして外に逃げ、後で家に帰っても俵の中にかくれていた。

 小学校6年の終りに上京、砂町にいた父の膝もとから砂町小学校に通い、ついで府立三中(今の両国高校)に入学した。
 このとき砂町小学校から7人、三中を受け、私一人しか合格しなかったのをおぼえている。

 府立三中は本所江東橋にあって、いわゆる下町の子弟が多く、そのため庶民精神が横溢していて、名校長八田三喜先生の存在と相まって進歩的な空気が強かった。
 この学校の先輩には北沢新次郎、河合栄治郎の両教授のような進歩的学者、作家では芥川龍之介、久保田万太郎の両氏、あるいは現京都府知事の蜷川虎三氏などがいる。

 三中に入学した年の秋、学芸会があり、雄弁大会が催された。
 私はおだてられて出たが、三宅島から上京したばかりの田舎者であるから、すっかり上がってしまった。
 会場は化学実験の階段教室であるから聴衆が高い所に居ならんでいる。
 原稿を持って出たが、これを読むだけの気持の余裕がなく、無我夢中、やたらにカン高い声でしゃべってしまったが、わが生涯最初の演説はさんざんの失敗であった。
 これで演説はむずかしいものとキモに銘じた。

 その後、三年のころだったか、八田校長が当時チョッキというアダ名で有名な蔵原惟郭代議士(現共産党中央指導部にいる蔵原惟人氏の父君)を連れてきて講演させたことがあった。
 内容はおぼえていないが、この講演には当時、非常な感銘を受けた。
 また学校の学芸会の際、河合栄治郎氏がしばしば白線入りの一高帽で来たり、帝大入学後は角帽姿で後輩を指導したことは忘れられず、私が政治に生きたいと考えるようになったさまざまの刺激の一つとなったものである。


私の履歴書
浅沼稲次郎
一、生まれ故郷は三宅島

https://ja.wikisource.org/wiki/私の履歴書/浅沼稲次郎#一、生まれ故郷は三宅島

三宅島について

 東京から南へ約180kmの位置にある三宅島は、東京の山手線の内側とほぼ同じ大きさの島です。
 年間平均気温は17.7℃、30℃を超える日や0℃以下になる日は少なく、1年を通して温暖な気候の住みやすい島です。

 三宅島は富士火山帯に含まれる活火山であり、近年では2000年の雄山山頂噴火、それ以前では1983年阿古地区の噴火、1962年坪田地区の噴火と約20年周期で噴火を繰り返しており、島内のいたる所で観ることの出来る雄大な火山島景観は、まるで天然の火山博物館のようです。

 豊かな自然に囲まれた三宅島では、釣り・ダイビング・海水浴等のマリンスポーツをはじめ、トレッキング・サイクリング・バードウォッチング・ボルダリング等、陸上のアクティビティを楽しむお客様も近年増えております。

 地球の息吹を全身で感じることの出来る三宅島にぜひお越しください。


三宅島観光協会
https://www.miyakejima.gr.jp/about/

観る
故浅沼稲次郎の生家
神着地区


 三宅島出身の政治家で、日本社会党書記長、委員長を歴任。
 大きな体と大きな声で精力的に遊説する姿から、「演説百姓」、「人間機関車」などの異名をとった。

 1960年、安保闘争を前面にたって戦い、岸信介内閣を総辞職に追い込むが、総選挙の前哨戦として行われた、日比谷公会堂での自民・社会・民社3党首立会演説会で、演説中に腹部を刺され、波乱の生涯を終えた。


[写真-1]生家

[写真-2]銅像

三宅島観光協会
https://www.miyakejima.gr.jp/see/asanumainejirou_seika/

 2000年の大噴火の記憶も新しい三宅島も、島民帰島から10年過ぎました。

 東京から 近い伊豆七島のひとつですが、初めて行って来ました。
 竹芝22:30発
 すぐ寝るには勿体ない美しい夜景です。

 レインボーブリッジに見送られ
 お台場の観覧車に見送られ
 東京湾のキリンたちに見送られ・・

 一昨年就航した「橘丸」の2等船室です。個別番号の指定席になってます。
 私は仕切りカーテンが欲しくて、特2等の2段ベッド室。
 デッキでは、12時ころまで若者たちが宴会模様でした・・

 少しうたたねしてたら三宅島着、最高に眠い時間帯
 三池港 上陸 4時50分

三宅島: 伊豆七島のほぼ真ん中、東京から南へ約180kmの距離にある。
 総面積55ku、周囲36kmのほぼ円形で、山手線の内側 と同じくらい。
 中心部には火口の深さ約500mの雄山(標高775.1m)がある島です。
 気候は周囲を流れる黒潮(南西からの暖流)の影響により温暖多雨な海洋性気候で、年間の平均気温は17.7℃です。
 三宅村の人口は約2700人。


とりこのつぶろぐ、2016年04月27日16:19
思いつくままに
三宅島へ
http://blog.livedoor.jp/aoitorikotori/archives/1857286.html

 三宅島の総鎮守でもある富賀神社。
 境内にガザニアの花畑が広がってる・・ 
 4〜5人の女性たちが掃除をしてたので挨拶を交わした。
「ガザニアの花畑とは珍しいですね」と言うと、
「ガザニアは火山灰、火山ガスにも強いので、皆で植えたんですよ」と・・

 神社の背後は深い森だったそうです。

 雨模様の朝、ガザニアは陽が差さないと花が開かないので残念ですが・・

 周囲の枯れ木が復活してる様子が分ります。

 島の周遊道路の花はガザニアです。
 飛行場周辺は、ヤシの街路樹とガザニア。
 ガザニアは太陽が好きな花・・雨模様で惜しいなあ

おまけ: 小高い場所に浅沼稲次郎さん(社会党委員長)の生家があった。
 1960年に日比谷公会堂で暗殺された。大きな声と体格で知られる人。
 中には入れませんが、窓から室内をパチリ。
 銅像と、その隣は芝生広場になってました。


シャリンバイにカラスアゲハ 今季初見
とりこのつぶろぐ、2016年05月01日18:00
思いつくままに
三宅島を歩く/ 島の花ガザニア
http://blog.livedoor.jp/aoitorikotori/archives/1857731.html

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2020年01月22日

浅沼稲次郎さんの遺志を受け継ぐ

 浅沼稲次郎さんの遺志を受け継ぐために、女たちが語る「平和といのちの集い」が先日(2009年10月9日)、東京・千代田区の総評会館(法人名は「公益財団法人総評会館」なれど、会館名称はいま「連合会館」)で開かれ、参加者は200人を超えた。
「平和といのちの集い」の席上、配布された浅沼演説(演説されなかった予定稿も含む要旨)を以下に紹介する。

▽ 浅沼演説 ― 米軍基地の返還こそが独立国家の条件

 諸君、政治とは、国家社会の曲がったものを真っ直ぐにし、不正なものを正しくし、不自然なものを自然の姿に戻すのが、その要諦である。
 しかし現在のわが国には、曲がったもの、不正なもの、不自然なものが沢山ある。
 第一は池田内閣が所得倍増(注2)を唱える足元から物価はどしどし上がっている。
 月給は2倍になっても、物価が3倍になったら、実際の生活程度は下がる。
 最近は社会保障と減税は、最初の掛け声に比べて小さくなる一方である。
 他方、大資本家を儲けさせる公共投資ばかりが脹らんでいる。

 第二は日米安全保障条約(注3)の問題である。
 アメリカ軍は占領中を含めて、今年1960年まで15年間日本に駐留しているが、今回の安保条約改正によってさらに10年駐屯しようとしている。
 外国軍隊が25年の長きにわたって駐留することは日本の国はじまって以来の不自然な出来事である。
 インドのネール首相は言っている。

「われわれは外国の基地を好まない。外国基地が国内にあることは、その心臓部に外国勢力が入り込んでいることを示すもので、常にそれは戦争のにおいをただよわせる」と。

 私どももこれと同じ感じに打たれるのである。(拍手)

 日本は戦争が終わってから偉大なる変革を遂げた。

 まず主権在民の大原則である。

 つぎに言論・集会・結社の自由、労働者の団結権・団体交渉権・ストライキ権が憲法で保障されている。

 さらに憲法9条で戦争放棄、陸海空軍一切の戦力の不保持、国の交戦権の否認を決めている。
 これによって日本は再軍備はできない、他国に対し、軍事基地の提供、軍事同盟は結ばないことになったはずである。
 ところが日米安保条約によって日本がアメリカに軍事基地を提供し、その基地には日本の裁判権が及ばない。(拍手)
 これは完全なる日本の姿ではない。
 沢山の外国基地(水面利用も含めれば全部で350ヶ所)があるところに日本がアメリカに軍事的に従属している姿が現れているといっても断じて過言ではない。(拍手)

 だから日本が完全独立国家になるにはアメリカ軍隊には帰って貰う、基地を返して貰う、その上、積極的中立政策を実施することが日本外交の基本でなければならない。

 安保条約の改正によって日本がアメリカに対し、防衛力拡大強化の義務(注4)を負うことによって増税という圧迫を受け、言論・集会・結社の自由も束縛されるという結果を招いている。
 さらに防衛力増大によって憲法改正、再軍備、徴兵制が来はしないかを心配する。

 われわれはこの際、アメリカとの軍事関係を切るべきだと思う。
 そうして日本、アメリカ、ソ連、中国の4ヶ国が中心になって、新しい安全保障体制をつくることが日本外交の基本でなければならない。(拍手)
 この新しい安全保障体制は、お互いの独立と領土を尊重すること、内政干渉をしないこと、侵略をしないこと、互恵平等の原則に立つこと ― を基本としなければならない。

 第三の問題は、日本と中国の関係である。(略)

 第四は、議会政治のあり方である。
 重大なことは、新安保条約のような重大案件が選挙で国民の信を問わないで、ひとたび選挙で多数をとったら、公約しないことを多数の力で押しつけることに大きな課題がある。(拍手、場内騒然)

ここで演説はいったん中断し、司会者から「会場が騒々しい。静粛にお話をうかがいたい」旨の発言があり、浅沼さんが演説を再開した。「選挙の際は国民に評判の悪いものは全部捨てて、選挙で多数を占めると・・・」と述べたとき、暴漢が壇上に駆け上がり、浅沼委員長を刺した。再び場内騒然

 つぎの(注)は私(安原和雄、1935年生まれ)が付記した。

(注2)新安保条約を強行採決によって成立させた岸内閣は総辞職し、池田内閣が発足(1960年7月)、国民所得倍増計画を決定(同年12月)した。10年間で所得を倍増させるプランで、俗に「月給倍増プラン」とも呼ばれた。

(注3)日米安全保障条約とは、旧安保条約に代わる新安保条約のことで、1960年6月発効した。10条(条約の終了)「10年間効力を存続した後、いずれの締約国も条約終了の意思を相手国に通告することができ、その1年後に条約は終了する」などの規定が新たに盛り込まれた。つまり1970年6月以降はいつでも条約を一方的に破棄できる規定である。

(注4)「防衛力拡大強化の義務」とは、新安保条約3条(自衛力の維持発展)の「締約国は武力攻撃に抵抗する能力を維持し発展させる」という規定を指している。この規定を受けて日本は軍事力増強への道を突き進み、現在、世界有数の軍事強国となっている。このため日本国憲法9条(非武装)の理念は空洞化している。

▽ 幻に終わった浅沼演説内容 ― 金権政治を正すとき

 以下は浅沼さんが倒れたため、聴衆に向かって語り、訴えることができず、幻に終わった演説(予定稿要旨)である。

 新安保条約にしても、調印前に衆議院を解散し、主権者の国民に聞くべきであった。
 しかしやらなかった。
 1960年5月19日、20日に国会内に警官が導入され、安保条約改定案が自民党の衆議院単独審議、単独強行採決がなされた。
 あの強行採決がそのまま確定しては、憲法の大原則、議会主義を無視することになるから、解散して主権者の意志を聞けと2000万人に達する請願となった。
 しかし参議院で単独審議、自然成立となり、批准書交換となった。
 かくて日本の議会政治は、5月19、20日をもって死滅したといっても過言ではない。

 最後に日本の政治は金権政治であることを申し上げたい。
 この不正を正さなければならない。
 現在わが国の政治は選挙で莫大なカネをかけ、当選すれば、それを回収するために利権をあさり、カネを沢山集めた者が自民党総裁、総理大臣になる仕組みである。
 その結果、カネ次第という風潮が社会にみなぎり、希望も理想もなく、その日暮らしの生活態度が横行している。
 戦前に比べて犯罪件数は十数倍にのぼる。
 これに対し政府は道徳教育とか教育基本法改正とか言っているが、必要なことは、政治の根本が曲がっているのを直してゆかねばならない。

 政府みずから憲法を無視して再軍備を進めているのに、国民に対しては法律を守れといって、税金だけはどしどし取り立ててゆく。
 これでは国民は黙ってはいられない。

 政治の基本はまず政府みずから憲法を守って、清潔な政治を行うこと、そして青少年に希望のある生活を、働きたい者には職場を、お年寄りには安定した生活を国が保障する政策を実行しなければならない。
 日本社会党が政権を取ったら、こういう政策を実行することをお約束する。
 社会党を中心に良識ある政治家を糾合した、護憲、民主、中立の政権にして初めて実行しうると思う。

▽ 浅沼さんの「遺言」=マニフェストは生かされるか

 私(安原)事になるが、実は大学生だった頃(1957=昭和32年)、創刊間もないある総合月刊誌が浅沼さん(当時、社会党書記長)を囲む座談会を企画し、大学生3人の出席者のうちの1人として参加した。
 テーマはたしか「社会党が政権の座についたら」で、学生の立場から率直にもの申してほしいというのが雑誌編集者の狙いであったように記憶している。
 そういう縁で浅沼さんとは直に接した体験があるだけに「浅沼さん、刺殺される」のニュースには暗澹(あんたん)たる想いであった。
 浅沼さんの「遺言」ともいうべき最後の演説を今読んでみて、感慨もひとしおというほかない。
 この「遺言」は今日どこまで生かされるのか、そこに大きな関心を抱かないわけにはゆかない。

 浅沼演説は当時の現状認識についてつぎの諸点を挙げている。
 半世紀も前の演説だが、今日の状況をほぼそのまま言い当てているといっても見当違いではあるまい。
 ついこの間まで自民・公明政権が推進してきた政策と大差ない。

* 社会保障は小さくなる一方であり、他方、大資本家を儲けさせる公共投資ばかりが脹(ふく)らんでいること

* 日本の政治は金権政治であること。このためカネ次第という風潮が社会にみなぎっていること

* 政府みずから憲法を無視して再軍備を進めていること

* 政府は税金だけはどしどし取り立ててゆくこと

* 希望も理想もなく、その日暮らしの生活態度が横行し、犯罪も増えていること

 以上のような当時の自民党政治の現状認識に立って浅沼委員長は、「日本社会党が政権を取ったら」として、つぎのことを約束した。
 これは遺言となったが、今風にいえば、浅沼さんのマニフェスト(政権公約)でもあった。

* 政治の基本として政府みずから憲法を守って、清潔な政治を行うこと

* 青少年に希望のある生活を、働きたい者には職場を、お年寄りには安定した生活を国が保障する政策を実行すること

▽ 基地撤去論を今どう受け止めるか(1) ― 穏健派の気迫

 浅沼演説の主眼は日米安保への批判に置かれている。
 具体的には日米安保条約の破棄、在日米軍基地の撤去、さらに日本、アメリカ、ソ連(当時)、中国の4ヶ国を中心とする新しい多角的安全保障体制の創設 ― である。

 特につぎの指摘に着目したい。

「アメリカ軍は占領中を含めて、今年1960年まで15年間日本に駐留しているが、今回の安保条約改正によってさらに10年駐屯しようとしている。外国軍隊が25年の長きにわたって駐留することは日本国はじまって以来の不自然な出来事」と。

 文中の「安保条約改正によって(米軍が)さらに10年駐屯しようとしている」の含意はつぎのように理解したい。

 新安保条約10条は「この条約は10年間効力を存続した後は、条約を終了させる意思を相手国に通告することができる」と定めている。
 これによって1970年までの10年間は米軍駐留は我慢するとしても、それ以降はお引き取りを願おうと考えていたのではないか。
 ところが現実には10年どころか今日まで半世紀も続いている。
 この現実を浅沼さんが知ることになったら、あの世で「日本人の独立国家としての気概はどこへ消え失せたのか」と慨嘆するに違いない。

 当時、浅沼さんは決して急進派であったわけではない。
 社会党内では左派ではなく、右派に属していた。
 気迫は人一倍であっても、思想的には穏健派であった。
 その人物にしてすでに日米安保破棄・米軍基地撤去論者だったのだ。


安原和雄の仏教経済塾、2009/10/23(金) 22:01:48
「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)

刺殺された浅沼稲さん最後の演説
http://kyasuhara.blog14.fc2.com/blog-entry-253.html

 国会議事堂から100メートルあまり北に歩くと、警視庁の永田町庁舎があります。
 ここにはかつて野党第1党の社会党本部がありました。

 1964年に国有地を借りて地上7階、地下1階のビルを建設。
 最盛期には200人を超える国会議員でにぎわいました。
 党本部の近くの坂にちなんで「三宅坂」が社会党の代名詞になりました。
 戦前には陸軍省があった場所です。

 党本部は外壁が剥がれるなど老朽化が進み、2011年の東日本大震災を機に耐震強度不足が判明。
 社会党から名前を変えた社民党は建て替え資金が無かったため、2013年に取り壊しました。

 最初の引っ越し先は永田町の首相官邸の裏にある民間賃貸ビルの一角でした。
 広さは「三宅坂」の10分の1ほど。
 当時、国会議員はすでに6人に減っていましたが「永田町に党本部を構えるのがステータス」(幹部)と賃料の高いこの場所を選びました。

 党本部の移転はさらに続きます。
 2016年の参院選で吉田忠智党首が落選し、国会議員は衆参で4人に減りました。
 資金が一層足りなくなり、2017年には永田町を離れ、国会から車で15分の隅田川沿いの賃貸ビルに移りました。
 賃料は安くなりましたが、広さは永田町のときの半分と狭くなりました。
 (中央区湊3‐18‐17 マルキ榎本ビル5階 Tel 03‐3553‐3731 FAX 03‐5540‐9087)

 党職員とともに引っ越しを繰り返し、今の社民党をじっと見つめ続けている胸像があります。
 浅沼稲次郎氏。
 1960年の演説会で右翼の少年に刺殺された社会党の委員長です。
 全国を飛び回り、だみ声の演説で人気を博した一方、約30年にわたって都内の下町のアパートに住み続けた清貧の人でした。
 党本部が小さくなっても、党の存続がかかった夏の参院選の行方を祈っているようにみえます。


[写真-1]
旧社会党本部の跡地。現在は警視庁の庁舎がある

[写真-2]
社民党が2013年に入居した永田町の賃貸ビル

[写真-3]
現在の社民党本部はこのビルの5階と6階に入居している

[写真-4]
現在の社民党本部の5階エレベーターホールに浅沼稲次郎氏の胸像が立つ

日本経済新聞、2019年2月21日 6:30
(写真でみる永田町)
移りゆく党本部 変わらぬ胸像

(山崎純)
https://r.nikkei.com/article/DGXMZO41504400Q9A220C1PE8000

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2020年01月21日

将基面貴巳「日本国民のための愛国の教科書」

 昨年刊行された将基面貴巳『日本国民のための愛国の教科書』(百万年書房、2019年7月)という本がある。
 タイトルを読むと一見いわゆる“愛国本”のようだが、実際の中身は「いま日本でいわれる愛国心とは、本当に愛国心なのか?」という前提から問い直し、日本社会に浸透しきった「歪んだ愛国」の常識を覆すものになっている。
 本来の「愛国心」とはなんなのか?
 著者の政治思想史研究者・将基面貴巳(しょうぎめん・たかし)氏に聞いた。

* * *

―― 本の中で、日本語の「愛国」には意味のすり替えが発生していると解説されています。ものすごく簡単にまとめさせていただくと、生まれ育った土地や風土を無条件に愛する姿勢(=ナショナリズム)ではなく、自分が市民権を持つ共同体において、自由や平等といった基本的な政治的価値を実現する政治制度を維持していこうと努力する態度(=パトリオティズム)が本来の愛国心なのだ、というお話でした。しかし、近年はやっている「日本スゴイ」系番組などもそうですが、今の日本では、政治的価値や制度の話ではなく、もっぱら日本の風土や文化を自分たちで過剰に持ち上げる風潮のほうが強いと思います。そうした流れができてきた理由は、どこにあると思われますか?

将基面: 僕は、現代日本人の自信のなさの裏返しだと思っています。
 ナショナル・アイデンティティに過度に寄りかかって、自国民であることを誇りに思う――その誇りがそこまで肥大しているというのは、逆にいえば自分のアイデンティティの基盤が揺らいでいるからだと思います。
 僕も含め、いま40代後半より上の世代は、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言っていたような浮ついた1980年代の雰囲気をよく覚えています。
 当時の日本人にとって「経済大国」としての日本が自分たちのナショナル・アイデンティティの基礎となっていたわけです。
 その頃と比べると、今の日本は「失われた20年」どころか「30年」になろうとしていて、なんとも情けない状態になっている。
 にもかかわらず、いや、だからこそ、当時抱いた誇りに近い思いをどうしても抱きたい。
 つまり、「経済大国日本」というアイデンティティが揺らいだ結果として、どうしても誇りを肯定しないといけないという心理的傾向が増大しているのだと思います。
 ただ、日本人がうぬぼれやすいのは、今に始まった話ではないんですよ。
 1890年代に日本にやってきた宣教師が「日本人はとにかく日本を買いかぶりすぎだ」という話を残しています。
 1人だけではなく、複数の宣教師たちがそのようなことを言っている。
 今と比べてどの程度のものなのかはわかりませんが、外国人の目から見ると、どうも昔から日本人はうぬぼれやすい傾向が強いようです

―― そこからずっと抜け出せていないんですね。ネットで可視化されているせいか、近年はよりそういう考え方の持ち主が増えているように感じてしまうんですが、この流れは日本特有なのでしょうか?

将基面 デイヴィッド・グッドハート David Goodhart というイギリスのジャーナリストが、イギリスを舞台に「なぜ特定の人たちがナショナリズムに強くコミットするのか」を分析した書籍(『The Road to Somewhere、The Populist Revolt and the Future of Politics』C. Hurst & Co. Publishers、17 Mar 2017)があります。
 そこで語られているのは、イギリス社会が極端に二分化されているという話なんですね。
 一方では教育水準も平均年収も高い、イギリス国内に限らずEUでもどこでも生活できるコスモポリタンな人たちがいて、他方では教育水準も年収も相対的に低く、社会的・経済的な地位がどんどん落ちていっている人たちがいる。
 後者の人たちは自分の経済的・社会的アイデンティティが切り崩されている中にあって、自分の尊厳を保つためにナショナルなアイデンティティに頼らざるを得ない。
 なぜなら、金持ちであろうと貧乏人であろうと「イギリス国民である」という点においては平等である、との感覚が自分の尊厳を担保するからだ、と分析されています。
 ラストベルト(アメリカ中西部の斜陽産業が集中する地域)の人たちがトランプ支持に回っている現在のアメリカでも、同じことが起きているといえると思います。
 日本は必ずしもそうではないかもしれませんが、多くの人びとの経済的・社会的アイデンティティが揺らいでいることは確かだと思います。
 特に「経済大国日本」の幻影を追い求める人たちは、すでに経済的に日本よりも成長した中国・韓国を見て、「自分たちのナショナル・アイデンティティを強化しないといけない」という心理になった結果、こんにちのような状況がある――と説明することはできるのではないかと思っています。

日本人はなぜ逃げ出さないのか?

―― 日本でも、外国語ができたり、海外に気軽に出られる経済力があったりする人は、いわゆるネトウヨにはならない印象があります。私の周囲では「今の日本が本当に嫌だ、海外に逃げようかな」と話している人は少なくないのですが、実はそう考える人は日本全体で見れば少数派なのかな……とも思うんです。

将基面: 確かに言語の障壁は存在しますが、たとえば第二次世界大戦中には東ヨーロッパからアメリカへ、英語はあまりできない人たちがたくさん逃げてきたわけです。
 だから、最初から言葉ができなければいけないということはないんですよ。
 行ったら行ったでどうにかなる。
『日本国民のための愛国の教科書』の中では、経済学者アルバート・ハーシュマン Albert Otto Hirschman(1915 - 2012)が提唱した忠誠心の理論から「離脱」(exit)と「発言」(voice)という2つのキーワードを使って、このあたりのことを説明しています。
 つまり、国がうまくいっていない場合、「離脱」して望ましい別の国に移住するか、とどまって政権批判の「発言」をして国を改善しようとするか、2つの選択肢が考えられます。
 そこで政権批判の「発言」をする人たちが国に忠誠心を持つ人たち、つまり愛国者たちだ、というのです。

 世界的に見ると、日本人には「離脱」するケースが非常に少ない。
 日本人なら日本に住み続けるのが当たり前だと思っている人がとても多いのですが、それは世界的な視点からすれば決して当たり前じゃないんだというのは、『日本国民のための愛国の教科書』に込めたメッセージのひとつではあります。

―― ただ、正直いまの日本では、逃げもしないし発言もしない、自国の欠陥を認めてこれをなん とかしようという姿勢もない人が多いんじゃないかという絶望感があります。

将基面: 自分の国がどのように運営されているかについて、「何かがおかしい」という問題意識をまったく持たないのであれば、その時点で一市民として公共的な問題にまるでコミットしていないといえます。
 結局のところ、自分の利益、自分が心地よく思えることにしか関心がない、ということです。
 政治思想史に「暴政(tyranny)」という概念があるのですが、ただ単純に暴君ネロや独裁者ヒトラーのような暴虐非道な政治を意味するのではありません。
 政治思想史における「暴政」とは、政治的指導者たちが、共通善(自由や平等と、そうした価値の実現を保証する政治制度)の実現を放棄して、自分たちの私益だけを追求する政治のことです。
 一言でいえば、共通善を破壊する政治です。
 そのような暴政にあって、市民一人ひとりが暴君を批判せず、自分の自己利益にしか関心がないということになれば、市民社会は当然立ち行かなくなる。
 なぜなら、一般市民たち自身が共通善の実現に向けて努力しないのですから、市民たちもまた小「暴君」に成り果てているということです。

 アダム・スミス由来の近代経済学が理論的に前提としている人間(ホモ・エコノミクス)とは、そういう自己利益だけを追求する利己的なものだとしばしば言われています。
 しかし、近代経済学の始祖たちが生きた社会とは、共通善を実現しようと努力する市民が運営する近代市民社会なのであって、公共的な問題にはまるで関心がない人たちの社会を前提としていない。
 そういう意味では、各人が自分の利益や快適さにしか関心を持たない、今の日本社会の状況というのは、極めて深刻に腐っていると思います。
 にもかかわらず、そこから逃げ出そうとする人があまりにも少ない。
 僕はニュージーランド在住なのですが、外から見ていてそれが不思議で仕方ありません。

―― むしろ、もっとさっさと逃げるべきだと?

将基面: 僕が住んでいるダニーデンの地元紙を読んでいると、2ヶ月に一度くらい、新たにニュージーランドの市民権を得た人たちの名前と出身国が掲載されるんです。
 最近は、ブレグジットで揺れるイギリスからの移民が続々と増えている。
 その人たちはもちろん、イギリスに対して極めて深刻な危機意識を持っているわけです。
 一方でニュージーランドは今の世界でまれな中道左派の政権があって、政治や社会を語る場においてナショナリズムがあまり重要な役割を果たしていない。
 そういう意味でオープンな社会なので、新たに入ってくる人を拒絶する傾向が少ないんですね。
 だから居心地が良く、もともと住んでいる人たちも新たに入ってくる人たちも社会に貢献し、政治に参加しよう、つまり、共通善の実現にコミットしようという意識が出てくるんだと思います。

―― 日本人が国外に出ていく考えがあまりないということは、たとえば移民や外国人労働者など、新たに日本に入ってくる人に対して寛容でないことと裏返しの関係なのでしょうか?

将基面: それはあるでしょうね。
 ナショナル・アイデンティティが強ければ強いほど、均質であれば均質であるほど、寛容度はどんどん下がります。
「寛容」という概念も難しいものです。
「なんでもあり」は「寛容」ではない。
「寛容」とは「どこまでだったら受け入れるか」という話なのです。
 共和主義的な観点からの寛容でいえば、移住してきた社会で政治的・社会的な価値にコミットする、つまりルールを守って公共的な社会・生活に参加する限りにおいては、移民たちを受け入れる。
 必ずしもその人たちが日本語をよくしゃべれなかったり、文化的に日本的慣習に従った生活をしていなくてもよしとする、となります。
 これとは反対に、ナショナリズム的な立場から見たとき、寛容に受け入れる限度とは、外国からの移民であっても日本の文化をきちんと理解して、日本語を十分に話すことができ、ほかの日本人が生活するのとまったく同じようにしないといけないということになる。
「寛容」の質も程度もまったく違いますが、僕は共和主義的な寛容のあり方のほうが、ひとつの市民社会を運営していく上では望ましいと思っています。

”揺り戻し”を期待するより仕方ない

―― しかし、この状況下で海外に逃げようと考えられる人たちが実際に出ていってしまったら、日本社会はもっとダメになっていくのではないでしょうか?

将基面: そうですね。
 能力や意欲がある日本人が大挙して外に出ていってしまったら、国の衰退にいよいよ拍車がかかるでしょう。
 しかし、日本という国がいよいよ衰退して立ち行かなくなったときに、そうした国外で活躍する日本人たちが再結集し、協力し合って日本を立て直す、ということはあってもおかしくないと思います。
 明治維新の際に、薩摩と長州という、それこそ日本列島でいうと端っこにいた人たちが古い体制を倒したのと同じように、外に出ている人たちが新しい国造りをする。
 その意味では、いま若い人たちができるだけ外に出て自分を鍛え、市民社会の中で生きるということを深く理解した上で将来の国難に備えるという方策はあってもいいんじゃないかと思います。
 あまり政府が聞きたい話ではないでしょうが(笑)。

―― 長期的に見ると、確かにそうですね。でもやっぱり、目前の社会に絶望しながら生きるのはつらいので、短期的にどうにかならないのかなと思ってしまうんですが……。

将基面: 僕はあんまり焦っても仕方ないと思います。
 保守派は、これまで30年以上かけてこうした状況をつくってきた。
 リベラル派は、目先の「日本スゴイ」的な浅薄な愛国心が支配する状況を打ち破ることばかりにかかずらうべきではないと思うんです。
 政治闘争に勝つ勝たないの話ではなく、50年100年というタイムスパンでこの国をどうすべきなのか、という視点が必要なんじゃないでしょうか。
 自由を守るという立場からあくまで理性的な議論にこだわれば、民衆扇動のレトリックを使うことに長けている保守派に政治的闘争では敗れることになるでしょう。
 でもその結果、行き着くところまで行き着いたら、また揺り戻しがかかると思う。
 そこまで見据えた上で、自分たちがやっていることは捨て石なんだというような覚悟が、リベラル派にはある意味で求められていると考えています。

―― いずれ来る揺り戻しのために、今は準備しておくべきだ、と。

将基面: それを期待しないと、やっていられないじゃないですか(笑)。
 国土が焦土と成り果てた1945年8月15日の後でも、30年たったら一応の繁栄を築くことはできたわけです。
 だから揺り戻しを期待するより仕方ないですよ。

● 将基面貴巳(しょうぎめん・たかし)
1967年神奈川県横浜市生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。シェフィールド大学大学院歴史学博士課程修了(Ph.D.) 。研究領域は政治思想史。現在はオタゴ大学(University of Otago、ニュージーランド南島ダニーデンに所在する国立総合大学)人文学部歴史学教授。英国王立歴史学会フェロー。『ヨーロッパ政治思想の誕生』(名古屋大学出版会)で第35回サントリー学芸賞受賞。著作に『言論抑圧 矢内原事件の構図』(中公新書)、『政治診断学への招待』(講談社選書メチエ)、『反「暴君」の思想史』(平凡社新書)。最新刊は『日本国民のための愛国の教科書』(百万年書房)、『愛国の構造』(岩波書店)。

● 斎藤岬(さいとう・みさき)
1986年、神奈川県生まれ。編集者、ライター。

日刊サイゾー、2020/01/20 20:00
『日本国民のための愛国の教科書』将基面貴巳インタビュー
「国外脱出もしない」「政治的な発言もしない」日本人の歪んだ愛国心に、未来はあるのか?

https://www.cyzo.com/2020/01/post_228947_entry.html

「週刊読書人」2020年1月10日号 3322号
対談=将基面貴巳×宇野重規
<真の愛国―何のために生きるのか>
『愛国の構造』『日本国民のための愛国の教科書』をめぐって

http://www.dokushojin.co.jp/?pid=147872014

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2020年01月20日

清砂通りアパートと浅沼稲次郎

沼は演説百姓よ
よごれた服にボロカバン
きょうは本所の公会堂
あすは京都の辻の寺

 そのようにほめたたえられた浅沼稲次郎は、暗殺されるまで、江東区に住んでおったのです(ヤッホーくん注)。

 浅沼稲次郎の一面を知る文章です。

 自治会町内会情報誌「まち・むら」127号(2014年9月発行・季刊誌)掲載の論文、「都市の共同居住」(大内田鶴子・江戸川大学社会学部教授)を読んでいると、「町会長浅沼稲次郎」の項がありました。

 掲載の文書から転記。
 1929(昭和4)年頃から、清砂通りアパートの白河4丁目側10号館1階に、衆議院議員(後の日本社会党書記長・委員長)の浅沼稲次郎が、部屋を借りて住んでいた。
 保証人は賀川豊彦であったそうだ。
 1933(昭和8)年に東京市議に当選し、1936(昭和11)年に衆議院議員になった。
 1941(昭和16)年ごろ無産者政党、社会大衆党を解党した後には「白河町内会」の自治会長になっている。
 浅沼は戦後1960(昭和35)年、社会党委員長になった後も、日比谷公会堂で右翼少年の凶刃に倒れるまで、この地に住み続けた。

 なお、選挙区は文京区であり、「御殿の鳩山、アパートの浅沼」と言われたそうである(沢木耕太郎、1978年)。
 清砂通りアパート住民は、敗戦直前の、1945年5月に生活用品不足に対応するため、浅沼の勧めにより、生活協同組合を結成している。

<省略>

 浅沼稲次郎は、東京市政調査会が事務局となって、1947(昭和22)年2月12日に発足した町会問題対策協議会の委員になっている。
 GHQは占領統治政策として、町内会・自治会を廃止しましたが、それに先立ち東京とは、廃止される町内会に代わる新しい組織の性格や事業、その具現化の方法などを討議していた。
 東京都は1938(昭和13)年から町会整備を継続しており、この時重要な役割をはたした都庁の地方事務官を再び会議に参加させて、町内会廃止後の近隣組織の在り方について検討し始めた。
 浅沼はその会議に町会代表委員として加わっており、「新生活共同体の結成」という構想案を、町内会に代わる新たなモデルとして提言を試みたメンバーの一人である。
 その構想内容は、生活協同組合との関係を示唆するものとなっている。
 なお、この提言は活かされずに葬られた。

格差のない平和な社会をめざして(*)、2014年11月23日
(*)社民党の理念は「平和・自由・民主主義・平等・共生・連帯」、「社民党の活動を知って下さい」を目的に作成してます。
「清砂通りアパートと浅沼稲次郎」を読む
https://blog.goo.ne.jp/kumagaya-sdp/e/6e34f7176e9be975b62052c177fc5595

(ヤッホーくん注)
〇1「沼は演説百姓よ…」

 これは大正末年の日労党結党当時、友人の田所輝明君が、なりふり構わず全国をブチ歩く私の姿をうたったものだ。
 以来演説百姓は私の異名となり、今では演説書記長で通っている。
 私は演説百姓の異名をムシロ歓迎した。
 無産階級解放のため、黙々と働く社会主義者を、勤勉そのもののごとく大地に取組む農民の姿にナゾらえたもので、私はかくあらねばならぬと念じた。

 まことに演説こそは大衆運動30余年間の私の唯一の闘争武器であった。
 私は数年前『わが言論闘争録』という演説集を本にして出したが、その自序の中で「演説の数と地方遊説の多いことは現代政治家中第一」とあえて広言した。
 私は全国をブチ歩き、ラジオにもよく出るので私のガラガラ声が大衆の周知のものとなった。
 ラジオや寄席の声帯模写にもしばしば私の声の声色が登場して苦笑している。
 徳川夢声氏と対談したとき『あれは沼さんの声だと誰でも分るようになれば大したものだ』とほめられたことがある。

 しかし私の声ははじめからこんなガラガラ声ではなかった。
 学生時代から江戸川の土手や三宅島の海岸で怒濤を相手にし、あるいは寒中、深夜、野原に出て寒げいこを行い、また謡曲がよいというので観世流を習ったりして声を練った結果、現在の声となった。
 これらの鍛練は大きな声と持続性の研究であり、おかげで私は水も飲まずに2、3時間の演説をやるのはいまでも平気だ。
 演説の思い出は多いが、その中でアジ演説で印象に残ったものを、自慢話めくが二、三披露してみよう。

<略>

日本経済新聞・私の履歴書
六、鍛え上げたガラガラ声
https://ja.wikisource.org/wiki/私の履歴書/浅沼稲次郎

〇2 「清砂通りアパート」

 1929(昭和4)年、日本大衆党の公認をうけ東京市深川区から市会議員に立候補した関係で、深川のアパートに住むようになり、それ以来、江東地区の労働運動に関係するようになった。

 関東木材産業労働組合、東京地方自由労働者組合、東京製糖労働組合の組合長をやり、日本労働総同盟に参加して、深川木場の労働者のために多くの争議を指導した。

 たしか1935(昭和10)年ごろと思うが、ある深川の製材工場が釘で厳重にロック・アウトをしたことがあった。
 われわれはこれをぶちこわして強引に工場へ入ったところ、会社側も負けじとお雇い人夫を動員、トビ口やコン棒を振上げ襲いかかってきた。
 あわや血の雨の降る大乱闘になろうという時、救いの神ともいうべき警官が現われ、平野警察署長青木重臣君(のちの平沼内閣書記官長、愛媛県知事)の命令で、労使ともに検束されてしまった。
 留置場はまさに呉越同舟、敵も味方も一しょくたにされていたが、そのおかげで留置場内で話がまとまり、争議が解決したのだからケッ作だ。
 青木署長もなかなか思い切ったことをしたものである。

 演説をやれば「注意、中止、検束」、デモでは先頭にいて「検束」という具合で、この当時の社会運動家の中ではわたくしが検束の回数では筆頭だったようだ。


日本経済新聞・私の履歴書
五、検束回数のレコードホルダー
https://ja.wikisource.org/wiki/私の履歴書/浅沼稲次郎

〇3 「日本社会党」

 私は終戦の勅語を深川の焼け残ったアパートの一室で聞いたが、このときの気持を終生忘れることができない。
 2、3日前飛んできたB29のまいたビラを読んで、薄々は感づいていたものの、まるで全身が空洞になったような虚脱感に襲われた。
 私はこれまで何度か死線をさまよった。
 早大反軍研事件後の右翼のリンチ、東京大震災のときの社会主義者狩りと市ヶ谷監獄、秋田の阿仁銅山争議など――。
 しかしこれらのものは社会主義者としての当然の受難とも思えたのである。
 しかし戦争はもっと残酷なものだった。
 戦闘員たると否とにかかわらずすべてを滅亡させる。
 私の住んでいた深川の清砂アパートは1945(昭和20)年3月10日の空襲で全焼し、私はからくも生き残ったが、一時は死んだとのウワサがとんで、友人の川俣代議士が安否をたずねに来たことがある。
 無謀な戦争をやり、われわれ社会主義者の正当な声を弾圧した結果は、かかるみじめな敗戦となった。
 私は戦争の死線をこえて、つくづく生きてよかったと思い、これからはいわば余禄の命だと心に決めた。

 そしてこの余禄の命を今後の日本のために投げださねばならぬと感じた。

 やがて敗戦の現実の中に、各政党の再建が進められ、保守陣営の進歩党、自由党の結党と呼応して、われわれ無産陣営でも新党を結成することになった。
 1945(昭和20)年9月5日、戦後初の国会が開かれたのを機会に、当時の代議士を中心として戦前の社会主義運動者、河上丈太郎、松本治一郎、河野密、西尾末広、水谷長三郎氏が集まり第一回の準備会を開いた。
 そこで戦前の一切の行きがかりを捨て、大同団結する方針が決まり、全国の生き残った同志に招待状を出すことになった。
 当時私は衆議院議員を一回休み、都会議員をしていたが、河上丈太郎氏から『君は戦前の無産党時代ずっと組織部長をしていたから全国の同志を知っているだろう。新党発起人の選考をやってくれ』と頼まれ、焼け残った書類を探しだして名簿を作成した。
 その名簿によって当時の社会主義運動家の長老、安部磯雄、賀川豊彦、高野岩三郎の三氏の名で招待状を出し、同年1945(昭和20)年9月22日、新橋蔵前工業会館で結党準備会を開いた。

 ついで11月2日、全国3000の同志を集め、東京の日比谷公会堂で結党大会を開いた。
 私はこのとき司会者をつとめたが、会場を見渡すといずれも軍服、軍靴のみすぼらしい格好ながら同じ理想と目的のため、これほど多くの人びとが全国からはせ参じてくれたかと思うとうれしくてたまらなかった。
 同大会は松岡駒吉氏が大会議長をつとめ、水谷長三郎氏が経過報告をやり、党名を「日本社会党」と決め、委員長欠員のまま初代書記長に片山哲氏を選んだ。

<略>

日本経済新聞・私の履歴書
八、社会党誕生す
https://ja.wikisource.org/wiki/私の履歴書/浅沼稲次郎


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2020年01月19日

社会党浅沼委員長刺殺事件は60年前!

 60年、60年、60年前は1960(昭和35)年。
 安保闘争ともうひとつ、ヤッホーくんにはあったって、それは浅沼稲次郎!

 巨体と大きな声で全国を精力的に遊説し、「人間機関車」「演説百姓」の愛称で親しまれた浅沼稲次郎。
 社会党書記長、委員長を歴任した。
 早稲田大学では雄弁会と相撲部・ボート部に所属。
「文藝春秋」1953(昭和28)年8月・夏の増刊号では、慶應義塾大学の藤山愛一郎(日商会頭)らとともに、「母校のチャンピオン」というグラビア頁に登場している。
 社会党が左右両派に分裂していた時代であった。

 1898(明治31)年、東京・三宅島に生まれた浅沼は、1960(昭和35)年、社会党委員長に就任する。
 そして、総選挙を目前に控えた同年1960年10月12日、自民・社会・民社三党党首公開立会演説会が東京・日比谷公会堂で開かれた――。

〈ひたすら歩むことでようやく辿り着いた晴れの舞台で、61歳の野党政治家は、生き急ぎ死に急ぎ閃光のように駆け抜けてきた17歳のテロリストと、激しく交錯する〉
(沢木耕太郎「テロルの決算」文春文庫)

 短刀を携えた右翼の少年、山口二矢が、演壇に立つ浅沼に向かって駆け上がる。

〈浅沼の動きは緩慢だった。ほんのわずかすら体をかわすこともせず、少し顔を向け、訝しげな表情を浮かべたまま、左脇腹でその短刀を受けてしまった。短刀は浅沼の厚い脂肪を突き破り、背骨前の大動脈まで達した〉
(同前)

 浅沼はまもなく絶命した。
 8日後に行われた社会党葬は、冷たい雨の降るなか、2600人の参列者を得て、盛大に行われた。
 会場は、事件と同じ日比谷公会堂であった。


[写真]浅沼稲次郎 ☟

浅沼稲次郎.jpg

文藝春秋 Books、2013.10.21
刺殺された日比谷公会堂で葬儀が行われた浅沼稲次郎
https://books.bunshun.jp/articles/-/2446

[動画]
NHKみのがしなつかし
社会党浅沼委員長刺殺事件
https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009030037_00000

 1960年10月12日、日比谷公会堂では日米安全保障条約をめぐって、各政党党首による演説会がおこなわれることになっていました。
 社会党書記長の浅沼稲次郎は最初の登壇者でした。
 会場にいた毎日新聞のカメラマン長尾靖(ながお やすし、1930 - 2009)は、人ごみを縫って前へ進み、場所を確保します。
 スピード・グラフィックに12枚撮りのフィルムパックを装填し、全体写真、クローズアップ、政党関係者など11枚を撮りおえ、フィルムは残り1枚となりました。

 浅沼の演説中には右翼からの野次が飛び、演壇にあがってビラをばらまく者もあらわれました。
 演説はいったん中断されたのち、再開されました。
 そのとき、舞台の袖から学生服を着た若者が現れ、浅沼に向かって走ってきたのです。
 学生は体当たりして手にした短刀を浅沼の腹部に突き入れました。

 数人のカメラマンが最初の一撃を撮りましたが、演壇に隠れてよく見えませんでした。
 2人がよろめいて後ろに下がり、演壇から離れました。
 学生は浅沼の体から短刀を引き抜き、今度は心臓に突き入れて、再び抜きました。
 演壇に邪魔されずこれを撮影できたのは、長尾だけでした。

 浅沼は救急搬送中に死亡しました。
 襲撃者の山口二矢(やまぐちおとや)は逮捕されたのち、拘留中の11月2日に自殺したのです。

 この写真は毎日新聞と独占契約をしていたUPI通信によって全世界に配信され、1961年に日本人ではじめてピュリツァー賞を受賞しました。

 ちなみにこの事件については、沢木耕太郎が『テロルの決算』で詳細に追及し、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しています。


[写真]舞台上での暗殺 ☟

舞台上での挨拶.jpg

National Geographic、2012/01/18
ピュリツァー賞と日本人
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20120118/296593/

 日本人として初めてピュリッツァー賞を受賞した元毎日新聞のカメラマン、長尾靖さんが亡くなった(2009年4月29日・享年78歳)。
 静岡県南伊豆町のアパートで一人暮らしの長尾さんが約束の個展に来ないのでその身を案じた友人の安否確認で5月2日、自宅で倒れているのが発見されたという。
 何とも痛ましい。

 1960(昭和35)年10月12日毎日新聞夕刊一面に掲載された、社会党の浅沼稲次郎委員長の刺殺された写真は衝撃的であった。
 長尾カメラマンが撮った写真である。
 犯人は17歳の右翼の少年(1960(昭和35)年11月2日東京少年鑑別所で自殺)であった。
 この日、日比谷公会堂で公明選挙連盟主催の自民、社会、民社3党首による立会演説が開かれた。
 会場には大勢の右翼が詰めかけ演壇からビラをまいたり、激しいヤジを飛ばしたりしていた。

 浅沼委員長が登壇したのは民社党、西尾末広委員長の後であった。
 突然、少年が演壇の右側から壇上に駆け上がってきた。
 手に茶色の棒のようなものを持ち、猛烈な勢いで委員長にぶつかった。
 実は短刀で委員長は深く刺され、はずみで半回転した。
 少年は演壇の後を通り抜け、右側の長尾の目の前にきて短刀を構えもう一度刺した。
 少年が二度目に刺そうとした瞬間を長尾カメラマンがとらえた。
 長尾ははじめ10フィートでピントを合わせていたのを15フィートにピントを合わせ直してシャターをきった。
「原稿用紙が飛び散り、浅沼委員長の顔からメガネがずり落ち、少年を捕まえようと手が伸びる光景はテロの恐怖を生々しく物語っている」と「毎日の3世紀」(下巻)はいう。

 この写真はUPI通信を通じて世界中の新聞に送られ大きく報道された。
 米国の雑誌「ライフ」や「タイム」、フランスの週刊写真雑誌「パリ・マッチ」も掲載した。
 1961(昭和36)年5月1日に外国人としては初めての1961年度のピュリッツァー賞に輝いた。

 ここに意外なエピソードを書く。
 実は長尾カメラマンは野球が嫌いであった。
 それが世紀の特ダネ写真を生むきっかけとなった。
 この日、プロ野球日本シリーズ第2戦・大洋ホエールズと大毎オリオンズの試合が川崎球場で行われていた。
 第1戦は1―0で大洋がものにした。
 第2戦もいきづまる投手戦であった。
 多くの記者、カメラマンが社の車の中でその実況放送を聞いていた。

 野球嫌いの長尾カメラマンは愚直に現場で頑張っていた。
 そこに惨劇が起きた。
 誰も予想しない出来事であった。
 だから事件は怖いのである。

 さらに付け加えれば長尾カメラマンのスピグラには12枚目のフイルムが1枚残っているだけであった。
 カメラマンの「最後の1枚は必ず残しておけ」という原則を忠実に守ったおかげでもあった。
 心から長尾カメラマンのご冥福を祈る。

 
銀座一丁目新聞、2009(平成21)年5月10日号
カメラマン長尾靖さんを偲ぶ
(柳 路夫)
http://ginnews.whoselab.com/090510/tsuido.htm

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安保60周年

 ヤッホーくんのこのブログ、2019年07月14日付けの日記、ふたつを是非ともお読みください:
☆ 不誠実な外交・内政との決別を!
☆ この日本に新しい芽吹きを!

 日米地位協定の改定を主張する沖縄県の玉城デニー県政は、米軍が駐留する欧州各国で、米軍の地位協定や基地の管理権などを調査した報告書をまとめた。
 2017年からドイツ、イタリア、イギリス、ベルギーの4ヶ国を調査した。
 日本は米国と安全保障条約、地位協定を結んでいるが、4ヶ国は北大西洋条約機構(NATO)とNATO軍地位協定を締結。
 各国とも補足協定などで米軍に国内法を適用して活動をコントロールしており、米軍の運用に国内法が適用されない日本との差が明確になった。

<ドイツ> 補足協定で国内法適用

 1959年、国内に駐留する外国軍隊の地位や基地使用に関する「ボン補足協定」を締結した。
 ただ、独側にとって領域や国民の権利の保護などの点で不利な点が多かった。
 1980年代に環境や建築、航空などの国内法を外国軍に適用すべきだとする世論が高まった。
 1988年には外国軍の航空機事故が相次いだ。
 1990年の東西統一を経て、国民世論を背景にNATO軍を派遣する各国に協定の改定を申し入れた。
 この結果、1993年に米軍への国内法適用を強化する大幅な改定を実現した。
 州や地方自治体が基地内に立ち入る権利を明記し、緊急時は事前通告なしの立ち入りも認めさせた。
 米軍の訓練も独側の許可、承認、同意が必要となっている。

<イタリア> 米軍事故受け権限持つ

 1954年に米国との基地使用に関する協定を締結。
 1998年に米軍機がロープウエーを切断する事故が起き、20人の死者が出たことで反米感情が高まった。
 米伊は米軍の飛行訓練に関する委員会を立ち上げ、米軍機の飛行を大幅に軽減する報告書がまとめられた。
 現在、米軍の活動はすべて国内法を適用させている。
 米軍は訓練などの活動を伊軍司令官へ事前通告し伊側と調整した上で承認を受ける。
 事故発生時の対応も、伊軍司令官が米軍基地内のすべての区域、施設に立ち入る権限を持っている。
 県が現地調査で面談したランベルト・ディーニ元首相は「米国の言うことを聞いている『お友達』は日本だけ」と指摘。
 地位協定の問題は政治家が動く必要があるとした。


<イギリス> 駐留軍法を根拠に活動

 1952年に成立した駐留軍法を根拠に、米軍が活動している。
 英軍の活動を定めた国内法は、米軍にも同様に適用されることを規定。
 英議会でも、国防相は「在英の米軍は米国と英国の両方の法律に従う」と答弁している。
 英空軍が、米軍など外国軍の飛行禁止や制限を判断。
 在英米軍は、夜間早朝などの訓練を禁止する在欧米空軍の指令書に従っている。
 指令書は平日の午後11時〜翌午前6時を静音時間帯とし、飛行場の運用を禁止。
 爆撃機やステルス航空機の配備を予定する際には英国防省の承認を得るなど、詳細な規定を設ける。
 米軍基地には英空軍の司令官が常駐。
 周辺自治体に演習や夜間の飛行訓練を説明するなど、米軍と地域の信頼関係の維持に努めている。

<ベルギー> 憲法で外国軍に厳しく

 憲法で外国軍隊に関する規定を「いかなる外国の軍隊も法律に基づかなければ、軍務に迎え入れられ、領土を占有または通過することはできない」と定めている。
 1962年には、外国軍が駐留する根拠を国内法として定めた。
 さらに航空法で、軍用機を含めた外国籍機の飛行はベルギー側の許可が必要であると明記。
 必要な場合はベルギー国王が領空の飛行禁止措置を執ることができると規定した。
 1990年、自国軍に高度80メートルまでの飛行を認める一方で、外国軍は低空飛行を禁止。
 ベルギー以外の軍隊は土曜日や日曜日、祝日の飛行を禁止するなど厳しい措置を執っている。

 
[表]
米軍との地位協定や国内法適用など5カ国比較表

沖縄タイムズ、2019年5月7日 05:56
「お友達は日本だけ」?
米軍の地位協定、日本と欧州ではこんなに違う

(政経部・銘苅一哲)
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/416418 

 日米両政府が1960年に日米地位協定に調印する交渉過程で、米軍の特権的な地位を見直す57項目の要求を日本の外務省が文書にまとめ、米側に提示していたことが2020年1月18日までに分かった。
 秘密指定が解除された外交文書に含まれており、当時は極秘扱いされていた。
 日本側は実質的な主権回復を目指して在日米軍基地の運用への関与や、基地返還時に米側が原状回復する義務などを求めたが、米側が大部分を拒否。
 受け入れられた項目は少なく、不平等性が指摘される現在の地位協定につながった。

 地位協定は調印から、19日で60年を迎える
 文書は57項目のうち、
・ 米軍施設・区域の管理権を定める3条を巡り「両政府の合意により定める条件で使用する権利と改めるべし」と要望。
 施設・区域外の管理権を「米軍の権利としない」などと具体的に言及し、基地の運用に日本政府が関与できるよう地位協定への明記を求めた。
・ 4条関連では米軍施設や区域を返還する際の原状回復と補償の義務を米軍が負うこと、
・ 5条関連では民間の港や空港の使用には入港料、着陸料を課すこと、
などを求めていた。

 前身の日米行政協定が、占領時代と変わらないほど米軍優位の内容だったことから、国内で高まっていた抜本的な改定を求める声を反映しているといえる。
 ただ、これらの要求は、いずれも実現しなかった。

 日本側が文書作成に踏み切った理由は、行政協定の改定交渉で、米側の担当者だったマッカーサー在日米大使が日本側の考えを全て示すよう求めたため。外務省が1959年1月から2月初旬にかけて各省庁から聞き取り「行政協定改定問題点」として整理した。
 同年1959年3月に藤山愛一郎外相がマッカーサー氏に手交。
 外務省の資料では、米側は「極めて消極的かつ強硬な反応」を示した。

 日本政府が「主権回復」に取り組んだ一端がうかがえる一方、米軍の既得権益を維持したい米側が難色を示し、結果的に不平等な状態が残った。
 その後60年間、地位協定改定は実現していない。

 地位協定の問題を調査、分析してきたジャーナリストの吉田敏浩さん(62)は、
各省庁から、米軍優位の不平等な関係を改めるべし、との声が挙がっていた史実は重要だ。この歴史に学び、現政府は真の主権回復に向けた問題意識と気概を奮い起こしてほしい」と話した。


沖縄タイムズ、2020年1月19日 05:00
日本、米軍の特権見直しを要望
米側はほとんど拒否
60年前の地位協定締結時

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/523784

 きょう2020年1月19日が、岸信介首相が新日米安保条約を署名した日から60年たつ記念日だという。
 だから日米安保特集の記事も、きょうが本番、花盛りだ。
 それを読むと、もはやこの国は日米安保のくびきから永久に抜け出せないと思わざるを得ない。
 なぜかといえば、米国の圧力が行きつく先まで来たというのに、それを拒否する論調も政治も皆無だからだ。

 米国の要求が行きつく先まで来たという意味はこうだ。
 いまや米国は名指しでイラン、北朝鮮、中国と戦おうとしている。
 その戦争に協力するため共に戦え、そのための予算をもっと支払えと言ってきている。
 ここまで露骨に米国が戦争国家の正体をむき出しにしたことはかつてなかった。
 ここまで巨額な予算を米国が当然のように要求して来たことはなかった。
 行きつく先まで来たのだ。
 そして、そんな不当であからさまな要求をこの国の論調も政治も拒否できないという意味はこうだ。

 きょうの各紙に見られる各紙の論調は、
・ いまこそ日米同盟を強化、深化すべきだ、いう軍事強化か、
・ 対米従属をやめて公平で持続的な健全な日米同盟を目指すべきだというないものねだりの理想論(空論)を唱えるものか、
・ 安倍対米従属バカヤローと安倍叩きをするもの、
これしかない。

 理不尽な米国の要求は断固拒否し、それでも米国が圧力をかけ続けるなら日米安保条約に従って破棄通告すべきだとする論調は皆無だ

 おりからきょうの各紙は日本共産党が党大会を開き、そこで16年ぶりに党綱領を改定したことが報じられている。
 そこで打ち出されたものは、日米安保反対を棚上げする一方で中国を徹底批判する日本共産党の姿だ。
 野党連合によって政権政党を目指す日本共産党の姿だ。
 日本共産党がこんなことを党大会で打ち出して宣伝するようでは日本の政治もおしまいだ
 もはや、このままでは、この国の政治は日米安保体制を拒否することは出来ない。
 しかし、このまま、不満や矛盾を抱えたまま、仕方がないと日米安保体制をズルズル続けて行けば、間違いなく日本はもっと行き詰る。
 苦しくなる。

 やっぱり、憲法9条を日本のよりどころとして、
米国から自立し、
いかなる軍事覇権も容認せず、
アジアと共存共栄する本来の日本に立ち戻るしか日本の生きる道はない

ということがわかる時がかならず来る。
 いや、来なければいけない。
 そうである以上、一日も早く、その道を歩む事を始めるべきだ。
 そう、堂々と国会で主張して譲らない政党、政治家が出て来なくてはいけないのである。
 新党憲法9条だ。
 それを教えてくれた、きょう1月19日の各紙の紙面である。


天木直人のブログ、2020-01-19
安保60周年の紙面に見る「米国から自立できない日本」
http://kenpo9.com/archives/6463

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市川由紀乃「懐かしいマッチの炎」

 ラジオでも聞くかなとオンにすると耳に入るのはラジオ深夜便。
 それに流れるいい歌があったので、いっつも誰が歌ってるなんという曲なんだろうな、と思いつつ、思うだけでそのメロデーのおかげで、また深い眠りに入ることができていましたので、分からずじまいだったのですが、ヤッホーくん、分かりましたよって報告してくれました:

懐かしいマッチの炎 / 市川由紀乃

作詞:阿久悠
作曲:幸耕平

ああ 懐かしいあの時代
一本のマッチの炎の中に…

月が雲間に隠れて
二人は影になる
あなたはマッチを擦り
炎でわたしの顔を見る
わたしはフッと吹き消して
月が出るのを待ってという
あなたが火をつける
わたしがフッと消す
何度も何度もくり返し
心を近づけている

ああ 懐かしいあの時代
一本のマッチの炎の中に…

青くゆらめく炎に
あなたの顔がある
涙が光っている
見るなと怒って顔隠す
わたしの軽いいたずらを
恐い顔してとがめている
わたしが火をつける
あなたがフッと消す
いつもといつもと反対ね
心を迷わせている

ああ 懐かしいあの時代
一本のマッチの炎の中に…

一本のマッチの炎の中に…

市川由紀乃さんの新譜『懐かしいマッチの炎』について、キングレコードのチーフディレクター湊尚子さんにお話を伺いました。

―― まずは新曲のPRをお願いいたします

湊尚子さん(ヤッホーくん注): 作詩は阿久悠さんの未発表詩で、タイトル通り懐かしく温かい気持ちになれる心に響く1曲になっています。
「NHKラジオ深夜便」の“深夜便のうた”に決まりまして2019年12月〜2020年1月まで毎晩「NHKラジオ深夜便」の中でオンエアされています。
 “深夜便のうた”に決まったきっかけは、番組制作スタッフの方が一昨年にリリースした『年の瀬あじさい心中』(作詩:阿久悠)を聴いてくださって、その曲に感銘を受けられたそうで、阿久悠さんのなんともいえない懐かしい昭和を語れる歌手だという印象を持ってくださったことがご縁となりました。

―― “深夜便のうた”に選ばれた際、市川さんは何かおっしゃっていましたか?

湊: 昔からご家族と一緒にこの「NHKラジオ深夜便」を聴いていたそうで、その思い出の番組のテーマ曲に自分の曲が決まったということで本当に感動していましたね。

―― 作詩が阿久悠さんということについて何かおっしゃっていましたか?

湊: 実際にお目にかかったことはないそうですが、歌手になる前の幼い頃から阿久悠さんの作品を聴いて、慣れ親しんでいたこともあり、そんな阿久先生が遺された未発表詩にメロディーがついて自分のオリジナル曲になったことはとても感慨深いと話していましたね。

―― 演歌のイメージが強かった市川さんですが、今回はがらりと変わって歌謡曲テイストですね

湊: みなさま“演歌の市川由紀乃”という印象があったかと思うのですが、「NHKラジオ深夜便」のテーマ曲ということで、今まで挑戦したことのなかったことに挑戦したいという気持ちになっていました。
 阿久先生の詩ということもあり、歌謡曲の中でも、たとえば洋楽を聴いていたリスナーの方にも耳馴染みのよいメロディーをつけてもらって、歌唱方法もコブシをきかせない、近くにいる人に語りかけるように優しく歌うなど、トライしたことの無かった方法でチャレンジしていました。

―― レコーディング現場の様子を教えてください

湊: 新しいことにチャレンジすることについて、苦労するより楽しんでいましたね。
 終始笑顔で、とてもリラックスして歌っていたかと思います。

―― ミュージックビデオのコンセプトについて教えてください

湊: 本人が着物を着て歌っている中に男女の物語のシーンをインサートすることで、この楽曲を聴いた方が自分の懐かしい思い出を歌と一緒に思いだして追体験できるような作りにしました。

―― 実際にミュージックビデオをご覧になっていかがでしたか?

湊: 物語の語り手になることを歌だけでなく映像を通して表現できる歌い手にまた一歩ステップアップしたような印象を受けました。

―― 普段の市川さんについて教えてください

湊: とっても面白い方です。
 細かいモノマネが絶妙でいつも場を和ませてくれるムードメーカーですね(笑)。

―― 趣味が”妄想”とあるのですがこれはどういったことですか?

湊: 歌の世界の主人公を妄想して、その主人公になりきるというのが妄想を始めたきっかけだったと思います。
 それがだんだんと忙しい日常生活の中でやりたいことや会いたい人のことをイメージすることにはまっていったのかなと思います(笑)。

―― カラオケで歌う時のコツを教えてください

湊: いつもコブシを回して歌っている方にとっては違ったチャンネルで歌う必があります。
 まずは肩の力を抜いて、さりげない表情で歌えるかが大事だと思います。
 自分の近くにいる大切な人に語りかけるように歌うと良いのではないでしょうか。
 一本のマッチの炎のやわらかい明かりで顔を照らしあって語り合う二人のシーンを描いた歌なのでその情景を妄想して頂ければと思います。


[動画]
市川由紀乃/懐かしいマッチの炎 - フルバージョン
https://www.youtube.com/watch?v=pPCbYgnRz9M

うたびと、2019年12月26日
新譜!にっぽんのうた〜ノーカット編〜
市川由紀乃「懐かしいマッチの炎」

https://www.utabito.jp/insidestory/3920/

 ヤッホーくんだけではなかったようで、いい歌はいい歌ですよね。
 この歌、レコード大賞で「最優秀歌唱賞」を受賞しておりました:

第61回「輝く!日本レコード大賞」で2019年度の最優秀歌唱賞を受賞した市川由紀乃。
デビュー26年を経て、大きな勲章を手にした彼女がリリースした新曲は、作詞家の故・阿久悠さんが遺した未発表作品。
「大好き」だと話す阿久悠さんの詞の世界について、最優秀歌唱賞を獲得して、これからどんな歌手になっていきたいか、「うたびと」としての決意について聞いた。

―― 新曲『懐かしいマッチの炎』は、「歌謡曲」というイメージがぴったりのスローな曲ですが、お聴きになった時の第一印象は、いかがでしたか。

市川由紀乃: この曲を聴いて、阿久先生の詞を読んだとき、まっさきに浮かんだのが“昭和”という言葉でした。
 私も昭和生まれですので、『ああ、あの頃、いい時代だったなあ』って、いろいろ思い出しました。
 この曲は昭和の香りがするところにとても魅力を感じています。

―― ちなみに昭和という時代からどんなことを連想しますか。

市川: 私はやっぱり歌です。
 今は演歌、Jポップ、歌謡曲のようにアーティストはジャンルごとにそれぞれの領域で活動することが多いですが、昭和の頃は、例えば『ザ・ベストテン』のような、ひとつの音楽番組にいろんなジャンルのアーティストが一堂に集っていたというイメージがあります。
 “流行歌”というくくりの中で、音楽はジャンルに関係なくファンの皆さまの耳にとどいていた時代だったと思います。

――『懐かしいマッチの炎』以外でも市川さんは、阿久さんの作品を集めたカバーアルバム(『唄女<うたいびと>V昭和歌謡コレクション&阿久悠作品集』)をお出しになっています。阿久さんの詞にはどんな印象をお持ちですか。

市川: 阿久先生の歌詞はどの歌も映画のワンシーンを観ているようで、ストーリーが鮮明に浮かんでくるところが好きです。
 曲を聴くと“あの頃”にタイムスリップしたような感覚になれるんです。
『唄女V』ではピンク・レディーさんや山本リンダさんの曲まで歌わせていただいていてレコーディングは本当に楽しかったです。
『懐かしいマッチの炎』も“マッチ”という言葉を通していろんな情景が浮かんできて、やっぱり大好きな阿久先生の世界だなと思いました。
 昭和の時代を生きてきた方は、あの頃はあんなこと、こんなことがあったなぁって思い出しながら、昭和を知らない世代の方は、昭和の雰囲気を感じていただければうれしいです。

―― ところで、今年度のレコード大賞最優秀歌唱賞をお取りになって、改めて今の心境はいかがですか。

市川: 子供の頃からレコード大賞を見てきているので、この賞の重みは分かっているつもりです。
 まさか、自分がいただけるとは思っていませんでしたが、歌い手としては大変、光栄な賞だと思いますので、歌唱賞という名に恥じないよう努力していきたいと思います。

―― 大きな賞をお取りになったわけですが、最後に、これからの目標を教えてください。

市川: 小さい頃から歌手になりたくて、その夢は実現しましたが、まだここがゴールではないし、“うたびと”としての旅はこれからも続きます。
 今年2019年は、各地で災害が発生して、つらい思いをされた方が多かったと思いますが、そういう時こそ歌の力が試される時。
 この曲を聴いて元気が出た、前向きになれたと思っていただけるような歌をうたいたい。
 市川由紀乃の歌を聴くと力が湧く――そう思っていただける存在になりたいと思います。


うたびと、2019.12.25
市川由紀乃独占インタビュー
「昭和の香りがする阿久悠先生の詞の世界に魅力を感じています」

https://www.utabito.jp/interview/3825/

(ヤッホーくん注)湊尚子さん
「いってらっしゃい」
 昨年の2016年末、NHK紅白歌合戦にデビュー23年目で初出場した演歌歌手市川由紀乃(1976年生まれ)さんの背中を押して舞台に送り出した。

「独特の緊張感の中、気丈に歌い切った。夢をかなえた姿はとても美しかった」
 2010年から担当ディレクターとして寄り添い、悲願達成の瞬間を舞台袖から見守った。
 
 小学3年で徳島少年少女合唱団に入り、海外公演にも参加。
 東京芸大声楽科ではプロを志す仲間と切磋琢磨(せっさたくま)したが、レコード会社のディレクターという裏方を選んだ。
 CD制作を手掛け、コンセプト作りから作詞家、作曲家の選定、若手なら歌い方や礼儀まで指導する。
「経験やセンスが物を言う。一番大切なのは歌手との信頼関係」と語る。
 
 キングレコードでの5年目に突然上司から演歌・歌謡曲担当への転向を促された。
 クラシック音楽しか手掛けたことがなかったため不安が募る中、今年2017年4月に83歳で亡くなったペギー葉山さんの担当になった。
 大ベテランは最初から「あなたはどう思う」と意見を聞き、尊重してくれた。
 
「南国土佐を後にして」を最初に提案されたとき「ジャズ歌手に歌謡曲は歌えない」と断ったが、ディレクターの懇願に思いを改め挑んだところ、曲は大ヒットを収めたという裏話を聞いた。
「ペギーさんは『求められるものに応えようと歌った歌が今では財産になっている』と。その言葉に勇気をもらった」と振り返る。
 デビュー65周年記念リサイタルを9月に控え、準備を進めていた最中の訃報だった。

私にとっての『芸能界の母』から学んだことをしっかりと受け継いでいきたい
 
 一昨年の2015年秋、小松島市出身の俳優大杉漣さんが神山町で開いたコンサートを聴きに帰省した。
「自分や古里のことを熱唱している姿に感激した」と語り「将来、徳島出身のアーティストやスタッフで曲が作れたらすてき」と目を輝かせた。


[写真]湊尚子さん

徳島新聞、2017/6/20
湊尚子さん(キングレコードチーフディレクター)
https://www.topics.or.jp/articles/-/4932

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2020年01月18日

「検察動け」市民が抗議

「意外にも」と言うべきか、「不運にも」と言うべきなのか、安倍晋三首相の通算在任日数が2019年11月20日、憲政史上最長を記録する。

 大臣たちの不祥事などで、第1次政権を投げ出した「あの時」とは、想像もできない「安倍政権の長寿」である。

 それなりに「人気」もある。
 しかし「バカの一つ覚え」のように主張する「デフレからの脱却」は早々と頓挫。
 経済は長〜い停滞。
 所得格差が広がっている。

 貧乏国なのに、後進国にカネをばらまき、トランプ大統領の命令で「兵器爆買い」までしているのに、当のアメリカにも、ロシアにも、中国にも(「世界中から」と言ってよいほど)バカにされ、外交は「合格点」にほど遠い。

 その上、次々に起こる災害に何ら打つ手≠ェない。

 なのに長持ち≠キる。なぜだろう?

「長寿の秘密」を探すのはいとも簡単である。

 次々に不祥事が続く内閣だが、この8年間、国会議員は逮捕・起訴されていない。
 どれも立件されれば「政権の命運」が尽きるような大事件なのに、なぜか、検察は真っ黒けの悪党≠無罪放免にしている。

 つまり、検察を味方にしたから安倍内閣は生き延びているのだ。


×  ×  ×

 逮捕されるべき国会議員はいた。
 例えば「甘利明・元経済再生担当相」である。
 甘利氏と元秘書2人は2013〜2014年、千葉県の道路工事の用地をめぐり、工事を担う都市再生機構(UR)との間で補償交渉をしていた千葉県の建設業者から現金計600万円を受け取っていた。

 当方から見れば「ワイロ」である。
 正確には「あっせん利得処罰法違反」である。
 業者は「600万円は口利きの報酬だった」と正直に証言したが、東京地検は甘利氏の「政治資金としてきちんと処理するように指示した」という言い訳を認め、甘利氏と元秘書2人を不起訴処分(容疑不十分)にした。

 法務省の幹部が「口利きなんて常時、永田町界隈(かいわい)でやっていること」と、政権側に立って「捜査」に口をはさんだ!と雑誌などで批判されたが......その「不起訴」で安倍政権は助かった。

 下村博文・元文部科学相の政治団体「博友会」が学校法人「加計(かけ)学園」の秘書室長から政治資金パーティーの費用として200万円を受け取ったことを隠していた。
 これも捜査対象になったが、東京地検特捜部は不起訴処分とした。

「検察の正義」はどこへ行ってしまったのか?

×  ×  ×

「検察の正義」は風化した。
「検察の独立」を守っていた人びとが......文字通り「身体(からだ)を張って」守っていた検事たちが、突然「時の内閣の意向」を忖度(そんたく)する普通のお役人≠ノなってしまった。

 多分、原因は「人事」だろう。

「政治主導」という名目で、安倍政権は、霞が関の官僚群を「人事」で支配した。
 各省庁の局長級以上の幹部候補を官邸がリストアップ。
 各省庁の人事にことごとく介入。
 首相(官邸)が最終決定する。

 法務省も例外ではなかった。

 検察首脳人事は政治的中立の不文律から、政権の影響を排除した独自の序列で決める。
 例えば、国民の安心・安全を担う検察の顔「検事総長」選びは現職の検事総長が総長OBらの意見を聞きながら次の検事総長候補を最終決定する。
 ところが、安倍政権は違っていた。
 2016年7月、当時の法務事務次官が、後任の事務次官の人事原案の承認を官邸に求めたところ、官邸はそれを拒否。
 原案では、地方の検事長に転出させることになっていた「安倍寄りの人物」を事務次官にした(事務次官は検事長を経て検事総長、というケースが多い)。

 安倍政権は「独立性」が求められるはずの「検察人事」を手に入れた。
 検察は、この日から「安倍政権の言いなり」なった。

×  ×  ×

 安倍政権は検察人事を握ることで長期政権を手に入れ、結果として「悪が栄える世の中」を作った。
 その最たるものが「森友学園への国有地不当廉売」事件である。

 いまさら、説明することもないだろう。
 大阪地検特捜部は国有地の大幅値引き売却に対する背任や決裁文書を改ざんした虚偽有印公文書作成など全ての容疑について、財務省幹部ら38人全員を不起訴処分とした。

 改ざんを命令された職員は悩み続け、自殺したというのに......命令した財務省理財局長(当時)・佐川宣寿(のぶひさ)氏は嫌疑不十分!

「巨悪」に立ち向かうハズの検察が自ら「巨悪」になってしまったのだ。


サンデー毎日、2019年12月 1日号
牧太郎の青い空白い雲
安倍首相"史上最長"を可能にした「検察の不正義」

http://mainichibooks.com/sundaymainichi/column/2019/12/01/post-2358.html

 検察がフツーに仕事をしていたら、日本はまだ法治国家でいられた。

 違法の限りを尽くした安倍政権。
「桜を見る会」疑惑は、明白で大胆で大規模な公職選挙法違反だ。
 それもアベ首相本人の犯罪なのである。

 だが検察は動く気配がない。
 小物は摘発するが、巨悪は眠らせたままだ。

「桜を見る会 疑惑にメスを!」

 不正義を許してはならないと思う市民たちが、今夕(2020年1月16日)、検察庁前で抗議の声をあげた。
(主催:憲法9条を壊すな!実行委員会 街頭宣伝チーム)

 参加者たちは代わる代わるマイクを握り、検察の尻を叩いた。

 埼玉県加須市から足を運んだ年金生活者(80代・男性)は「韓国の検察と比べると日本は最低だ」と声を張り上げた。

 都内在住の団体職員(40代・女性)は「あなたたちが従うのは法です。プライドを取り戻して下さい」と訴えるように言った。

 有名DJのRさん(男性・60代)はズバリ責めた―
「法の番人が民衆の敵。権力のケツ舐め。ちゃんと仕事をしろ。女房、子どもは泣いてるぞ」。

 都内の主婦(50代)は静かな口調のなかにも厳しさを込めた―
「アベさんは罪人です。検察官の皆さん。あなたたちの仕事は犯罪にメスを入れることではないのですか?」

 夜の帳もすっかり降りた霞ヶ関に「アベを捕まえろ」の叫び声が幾度もあがった。

 検察官たちには声が聞こえているはずだ。
 矜持があれば、動くだろうに。


[写真-1]
プラカードを持つ男性は「検察は無能」と斬って捨てた。=16日夜、検察庁前

[写真-2]
しんしんと冷え込む中、市民たちは検察の尻を叩き続けた。=16日夜、霞ヶ関

田中龍作ジャーナル、2020年1月16日 21:41
「検察動け」市民が抗議
アベの犯罪にメスを

https://tanakaryusaku.jp/2020/01/00022074

 一昨日2020年1月14日、学者グループ13名が、代理人弁護士51名を立てて、安倍晋三を東京地検特捜部に告発した。
 告発罪名は背任罪(刑法247条)。
 私も告発代理人の一人として,地検に赴き告発状を提出した。

 告発状全文は、下記URLを開いてご覧いただきたい。
http://article9.jp/wordpress/?p=14139

 昨日1月15日、国会で桜疑惑追及の中心メンバーの一人、宮本徹議員から私の事務所に電話での問合せがあって、澤藤大河弁護士が応接した。

 問合せの趣旨は、告発罪名が公職選挙法違反や政治資金規正法違反ではなく、なぜ背任だったのか、ということ。
 さらには、「法律家グループは、公職選挙法違反や政治資金規正法違反では告発は困難と考えているのか」と疑念あってのことのようだ。

 なるほど、これまでメディアで発信された見解からは、そのような誤解もありえようか。
 改めて、なぜ今桜疑惑で背任告発か。
 飽くまで現時点での私見だが、整理をしておきたい。

1 ことの本質は、安倍晋三の国民に対する裏切りにある。
 この国民からの信頼を裏切る行為を法的に表現すれば、背任にほかならない。
 桜疑惑を犯罪として捉えようとすれば、内閣総理大臣が国民から付託された任務に違背する行為として、背任罪が最も適切なのだ。

 森友事件・加計学園事件に続く桜疑惑である。
 なぜ、国民がこれほどに怒っているのか。
 それは、内閣総理大臣たる者の国政私物化である。
 国政私物化とは、国民が信頼してこの人物に権力を預け、国民全体の利益のために適切に行使してくれるものと信頼して権限を与えたにも拘わらず、その人物が国民からの信頼を裏切って私益のために権限を悪用したということである。
 この国民から付託された信頼を裏切る行為を本質とする犯罪が、背任罪である。
 背任罪告発は、ことの本質を捉え、国民の怒りの根源を問う告発であると考えられる。

2 にもかかわらず、これまで安倍晋三の背任を意識した議論が少ない。
 この告発によって、まずは大きく世論にインパクトを与え、世論を動かしたい。
 単に、「安倍晋三は怪しからん」というだけの漠然とした世論を、「安倍晋三は国民の信頼を裏切った」「これは背任罪に当たる」「背任罪で処罰すべきだ」という具体的な要求の形をもった世論とすることで、政権忖度で及び腰の検察にも本腰を入れさせることが可能となる。

 検察審査会の議決の勝負になったときには、この世論のありかたが決定的にものをいうことになる。

3 国民の怒りは、国政私物化の安倍晋三に向いている。
 安倍本人を直撃する告発が本筋であろう。
 公職選挙法違反・政治資金規正法違反・公用文書毀棄等々の告発の場合、主犯はそれぞれの事務の担当者とならざるを得ない。
 報告書の作成者、会計事務責任者、当該文書の作成者等々。
 そこから、安倍晋三本人の罪責にまで行き着くのが一苦労であり、さらに調査を重ねなければならない。
 しかし、背任罪なら、安倍晋三の責任が明らかというべきなのだ。
 何しろ、「桜を見る会」の主催者であり、内閣府の長として予算執行の責任者でもある。
 そして、何の功績もなく大量に招待させたり、あるいは招待もなく会に参加させた安倍晋三後援会の主宰者でもあるのだ。
 両者の立場を兼ねていればこそ、国民に対する信頼を裏切って行政を私物化し、国費を私的な利益に流用することができたのだ。

4 しかも、安倍晋三に対する背任告発は、報道された事実だけで完結している。
 基本的に告発状に記載したもの以上の未解明の事実が必要というわけではない。このことは、野党の責任追及に支障となることがないことを意味している。

 国会で、安倍晋三やその取り巻きに、「告発されていますから、そのことのお答えは差し控えさせていただきます」という答弁拒否の口実を与えることはありえない。

5 背任罪は、身分犯であり、目的犯であり、財産犯でもある。
 信任関係違背だけでは犯罪成立とはならない。
 身分と目的を充足していることには、ほぼ問題がない。
 財産犯であるから、被告発人安倍が国に幾らの損害を与えているかが問題となる。
 これを予算超過額とした。合計 1億5200万円である。

 厳密には、招待すべからざる参加者に対する飲食費の特定が必要なのかも知れない。
 しかし、それは告発者に不可能を強いることになる。
 参加者名簿を破棄しておいて、資料の不存在を奇貨とする言い逃れは許されない。
 このことに関して、昨年2019年5月13日の衆議院決算行政監視委員会議事録に、次のような、宮本徹議員の質問と、政府参考人(内閣府大臣官房長)の回答がある。
○ 宮本委員: 予算を積んでいる額は、今のお話では、2013年1718万円、2014年以降ことしまで1766万円。支出を聞いたら、3000万円、それから3800万、4600万、4700万、5200万と。ことしはもっとふえていると思います。
 予算よりも支出が多いじゃないですか。これはどこからお金が出てきているんですか。

○ 井野靖久政府参考人(内閣府大臣官房長): お答えいたします。
 桜を見る会につきましては、準備、設営に最低限必要となる経費を前提に予算を計上しているところでございます。
 他方、実際の開催に当たりましては、その時々の情勢を踏まえまして必要な支出を行っておりまして、例えば、金属探知機の設置等のテロ対策強化でありますとか、参加者数に応じた飲食物提供業務経費などがございまして、結果的に予算額を上回る経費がかかっております。
 このように、支出額が予算額を上回った分につきましては、内閣府本府の一般共通経費を活用することにより経費を確保しているところでございます。

○ 宮本委員: 情勢によってとかいって招待客をどんどんどんどんふやして、予算にもないようなお金をどこかから流用して使っているという話じゃないですか。とんでもない話じゃないですか。しかも、招待客の基準が全く不透明なんですよね。
 安倍政権を応援している「虎ノ門ニュース」というネット番組があるそうです。レギュラー出演している方がブログに書いておりますが、いつも招待をもらっていたが、ことしは例年と異なり、ネット番組「虎ノ門ニュース」の出演者全員でというお招きだったので、虎ノ門ファミリーの皆さんとともに参加しましたと書いてあります。
 こうやって政権に近い人をどんどんどんどん呼んで参加人数が膨らんで、予算にもないような支出がどんどんどんどんふえているという話じゃないですか。
 こういう支出のふやし方というのは、官房長官、国民の理解は決して得られないんじゃないですか。

○ 菅国務大臣: 桜を見る会については、準備、設営に最低限必要と考えられる経費を前提に予算を計上しているところであり、来年度以降についても、これまでの計算上の考え方、実際の支出状況などを踏まえつつ対応していくことになるだろうというふうに思います。
 また、この桜を見る会は、1952(昭和27)年以来、内閣総理大臣が各界において功績、功労のあった方々を招き、日ごろの御苦労を慰労するとともに、親しく懇談される内閣の公的行事として開催をしているものであり、必要な経費については予算から先ほど言われましたように支出しているということであります。

○ 宮本委員: 功労、功績といいますけれども、「虎ノ門ニュース」の皆さんがどういう功績があったのかわからないですけれども、安倍内閣になってから、それまで一万人前後であったのが1万8200人にふえているわけですよ、参加者が。
 功労を上げた人が急にふえた、政府の基準からいって、そういうことですか。

○ 海江田委員長: 答弁は。(宮本委員「官房長官です」と呼ぶ)菅官房長官、指名していますから。もう時間がありません。時間が過ぎておりますので、手短に。

○ 菅国務大臣: いずれにしても、各府省からの意見を踏まえて、幅広く招待をさせていただいているということであります。

○ 海江田委員長: もう時間が過ぎていますから、手短に。

○ 宮本委員: こういうやり方は、国民の納得は絶対に得られないですよ。

 つまり、最低限必要となる見込みの経費を前提に予算を計上し、支出額が予算額を上回った分については、「一般共通経費」で補填しているという。
 問題は明らかだ。
 予算で最低限必要なことはできるのだ。
「桜を見る会開催要領」に従って、招待者1万人枠を遵守していれば、「一般共通経費」の「活用」は不要なのだ。
 最初から「一般共通経費」の「活用」を前提として予算を組むことなどありえないのだから。
 国会が承認した予算を漫然と超過することは許されない。
 どのような事情で、何に、幾らかかったかの特定と、根拠となる証票がなければ、「一般共通経費」からの支出が許されるはずはない。

 被告発人安倍晋三が遵守しなけばならないのは、「桜を見る会開催要領」と予算である。
 日本とは、内閣総理大臣自らが法を守る姿勢をもたない情けない国なのだ。
 まずはこの人物の背任罪の責任を徹底して追及しよう。


澤藤統一郎の憲法日記、2020年1月16日
なぜ、今、安倍晋三告発罪名が背任なのか。
http://article9.jp/wordpress/?m=202001
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「大学入試利権」のお友達大集合

 ヤッホーくんのこのブログ、2019年01月22日付け日記「安西祐一郎●元慶應義塾大学塾長」をお読みください。
 今日2020年01月18日土曜日は、大学入試センター試験の初日。
 でも、ね、私企業が企業利益のため「教育」にまで手を突っ込んでいた、いる、とは、この国の伝統とか、良識とか、倫理とかはいったい、どこへ飛んで行っちまったんでしょうか・・・

 18日は昼前にかけて、山梨県を中心に、東京都や神奈川県、静岡県でも雪が降る見通しだ(*)。
 気象庁によると、東京都心の積雪の可能性は低くなったという。
 交通機関が乱れる恐れがあり、同庁は最新情報に留意するよう呼びかけている。

 同庁の18日午前6時現在の予想では、19日午前6時までの24時間に予想される降雪量は、
▽ 山梨県2〜10センチ
▽ 静岡県2〜5センチ
▽ 神奈川県1〜10センチ
▽ 東京都の多摩西部2センチ、となっている。
 いずれの地域も山沿いを中心に雪が多くなるという。

 一方、東京都心について同庁は「予想より気温が下がらず、降水量も少なく、積雪はない見通し」としている。
 ただ、冷え込み、18日の最高気温は5度の予想だ。
 また、18日は気圧の谷の影響で、北陸や中国地方の山沿いなどでも雪が降る地域がある。
 19日は全国的には晴れや曇りとなるが、北陸は引き続き雪が降る所があるという。


[写真]
朝から雨がぱらつく銀座4丁目の交差点=2020年1月18日午前7時3分、東京都中央区

朝日新聞、2020年1月18日 6時35分
都心は積雪ない見通し
センター初日、関東で雪の見通し

https://www.asahi.com/articles/ASN1L23GDN1LUTIL002.html

(*)一方、九州では、大陸の空気、南下しにくく

 九州は暖冬の影響で今季、まだ「初雪」が観測されていない。
 九州北部では平年より約1ヶ月遅れ、佐賀や熊本は最も遅い観測日「1月25日」まで観測されない可能性が濃厚だ。
「2月6日」が最も遅い福岡では1909年以来、111年ぶりに記録を塗り替える可能性も出てきた。

 初雪は、秋から翌年春までの期間で、管区気象台や地方気象台で雪(みぞれを含む)を観測した日を指す。
 九州では今季、福岡と佐賀の県境にある脊振山などで初冠雪は観測したが、平地にある気象台では確認されていない。

 初雪が最も遅く観測されたのは、
▽ 佐賀、熊本1月25日(ともに1954年)
▽ 長崎1月27日(1972年)
▽ 大分2月9日(同)。
 平年値は12月15〜23日で、福岡で初雪が越年したのは2001年以来だった。

 初雪がまだ降っていないのはなぜか。
 福岡管区気象台によると、日本の東にある勢力が強い高気圧が押し上げる暖かい空気と、大陸から南下する冷たい空気が拮抗(きっこう)する境目が平年より北側に位置し、九州などに寒気が南下しにくい状態になっている。

 月末までは、平年より気温が高い状態となり、暖冬が続きそうだという。


[図解]日本付近の大気の流れ

西日本新聞、2020/1/18 6:02、
九州、なぜ初雪降らないの?
111年ぶり記録更新か

(吉田真紀)
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/576643/

 大学入試改革の一環として文部科学省が2017年、高校生の部活動や留学経験などを評価できる記録サイトを新たに導入したが、高校生がベネッセコーポレーション(岡山市)のIDを取得しないと利用できない状況が続いていることが分かった。
 記録サイトは全国100以上の大学が活用しており、2020年度入試では同志社や立命館、九州共立大など約20校が合否判定に用いる予定。
「特定企業への利益誘導にならないよう早期の是正が必要だ」との指摘が出ている。

 この記録サイトは「ジャパン e−ポートフォリオ(JeP)」。
 文科省が「主体性」を評価できる手段として採用した。
 高校生が生徒会活動やボランティア活動、取得した資格や検定などについて書き込み、大学側はその記録を入試の際に確認し、選抜に活用できる。

 ところが、高校生が記録サイトにアクセスするには、まず学校単位や個人でベネッセのID(無料)を取得しなければならない。
 このIDは、ベネッセの主力商品である進研模試や教材と共通のものだ。

 ベネッセ広報部は「IDを当社の営業活動に活用することはない」と説明する。
 だが、東京都内の高校教諭は「多くの生徒は、1年生から記録サイトに登録した方が受験に有利と判断するだろう。ベネッセのIDだけ取得して、進研模試は受けないということは考えにくい」と、同社に有利に働いていると話す。
 教育関連大手企業の関係者によると、記録サイトの導入以降、実際に他社の模試から進研模試に切り替える学校も出てきているという。

■ ■ ■ 

 記録サイトは文科省が2016〜2018年、入試改革の中で関西学院大学など8校に委託して構築させた。
 ベネッセのIDを選んだ理由について、関西学院大は「既にシステムとして確立しており、個人情報保護と、別人が受験生になりすますことを防ぐ点などでメリットが多かったため」としている。

 文科省は当初、委託が終了した2019年度から独自のIDに切り替える予定だったが、「新しいIDシステムの研究開発が遅れており、現時点でいつ移行できるかは分からない」(大学振興課大学入試室)という。

 記録サイトを活用する大学数は年々増えており、公的な役割が高まっている。
 東京学芸大ICTセンターの森本康彦教授(教育工学)は「学生の主体性と幅広い成長を促すことが出発点である以上、『JeP』だけでなく複数の記録サイトを立ち上げ、生徒や高校、大学がそれぞれに合ったサイトを選択できるような仕組みにするのが健全な在り方ではないか」と提案している。


[写真]
記録サイト「ジャパン e−ポートフォリオ」の画面。ベネッセのIDがないとアクセスできない

西日本新聞、2020/1/16 6:00
入試で評価の記録サイト、利用には一企業ID
「利益誘導」疑う声も

(下村ゆかり)
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/576025/

「300人は入る披露宴会場は満席で、安倍晋三首相夫妻二階俊博・幹事長菅義偉・官房長官萩生田光一・文科相のほか、財界からもセガサミーHDの里見治会長など豪勢な顔ぶれでした」

 こう語るのは去る2019年9月8日、都内のホテルで行なわれた下村博文・選挙対策委員長の公設第一秘書を務める次男の結婚披露宴の出席者だ。
 その席次表を入手すると、興味深い人物の名前がある。

 1人は教育大手ベネッセコーポレーション学校カンパニー長の山崎昌樹氏、もう1人は元中央教育審議会会長の安西祐一郎氏(元慶應義塾大学塾長)
 2人とも、急転直下で延期された大学入試の英語民間試験導入のキーマンだ。

 制度導入を最も後押ししてきたのは2012〜2015年に文科相だった下村氏だ。
 実際に始まれば「高校生にはベネッセが提供するGTECが最有力の選択肢」(塾関係者)と見られており、山崎氏にとって下村氏は巨大な商機を与えてくれる恩人だ。

 一方の安西氏は2014年12月に中央教育審議会の会長として、制度導入のレールを敷く答申を取りまとめた。

 下村・安西両氏はぴったり歩調を揃えてきた。
 下村氏が昨年2018年4月、民間試験導入に慎重な東大の姿勢を問題視して「文科省はよく東大に指導して」と発言している音源をNHKが先月19日にスクープしたが、安西氏も昨年2018年9月のインタビュー記事で「東大の見識を疑う」と“口撃”している。

 しかも、安西氏は中教審答申を出す1ヶ月前の2014年11月、ベネッセ社内に本拠を置く「一般財団法人進学基準研究機構」の評議員に就任していた(今年2019年3月に退任)。
 GTECの関連組織で、理事に山崎氏もいる。

 入試改革の旗振り役となりベネッセ側にポストを得た安西氏、ベネッセ幹部の山崎氏、そして政界で推進した下村氏が一堂に会した披露宴だったのだ。
 その不可解な親密さがこの席次表にはくっきりと見てとれる。
 民間英語試験に一貫して反対してきた東大教授(英文学)の阿部公彦氏はいう。

現場からの不安の声が強まっているのに導入が強行されようとしていたのは、下村氏と深く関係を結んでいた企業ありきだったからではないか、という疑念を抱かざるを得ません

 披露宴について下村事務所は「文科行政へ影響を与えることは全くない」としたが、ベネッセは「プライベートな場に関する回答は控える」と私的な“お友達”と認めた。これで公正な判断はできるのか。

※ 週刊ポスト2019年12月13日号


[写真]
入試は公正公平が大原則だが……

News ポストセブン、2019.12.05 07:00
下村博文氏の息子の結婚式に「大学入試利権」のお友達大集合
(取材・文/広野真嗣、ノンフィクション作家)
https://www.news-postseven.com/archives/20191205_1499535.html

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2020年01月17日

阪神・淡路大震災から25年

阪神淡路大震災25年
激震の記録1995
取材映像アーカイブ

(朝日放送)
https://www.asahi.co.jp/hanshin_awaji-1995/

 戦後最大の災害であり、未曽有の都市直下型地震、阪神・淡路大震災から丸10年。
 被災地の街なみはすっかりきれいになり、兵庫県は、「復興は着実に進んできた」といいます。
 しかし被災地の実態は、震災で余儀なくされた借金の返済の困難さや止まらない孤独死にみられるように、多くの被災者がいまも立ち直れず、震災による重荷を引きずったままです。
 依然としてさら地も多く残っています。
 被災者に個人補償がおこなわれなかったこととともに、国・自治体がすすめてきた復興政策がもたらした結果にほかなりません。
 10年間の復興政策と、被災者本位の復興めざす流れを検証します。

復興事業費、6割は大開発

 この10年間に投じられた国・自治体の復興事業費16兆3000億円のうち6割、約10兆円もの巨費が、「多核・ネットワーク型都市圏の形成」という大型開発事業群に注ぎこまれていたことが、昨年末の兵庫県の発表で明らかになりました。
 これは、神戸空港建設、新都市づくり、高速道路網建設、巨大再開発事業などからなり、関空二期工事への出資金まで入っています。
 ゼネコン型の大型開発を中心にすえたことが、国・自治体の復興政策の最大の特徴です。
 震災直後に設置され、復興の方針を決める国の復興委員会は、「復興は単にもとの姿にもどることではありません」(同委員会報告)とし、兵庫県は「単に震災前の状態に回復するだけではなく、21世紀の成熟社会を開く『創造的復興』」をスローガンに。
 こうした論法で、震災を絶好のチャンスとして大型開発を推進しました。

 神戸市の当時の助役は震災直後のテレビ番組で、神戸空港など開発計画をもりこんだ震災前の市のマスタープラン(総合基本計画)にふれ、「このマスタープランを実行するのが震災復興。タイトルを書き換えて、今日からでも明日からでも実行する」と発言。
「幸か不幸かこういうことになりましたので」と、震災を歓迎するかのような発言までしました。
 大企業優遇も明りょうです。
 県や神戸市がすすめた「東部新都心」づくりの事業では、神戸製鋼所や川崎製鉄のぼう大な遊休地を住宅や商業用地として高く買い上げ、神鋼は300億円弱、川鉄は218億円もの売却益を得ました。

地域コミュニティー壊す

 地域のコミュニティーを壊し、被災者を元の街に戻さないという方針が貫かれたことも復興政策の特徴です。
 貝原俊民前知事は、2002年10月のインタビューで、この点を明確にのべています。

「住民の言うように、前のとおりにつくっていって、それで事足りるのかと言われたら、これはまた問題なんですね」
「だから、長田なんか、人口が戻らないというような声が切実にあるわけですけれども、それでは、本当に元の状態に戻していいのかということです。……高齢者の集団を長田につくって、一体どうするのか」
(『阪神・淡路大震災復興誌第七巻』所収)

 仮設住宅は、神戸市分の約8割(戸数比)が郊外や埋め立て地など被災市街地外につくられ、災害復興公営住宅は全県分の44%(同)が被災市街地外に建てられました。
 コミュニティーを破壊して被災者を不便な遠方に追いやり、孤独死の温床となりました。

 震災前と同じ場所に住み続けている人は、神戸市内で51%(『2003(平成15)年度 復興の総括・検証』)、西宮市内、芦屋市内ともに37%(『街の復興カルテ2003年度版』)にすぎません。
 日本共産党神戸市議団の十周年調査でも、震災前と同じ行政区の復興公営住宅に住んでいる被災者は約4割にとどまっています。

「棄民政策」―― 自力再建押しつけ

「棄民政策」――阪神・淡路で生まれた用語です。
 国や県、神戸市などは徹底して「棄民」の立場でした。

 震災当時の村山内閣は、「私有財産制のもとでは認められない。生活再建は自助努力で」と個人補償を拒否し、自力再建を押しつけたのはその典型です。
 そのため、被災者はいまも苦闘を強いられています。
 仮設住宅と復興公営住宅で孤独死が通算560人にのぼります。
 孤立した病気や高齢の被災者が集められ、孤独死が多発する危険性が明白なのに、行政はまともな対策を怠ってきました。

 県は、「復興10年総括検証・提言報告」で、生活援助員の配置など「見守り」体制を「先導的な取り組み」などと自画自賛していますが、抜本的充実こそ求められています。
 行政の非人間的な対応も問題になってきました。
 神戸市内の仮設住宅で1997年8月、真夏にもかかわらず料金滞納で市に水道を止められた女性(53)が、衰弱死する事件が起きました。
 今月2005年1月13日には、西宮市の復興県営住宅で、男性(63)の白骨化した遺体が昨年2004年11月に見つかっていたことが判明しましたが、亡くなってから1年8ヶ月たっていました。
 報道では、男性は家賃を滞納していて支払いを督促され、「自主退去したいが転居先が見つからない」と話していたといいます。

※ 国連が被災者支援を勧告
 被災者が置かれた厳しい状態には、2002年に国連が日本政府に被災者支援の強化を勧告したほどです。
 国連社会権規約委員会は、同年2002年8月発表の見解のなかで、多くの被災高齢者が孤立しケアもないことや、住宅再建の資金調達の困難さなどに懸念を表し、
(1) 兵庫県に高齢者や障害者へのサービスを拡充させる
(2) 住宅ローン返済を援助する措置を迅速にとる
―ことを日本政府に勧告しました。

※ 被災者は訴える
〇 ケミカルシューズ加工業 甲斐美智子さん(64)=神戸市須磨区=
人生の“谷底”
 
 靴一筋40年、夫婦でがんばってきました。
 震災で家も工場も失い、3600万円の融資で店舗つき住宅を再建しました。
 ところが年々売り上げが落ち、いま震災前の半分。
 月30万円返していたのを去年から10万円の利子だけに変更しました。
 元金が2000万円も残っています。
 来年から二人とも国民年金が入るので、それで元金を返していくつもりです。
 この十年、服なんて一枚も買っていません。
 ことしのお正月はかまぼこ一つ買えなかった。
 いま人生の“谷底”です。

〇 神戸市北区鹿の子台の復興県営住宅自治会長 永楽正夫さん(56)
家賃払えない

 私は長田区で被災し、7年前、神戸市の最北で交通の便も悪い、この住宅にきました。
 長田の公営住宅は当たらず、ここしかなかったんです。
 入居者の半数は高齢者です。
 近所づきあいはほとんどなく、部屋に閉じこもりがちの方が多い。
 お金がないから外にでられないという面もあります。
 コミュニティーはなかなかできません。
 入居後10年で家賃補助が打ち切られようとしていますが、そうなったら国民年金だけの方などは払えません。
 行政は10年という歳月で区切るのではなく、被災者の実態をみて配慮してほしい。

〇 二重ローンに苦しむ山本直之さん(46)=神戸市東灘区、会社員=
復興ずっと先

 3500万円で買ったマンションが、引っ越して9日目で震災に遭い全壊。
 建て替えで新たに1800万円負担しました。
 住宅ローンは前の分と新規分で合計4400万円です。
 毎月10万円の返済と年93万円のボーナス払いをしています。
 これが70歳まで続く。
 もう考えたくないですね。
 なくなった家のローンを払い続けるのは、本当につらい。
 せめて息子には借金を継がせたくない。
 周りの人に「もう震災は終わったんやね」と思われるのが悔しい。
 借金を返し終えるまで、震災は終わりません。
 私にとって復興はずっと先のことです。

※ 大震災データ
 1995年1月17日午前5時46分発生
 震源池・淡路島北部
 規模・マグニチュード7.3、最大震度7
 死者6433人、行方不明3人、負傷者4万3792人
 家屋全壊(焼)19万4589世帯、半壊(焼)27万4364世帯、一部損壊26万3702棟


しんぶん赤旗、2005年1月16日(日)
阪神・淡路大震災10年
たたかいが政治動かす
ほんとうの復興を求めて
借金、孤独死…いまなお

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-01-16/04_01.html

 阪神・淡路大震災の発生からきょう2020年1月17日で25年を迎えた。
 街から目に見える傷痕が消えて久しい。
 大多数の被災者は安心できる暮らしを取り戻した。
 一方で、隠れていた制度の壁が年月とともに姿を現し、乗り越えたはずの人を再び「被災者」へと引き戻す。
 これが四半世紀を経た被災地の現実だ。
 苦しむ人がいる限り、震災は終わらない。
 最後の一人まで救うためにどんな仕組みが必要か。
 復興とは何か。
 私たちは問い続け、またここから歩み始めようと思う。

◇ ◇ ◇ 

 あらわになった壁の典型が「借り上げ復興住宅」の退去問題だろう。
 兵庫県と県内5市が被災者向けに民間の賃貸住宅などを借り上げ、公営住宅として提供した。
 震災翌年の1996年、公営住宅法の改正で導入された仕組みで、自治体が直接建設するより住宅を早く確保でき、費用も安く済む利点があった。
 ところが、多くの住宅で20年間の借り上げ期間が過ぎると、神戸市と西宮市で要件を満たさない入居者を市が提訴するケースが相次いだ。
 裁判では退去を命じる判決が続く。
 突然家を失い、移り住んだ復興住宅でようやく得た、安心できる住まい。
 退去命令が、高齢となった被災者の健康や暮らしの先行きに与えるダメージは計り知れない。

 市側は「公平性」を強調する。
 一般市民や自力で住宅再建した被災者らと比べて不公平だという。

個別の再建支援を

 だが同じ制度でも宝塚、伊丹市は全員が住み続けられるようにした。
 兵庫県と尼崎市は一定の要件はあるが、健康状態などに応じ柔軟に継続入居を認めている。
 自治体間のばらつきこそ被災者には不公平に映る。
 画一的な線引きで退去を迫るか、一人一人の状況に配慮して工夫するか。
 法制度を誰のために、どう使うかが生活再建の質を左右する。
 行政は改めて被災者に向き合うべきだ。

 東日本大震災以降、被災者の個別状況に応じた生活再建計画に沿って支援する「災害ケースマネジメント」の導入が進む。
 2005年のハリケーン被害で、米連邦緊急事態管理局(FEMA)が始めたとされる。
 仙台市が仮設住宅入居者の生活再建支援策として実践し、熊本地震、西日本豪雨などの被災地でも採用された。
 多くの原発避難者が暮らす山形県も、昨年から「避難者ケースマネジメント」を導入した。

 鳥取県は2016年の地震を機に取り組み、2018年度に全国初の条例化に踏み切った。
 個別訪問による実態調査をもとに世帯ごとの生活復興プランを作成し、専門家による支援チームを派遣する。
 費用捻出が難しい世帯に建築士を派遣し、支援金の範囲でできる修繕方法を助言する。
 借金を抱えた世帯は弁護士が相談にあたる。
 健康不安を抱える高齢世帯には保健師が同行する−。
 多様な団体が被災者の個別事情を共有し、支援策を探っていく。
 定着すれば、被災者の生活再建を促すとともに平時の地域の課題解決力につながっていくだろう。

新たな災害法制へ

 阪神・淡路大震災は、新たな災害法制を生んだ。
 被災者らの粘り強い運動で1998年に成立した「被災者生活再建支援法」だ。
 住宅を含む生活再建を公的資金で支える、初めての仕組みだった。

 被災者支援を巡る法制度は他に、災害対策基本法、仮設住宅の提供を定める災害救助法、遺族や重度障害者に現金を給付する災害弔慰金等法などで構成される。
 それぞれが災害のたびに継ぎはぎされ、新たな線引きからこぼれ落ちる被災者を生み続けている。

 昨年、これらを一本化し、切れ目のない支援を実現する「被災者総合支援法案」を関西学院大学災害復興制度研究所が発表した。
 被災者自身が支援内容の決定に参画する運営協議会や不服を申し立てられるオンブズマンの設置、災害関連死の防止義務などを盛り込んだ。
 検討メンバーで、災害ケースマネジメントを提唱する日弁連災害復興支援委員長の津久井進弁護士=兵庫県弁護士会=は「最後の一人まで救うために必要な仕組みを形にした。残された課題に光を当てるきっかけにもなる」と指摘する。
 借り上げ復興住宅だけでなく、震災当初のアスベスト(石綿)飛散による健康被害、震災障害者の実態把握などの課題は、今なお積み残されたままだ。

 一人ひとりが尊重される「人間の復興」を見届けるのは、被災地で生きる私たちの責任でもある。


神戸新聞、2020/01/17
「復興とは」
問い続ける「最後の一人まで」

https://www.kobe-np.co.jp/column/shasetsu/202001/0013039440.shtml

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“安倍首相の私兵”のような公安をはじめとする警察組織・・・

「朝の7時くらいでした。マンションの玄関からノックする音が聞こえて。早朝だし、あれ? なんだろうと思ったんですが、寝ぼけてボーッとしながらドアを開けたら、黒服や作業服っぽい男たちが立っていた。見たことのある顔が何人かいて。ヘイトデモのカウンターの場所で見覚えのある、警察の人でした」

 男性は、公安に突然逮捕された日のことをそう振り返る。
 この男性を、Mさんとしよう。
 今月2020年1月9日、警視庁公安部は、Mさんをいわゆる「車庫飛ばし」という“微罪”で逮捕。
 そして一部マスコミが、公安発表をそのまま垂れ流すかたちで逮捕を実名報道した。

〈右派系市民団体のデモへの抗議を繰り返す「レイシストをしばき隊」、現在の「対レイシスト行動集団」のメンバーの男が、所有するワゴン車の登録地を偽って申請したとして警視庁に逮捕されました〉
(TBS)

〈公安部によると、●●容疑者は、差別や憎悪をあおる「ヘイトスピーチ」などに抗議する団体の中心人物。車は活動資材の運搬に使用していた〉
(産経ニュース/注:記事は実名だがリテラ編集部で匿名にした)

 警察は勾留の延長を求めたが、裁判所は証拠隠滅や逃亡の可能性がないとして却下。
 Mさんは11日に保釈された。
 本サイトで報じたように、公安がMさんを“微罪逮捕”した狙いは、差別主義者に対するカウンター行動と、12日に新宿で行われた大規模な反安倍政権デモ「Occupy Shinjuku 0112」への“弾圧”とみられている。
https://lite-ra.com/2020/01/post-5205.html

 本サイトがMさんに取材を申し込むと、Mさんはカウンター行動やデモへの関わり方から、今回の逮捕、保釈にいたるまでの状況を克明に語ってくれた。
 Mさんの証言から明らかになったのは、「レイシストをしばき隊」やその後継団体「対レイシスト行動集団(C.R.A.C)」を狙い撃ちにし、団体や個人のプライバシー情報をかき集めるという公安の卑劣な手口だった。

「玄関で僕の名前を訊かれて、いきなり『車のことで令状があります』と。紙をパッと見せられ、何の令状かわかりませんでしたが、車庫飛ばしで捜査すると言われました。うすうす公安だと感づいていたので、『それって国土交通省とかじゃないんですか? そういうこと担当するんですか?』と聞いたんです。そしたら『これは電磁的公正証書原本不実記録・同供用の容疑で、ウチでも扱える』と、そこからもう有無を言わせない感じで。そうか、僕は逮捕されるのだな、と」
(Mさん)

 マンションに10人ほどの公安警察が入ってきた。
 携帯電話、もう使っていないスマートフォン、ノートパソコン、鍵束、免許証や保険証の類、キャッシュカードやクレジットカードなど、さらには仕事関係でもらった名刺の束まで押収された。
 公安は銀行の預金通帳も要求したという。

「『決まったことに従ってください』という感じで。人の繋がりやお金の流れを探ってるんだと僕にもわかりました」とMさんは語る。

 1時間半後、Mさんは警察のバンに乗せられ、車内で手錠をかけられた。
 管轄の署に着くと、した着まで脱がされて身体検査を受け、指紋採取や写真撮影が行われた。

「羞恥心というよりも、警察署に連れて行かれて、そこでいろいろ事態を飲み込んでいった感じですかね、従うしかないんだなと。3、4時間ほど刑事から取り調べを受けました。それが終わると、すぐに『これから本庁に移動します』と告げられて。ここで寝泊りするものだと思っていたので、ちょっと驚きました。それで、また車に乗せられて、エンジンがかかったとき、横に座っていた刑事が『報道きてますね』と言った。警察署の表のゲートのところは板で壁みたいになっていて、普通の人の背丈だと車内が見えないようになってるんですけど、その板の上から強いライトが光ってるのがわかった。それがTBSだったんでしょう。内心、警察がマスコミを呼んだんじゃないのかとは思いました。一応、顔は伏せておきましたが、車が壁の横から出るときに撮られたのだといまでは思います」
(Mさん)

公安は、カウンターを政治的な組織と思い込み、組織の構造や金の流れを尋問してきた

 TBSはこの映像を〈「対レイシスト行動集団」メンバー、“車庫飛ばし”で逮捕〉と題して放送した。
 移送される瞬間の映像を撮影できたのは、警察側からリークがあったからだとみて間違いない。
「警視庁がしばき隊・C.R.A.Cの中心メンバーを逮捕した」と大々的にアピールしたかったわけだ。

 ところが、実はこれ、その意味においては完全に“誤認逮捕”だった。
 Mさんによると、ヘイトへのカウンター行動には2013年から参加していたものの、「レイシストをしばき隊」や「C.R.A.C」のメンバーにはならなかった。
 SNSでの呼びかけ見て、個人としてカウンターへ行き、沿道からプラカードを掲げたり反差別の声をあげていた一人にすぎず、公安が得意げに喧伝している「しばき隊の中心人物」でもなんでもなかったのだ。

「しばき隊やC.R.A.Cを結成した野間(易通)さんとは昔からの個人的な友人ではあったんですが、しばき隊に入ろうとは思わなかった。一度、メンバーには誘われたけどお断りしたんですね。何か手伝えることがあれば野間さんが個人的に言ってください、と。カウンターには一人で行って一人で帰る感じ。僕はANTIFA(アンチファシズム運動)や東京給水クルー(安保法制反対デモでのプロテスターへの給水支援活動)を軸足にしてきたので、『メンバー』と言われるならそっちだと思います。だから報道で『しばき隊の中心メンバー逮捕』みたいになっているのを知ったときは、ちょっと苦笑いというか。ああ、公安はそう見せたいんだなと」
(Mさん)

 いかに公安が無能集団かがよくわかるというものだが、この“誤認逮捕”が「レイシストをしばき隊」や「C.R.A.C」をターゲットにしたものであることは、Mさんが警視庁で受けた取り調べ内容からもはっきりする。
 警察は「車庫飛ばし」の容疑とは無関係のことを根掘り葉掘り聞いてきたのだ。

「警察側に元からある程度の台本があって、文書を読みあげながら僕に『そうですよね』と同意をとろうとするんですが、その冒頭に『私は右派系団体に抗議する運動に参加しており、車両はその運動のために所有使用〜』みたいなことが書いてありました。いや、それは違うだろうと否定しましたけど、ようは、最初から決めつけられていたんです。さらに調書の読み上げと確認が終わると、警察は『カウンターとは組織なのか』と尋問してきました。『誰が主催しているのか』『何人くらいいるのか』『事務所はあるのか』『カウンターの上部構造にはどの政党がついているのか』と立て続けに聞いてくる。SNSを見て個人で参加したと言っても、まったく理解できないような顔をするんです」
(Mさん)

 このとき、自身の逮捕が公安マターの弾圧であることを確信したという。
 警察の取り調べからはツイッターのアカウントが細かく監視されていることもうかがえた。

「いずれにしても、車庫飛ばしの容疑とはまったく関係のない尋問ですよね。よくわかりました。公安は、カウンターを政治的な『組織』だと思い込んでいて、彼らの本命は、そのありもしない『組織』の構造や人脈、金の流れを探ることだったのだと」
(Mさん)

逮捕は「1・12安倍政権批判デモ」でサウンドカーの運転手として届け出ていたからか

 こうした公安のやり口は、完全に違法な別件逮捕のそれだ。
 しかし、なぜ「レイシストをしばき隊」や「C.R.A.C」のメンバーではないMさんを、その「中心人物」とみなして“微罪逮捕”するという、悪質かつ杜撰なことを公安はしたのか。

 Mさんは「車庫飛ばし」の疑いをかけられたワゴン車を仕事や日常生活で使っていた。
 安保法制デモでの給水支援等でもこのワゴン車を使用していたという。
 昨年2019年7月20日には、東京・JR秋葉原駅前で演説する安倍首相に対し、多くの市民から「安倍やめろ!」と声があがった。
 この日もMさんはワゴン車で抗議用の資材を運搬している。
 周囲には多くの公安が待ち構え、抗議する市民を撮影するなど監視体制を敷いていた。
 Mさんも「自分が警察から観察されているのは気づいていました」と証言するように、こうしたデモや抗議運動のなかで公安がワゴン車をマークし、「車庫飛ばし」という「別件」での“微罪逮捕”で狙い撃ちしたのではないか。

 そしてもうひとつ。
 前述のとおり、今月1月12日には新宿で“安倍政権批判”の大規模市民デモが行われたが、実は、Mさんはこのデモに参加する予定だった。
 事実、今月6日にはサウンドカーのドライバーとして東京都公安委員会に申請している。
 警視庁公安部も当然、Mさんがドライバーという役割でデモに参加することを知る立場にあったはずだ。
 Mさんの逮捕がデモの3日前だったというタイミングを踏まえれば、公安が安倍政権批判デモに“運転手不在”というダメージを与えるとともに、参加者を動揺・萎縮させる狙いもあったと考えるのが自然だろう。

「車の車種とかナンバーとかの情報は役所に登録されていても、その車がデモの現場にいたというような情報は公安でないと知り得ません。やっぱり、人の思想信条は心の内側の話ですけど、車みたいなモノは外から把握しやすいからこそ、僕のワゴンもマークされ、弾圧に利用されたのだと思っています。実相としては、SNSをベースにした個人的な参加だったり、単なる昔からの友だちだったりという繋がりでも、公安は無理やり『組織』みたいなものに仕立て上げる。僕に警察署で尋問したように、公安はモノがあるということはお金があり、政党なんかが背景にいると考える。そこから『組織』みたいなものを勝手に組み立てて、国の機関の管理下に置き、自由に政権批判やデモをさせないようにしたいのでしょう。それは強く感じました」
(Mさん)

 本サイトにそう語るMさん。
 押収されたパソコンはいまだ手元に戻ってこないという。
 違法な別件逮捕としか言いようのない取り調べが行われたことからしても、今回の警視庁公安部による“微罪逮捕”がいかに無茶苦茶なものであったかが明らかになっただろう。

 Mさんに起きたことは、決して他人事ではない。
 何度でも言うが、公安をはじめとする警察組織はいま、どんどん“安倍首相の私兵”のような性格を強めている。
 政権への抗議デモに参加したり、SNSで政権批判の声をあげただけで、当局から取り締まりの候補にされてしまうのだ。

 しかし、だからといって萎縮してしまえば、それこそ安倍政権の思う壺だ。
 ひとりひとりが声を大にして、おかしいものはおかしいと言う。
 そして、当局の虚偽宣伝に乗っかってフェイクを垂れ流したマスコミを強く批判し、目を覚めさせる必要がある。
 でなければ、同じような警察権の悪用が何度でも繰り返されてしまうからだ。

 これ以上、安倍首相に権力を私物化させてはならない。

[写真]
昨年2019年7月20日、秋葉原で応援演説をする安倍首相

リテラ、2020.01.15 07:59
警視庁公安部が「しばき隊」と誤認・微罪逮捕した男性が明かす取り調べの中身!
「どの政党がついているのかと尋問され…」

https://lite-ra.com/2020/01/post-5207.html

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家宅捜索は”忖度”捜索になるのか

 2020年1月15日、河井克行前法相と妻の案里参院議員の地元事務所を広島地検が家宅捜索した。
 週刊文春が報じた、昨年7月の参院選でウグイス嬢に違法な報酬を支払っていたとされる公選法違反疑惑をめぐっての強制捜査だ。
 ところが、週刊文春取材班は事前に気になる情報を得ていた――。

◆ ◆ ◆

「しっかり対処してまいりたいと思っています。今後ともよろしくお願いします」いつになく殊勝な態度で、こんな電話をかけているのは河井克行前法相(56)。
 2019年10月31日に辞任して以降、国会にも一切出ず、妻で参院議員の案里氏(46)とともに雲隠れを続けているが、実際は、地元議員らにお詫び電話を重ね、再起の道を探っているのだとか。

2ヶ月経っても果たされぬ説明責任

 法相辞任のきっかけは、小誌が報じた〈法務大臣夫婦のウグイス嬢「違法買収」〉(2019年11月7日号)。7月の参院選で、案里氏の事務所がウグイス嬢13人に対し、法定上限額(日当1万5000円)の2倍にあたる日当3万円を支払っていたというものだ。すると発売日の朝、選挙戦を事実上取り仕切っていた克行氏は、法相を辞任。「私も妻も与り知らない話。しっかり調査して、説明責任を果たしていきたい」と語った。

 ところがあれから2カ月が経っても、説明責任は一切果たされていない。克行氏の知人が近況を明かす。

「克行氏は、これまで仲のよかった記者たちからのメールやラインも既読スルー。どこから情報が漏れるか分からず、疑心暗鬼なのでしょう。奥さんは『適応障害』の診断書を12月に提出しましたが、克行氏本人はいたって元気です。でも、捜査の見通しが立たない状況では説明できないので表に出てこれない。ただし、本心では、『案里は議員辞職を免れなくても、自分は大丈夫』と克行氏は踏んでいる。早ければ来年(2020年)にも行われる総選挙のことも考え、1月下旬からの通常国会には復帰したい意向です」

 11月末頃からは、地元広島の事務所スタッフが党員集めなどの電話をかけ始め、克行氏自身も冒頭のようにお詫びの連絡をしているが、どこにいるのか、その姿は地元記者らにも一切確認されていない。
 報道当時に取材したウグイス嬢の1人を訪ねると、夫が暗い顔でこう答えた。

克行氏はどこまで具体的に関与していたのか

「河井夫婦はもちろん、事務所からも何も連絡ないですよ。こっちは頼まれて仕事をしただけで迷惑をしている。一言あってもいいと思いますけどね。あれは事務所の問題でしょ。(捜査当局の要請があれば)妻は事実を話すと思います」

 すでに大学教授や市民団体らが、河井夫妻や、違法な支払いの指示役と見られる案里氏の公設秘書・立道浩氏を広島地検に刑事告発している。

「臨時国会が閉じた頃から、地検は関係先への事情聴取を始めています。すでにウグイス嬢に日当3万円を支払ったことを示す“裏帳簿”なども入手済み。最大の焦点は、克行氏がどこまで具体的に関与していたか。本格的な捜査はこれからです」
(捜査関係者)

 一方で、こんな意味深長な話も出てきた。

大量の書類をシュレッダーに

「克行事務所は、文春の取材を受けた後、大量の書類をシュレッダーにかけて捨てたり、パソコンを処分したりしています。捜査されたら困るものが一杯あったんじゃないか、と言われています」
(後援会関係者)

 すわ証拠隠滅の疑いか?
 克行氏の事務所に尋ねると、「事務所の引越しを10月28日から行いました。その際、引越しに伴うゴミが大量に出ました」と書面で回答があった。

 先の参院選で同じ自民党ながら「仁義なき戦い」を繰り広げ敗れた溝手顕正元参院会長を直撃すると、「私は敗軍の将だから何も語ることはない」と言いつつも、「(2人とも)宇宙人だから。世の中に住んでいる者としてはコメントする余地がない。火星人がどうしているかなんて分からない」と語った。
 宇宙人でも火星人でもいいから、有権者への説明責任を果たしてほしい。

※ 週刊文春 2020年1月2・9日号


[写真-1]
再起の道を探る克行氏

[写真-2]
県議時代、政治資金を巡る疑惑で知事(当時)に辞職を迫っていた案里氏

文春オンライン、2020/01/15
ついに強制捜査
河井克行前法相夫妻が大量の書類を捨てていた!

https://bunshun.jp/articles/-/24444

 昨年2019年7月の参院選で、選挙スタッフに上限を超える報酬を支払った公選法違反の疑いがあるとして、2020年1月15日、広島地検の家宅捜索を受けた自民党の河井案里参院議員と夫の河井克行前法相。
 立憲民主党など野党国対委員長は16日の会談で、2人に対し、衆参両院政治倫理審査会で説明するように求める方針で一致した。

「説明になっていない単なるおわび会見だ」

 立憲民主党の安住国対委員長が強い憤りを隠せなかったのが、議員宿舎で記者団の取材に応じた2人の質疑応答だ。
 疑惑発覚以来、2人はそろって国会を欠席。
 この間、歳費や文書通信交通滞在費、期末手当などで総額1400万円余りが支払われていたことに対し、国民の怒りは頂点に達しつつある。
 ところが、案里氏は「捜査に全面的に協力する」と言うばかりで詳しい説明は一切せず。
 議員辞職や離党についても「そのような考えはない」と語っていた。

 だが、案里氏は広島県議だった2006年12月の定例会で、当時の藤田雄山知事の後援会をめぐる問題を追及した際、こう迫っていた。

この1年、知事の後援会のお金の問題に、議会はかかりきりでした。知事は、現在、辞職する意思はないとはっきりおっしゃっておられます。それでは、あなたが健全な民主主義のもとで公明正大に選ばれたのだという証明は、どのようになさるのでしょうか、教えてください。政治家の出処進退ですから、私から知事に辞職してくださいとは言いません。でも、私なら、もう辞めています。なぜなら、それが政治家の良心ではないかと思うからです。
 真実を明らかにするか、それが無理なら出直し選挙か、この場合の政治家の責任のとり方は、多分そのどちらかしかないのです。自分は最大限に事実解明の努力をしたのだと言ってみせても、政治家にとって結果がすべてだということは、本当は知事が一番よく御存じのはずです。政治家として、名に恥じない御決断をしていただきたい、これが、広島県の象徴として、あなたをリーダーにいただく私たち広島県民の願いです


 同じ年2006年3月の予算特別委でもこう発言している。

知事は、今4期目でございますので、つまり、これまで3期分の退職金をもらわれていますね。その額は、1億円以上に上ります。それほどの退職金を受けた方からすれば、7000万円の使途不明金、裏金疑惑は大きな問題ではないかもしれない。でも、県民は許すでしょうか(略)私が一言申し上げるとするならば、知事、男らしくなさいよ。私が、もし広島県知事でしたら、恐らく辞職をしています。男らしくしなさい、これだけです

 過去の発言と今の政治姿勢はまったく真逆だが、国民もかつての案里氏と同様にこう言いたいはずだ。

これまでの歳費を国庫に返納し、夫婦そろって早く辞めなさい


[写真]
河井案里参院議員

日刊ゲンダイ、2020/01/16 16:00
「私なら辞める」
河井案里議員は自分の発言を忘れたのか?

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/267693/

「刑事事件として捜査が始まっているので、差し控える」──。

 公職選挙法違反疑惑が浮上して約2カ月半。昨日15日に広島地検がようやく河井克行・前法相と、妻で参院議員の河井案里氏の事務所に家宅捜索に入ったことから、昨晩、ふたりが別々にメディアの前に姿を現したが、飛び出した発言は説明責任からは程遠いものばかりだった。
 事の発端は、10月31日発売の「週刊文春」(文藝春秋)のスクープだった。
 昨年7月におこなわれた参院選で案里氏が広島選挙区から出馬、夫の克行氏が選挙を取り仕切り当選を果たしたが、記事ではこの選挙戦において案里氏の陣営が車上運動員、いわゆるウグイス嬢に対して法定上限額である日当1万5000円を超える3万円を支払っていたと報道。
 運動員の買収行為は公選法で禁止されており、3年以下の懲役または50万円以下の罰金が科される。
 また、候補者本人が直接関与していなくても候補者の秘書や出納責任者、親族といった一定の関係者の刑が確定し「連座制」が適用されれば、当選は無効になる。
 そして、ついに昨日、広島地検が強制捜査に乗り出したわけだが、それを受けて報道陣の取材に応じた河井前法相は、冒頭でも紹介したように捜査を理由に具体的なことは何ひとつ語らず。案里氏にいたっては「捜査機関に対して全面的に協力しながら、洗いざらい調べていただき、真実を明らかにしていただきたい」と他人の疑惑のように話し、自民党からの離党や議員辞職を否定。
「国会議員をつづけるのはなぜか」という質問には、「日本を変えたいから」と言い出す始末だった。

 公選法違反が取り沙汰されて捜査まで入っている状況で、「日本を変えたい」って……。

 しかも、昨晩のこの取材も、河井前法相が幹事社に連絡したのは、なんと開始35分前。
 安倍首相も「桜を見る会」問題でぶら下がり取材に応じると直前に連絡して記者が大慌てになったが、河井前法相も同じ手を使ったのだ。
 これまで説明責任も果たさず雲隠れしておきながら、この態度。
 さすがにワイドショーもきょうは河井夫妻の話題を取り上げたが、問題は捜査の行方だ。

 すでに昨年末には、河井前法相の選挙でも同じように車上運動員の報酬が「1日3万円」で常態化していたと複数の関係者が証言しており(中国新聞デジタル2019年12月30日付)、さらに〈案里氏が支部長を務める自民党支部が、陣営の一員として選挙運動をした男性会社員に対し、約86万円を支払った疑惑〉も浮上(共同通信2019年12月29日付)。
 このように疑惑が広がりを見せているだけではなく、そもそも河井氏は前法務大臣であり、これで手ぬるい結果となれば世論の反発も起きやすい。
 そのため検察側もある程度覚悟をもって捜査に乗り出したのではないかと見られている。

 そしてもうひとつ、忘れてはならないのは、疑惑の焦点となっている案里氏の昨年の参院選は、安倍首相・菅義偉官房長官という政権の2トップが並々ならぬ力を注いで案里氏を当選させた選挙だった、ということだ。

 メディアでは河井前法相が菅官房長官の側近であったことから法相辞任時には「“ポスト安倍”の菅官房長官にも影響か」などと報じ、今回の強制捜査も一部では「カジノ汚職とともに“ポスト安倍”の菅官房長官を陥れるためのもの」などと陰謀論をぶつ向きもあったり、やたら“菅人脈”が強調されている。

 しかし、河井前法相は菅官房長官だけではなく、というより、それ以上に安倍首相とも密接な関係を築いてきた人物だ。
 現に、河井氏は総裁外交特別補佐を務め、2016年に米大統領選後はトランプが当選すると就任前に河井氏に渡米して地ならしすることを指示。
 トランプタワーでの安倍・トランプ初会談にも同行するなど、安倍首相は河井氏を買っていたのである。

参院選に河井案里を出馬させ、応援演説、自分の秘書を選対に送り込んだ安倍

  さらに、参院選で河井氏の妻・案里氏が広島選挙区から出馬したのも、安倍首相にとって目障りだった自民党の重鎮・溝手顕正氏を蹴落とすための“刺客”としてだった。

 というのも、広島選挙区選出の溝手氏は第一次政権時の2007年参院選で自民が大敗した際、安倍首相の責任に言及し、さらに下野時代には安倍氏を「過去の人」と発言した人物。
 昨年2019年の参院選で、自民は表向き“2人区で2人擁立して票を上積みする”としていたが、実際には安倍首相が溝手落としのために子飼いである河井氏の妻を新人として立たせたのだ。

 この事態にもっとも焦ったのは“ポスト安倍”の最有力候補である岸田文雄・自民党政調会長だ。
 広島は岸田氏の地元であり、岸田派の溝手氏は“岸田の腹心”とまで呼ばれる存在だった。
 そのため、参院選公示の約1ヶ月前には岸田氏はわざわざ安倍首相の私邸に赴いて溝手氏の地盤の切り崩しをしないでほしいと頼み込んだというが(「週刊文春」2019年8月29日号)、それでも安倍首相は案里氏の全面支援に回り、自ら案里氏の応援に駆けつけるだけではなく、秘書を広島の案里氏の選対にまで送り込んだのだった。

 安倍首相は岸田氏を傀儡にして次期政権でも権力を維持しようとしているという見立てもあるが、その岸田氏の懇願も無視して、溝手氏への私怨を晴らすために力を注ぐ──。
 これは安倍首相の本質を端的にあらわすエピソードとも言えるが、ともかく、そうした安倍官邸が主導していた選挙で運動員買収が繰り広げられていたのである。
 しかも、河井氏が法務大臣に引き立てられたのも、これらの安倍首相のための働きが認められてのことだ。


 ようするに、安倍首相が河井氏を法相に任命した「責任」は相当に重いものであり、秘書を選対に送り込んでいた安倍首相が公選法違反が疑われる選挙戦の実態に目をつぶっていた可能性すらあるのだ。

 来週からはじまる通常国会では、再び安倍首相の任命責任に対する追及がおこなわれることになるだろうが、「桜を見る会」問題やカジノ汚職も含め、安倍政権の実態を徹底的にあぶり出さなくてはならない。


リテラ、2020.01.16 11:04
強制捜査受けた河井前法相と案里議員は菅官房長官以上に安倍首相のお気に入りだった!
トランプ会談に同行、安倍秘書が選対に

https://lite-ra.com/2020/01/post-5209.html

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2020年01月16日

先進国で唯一、20年間も経済成長をしていないのは日本だけなのに逆ギレ

【ニューヨーク=赤川肇】国際人権非政府組織(NGO)のヒューマン・ライツ・ウオッチ(HRW、米ニューヨーク)は2020年1月14日、世界各国の人権問題をまとめた年次報告を公表した。
 日本については、日産自動車前会長カルロス・ゴーン被告(65)の事件で国際的に注目された「人質司法」とも呼ばれる刑事手続きの課題などを取り上げた。

 報告では、人質司法を「自白を強いるために容疑者を長期間、厳しい環境下で勾留する」と、容疑者を逮捕から最長23日間拘束し、取り調べの際に弁護士の同席を認めていない現状に触れた。
 逮捕から108日後に保釈が認められたゴーン被告については「他の類似事件より早く、明らかに国際的な批判を受けたためだ」との見方を示した。

 ニューヨークの国連本部で記者会見したHRWのケネス・ロス代表は「逃亡を擁護するつもりはないが、ゴーン事件は日本の刑事司法が容疑者に自白させるために強いる大きな圧力を示した。司法制度ではなく、自白制度だ」と批判した。

 日本についてはベトナムやカンボジアの人権問題、ミャンマーで迫害を受けたイスラム教徒少数民族ロヒンギャの問題に対する消極的な姿勢も指摘している。

 このほか報告は「世界の人権に対する中国の脅威」を特集。
 中国政府による少数民族ウイグル族の弾圧などを例に、習近平国家主席らが体制を維持する上で人権を「脅威」と見なして抑圧や監視を強めていると指摘。
「中国は単なる新興大国ではなく、国際人権制度を脅かす存在だ」と警鐘を鳴らしている。


[写真]
14日、米ニューヨークの国連本部で記者会見するヒューマン・ライツ・ウオッチのケネス・ロス代表

東京新聞・夕刊、2020年1月15日
国際人権団体
日本司法は「自白制度」
ゴーン被告巡り

https://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/202001/CK2020011502000275.html

日本から逃亡してレバノンで記者会見を開いたゴーン氏に対して、森雅子法務大臣が放った一言が、国際社会で「日本の司法制度の欠点を表している」と物議を醸している。
この一言で、日本 VS ゴーンの第1ラウンドは、「日本の惨敗」が決定的となった。

森法相の「失言」に日本の司法の本質が出ている


 世界が注目した日本 VS カルロス・ゴーン。
 その第1ラウンドは完全にこちらの「惨敗」のようだ。

 メディアの注目がマネロン疑惑へ向かわぬよう、日本の司法制度をこれでもかとディスった“ゴーン劇場”。
 それを受けて、珍しく迅速にカウンターを打った日本政府だったが、森雅子法務大臣がドヤ顔で「ゴーン被告は司法の場で無罪を証明すべきだ」と口走ったことが、国際社会をドン引きさせてしまったのである。

 逃亡を許した途端、大慌てでキャロル夫人を国際手配したことで、全世界に「へえ、やっぱ日本の捜査機関は好きな時に好きな罪状をつくれるんだ」と印象付けたことに続いて、ゴーン氏のジャパンバッシングにも一理あると思わせてしまう「大失言」といえよう。

 実際、森法相が「無罪の主張と言うところを証明と間違えた」と訂正をしたことに対して、ゴーン氏の代理人がこんな皮肉たっぷりな声明を出している。

「有罪を証明するのは検察であり、無罪を証明するのは被告ではない。ただ、あなたの国の司法制度はこうした原則を無視しているのだから、あなたが間違えたのは理解できる」
(毎日新聞1月11日)

 つまり、ゴーン陣営が国際世論に対して仕掛けた「日本の司法制度はうさんくさい = ゴーン氏にかけられた疑いもうさんくさい」という印象操作に、まんまと日本側が放った「反論」も一役買ってしまっているのだ。

 と聞くと、「ちょっとした言い間違いで日本を貶めやがって!」と怒りで我を忘れそうな方も多いかもしれないが、ゴーン氏の代理人の指摘はかなり本質をついている。

 ほとんどの日本人は口に出さないが、捜査機関に逮捕された時点で「罪人」とみなす。
 そして、そのような人が無罪を主張しても、「だったら納得できる証拠を出してみろよ」くらい否定的に受け取る傾向があるのだ。

 森法相も同様で、あの発言は言い間違えではない。
 もともと弁護士として立派な経歴をお持ちなので当然、「推定無罪の原則」も頭ではわかっている。
 しかし、世論を伺う政治家という職業を長く続けてきたせいで、大衆が抱くゴーン氏への怒りを忖度し、それをうっかり代弁してしまったのだ。

 なぜそんなことが断言できるのかというと、我々が骨の髄まで「推定有罪の原則」が叩き込まれている証は、日本社会の中に山ほど転がっているからだ。

「被疑者が無罪を証明すべき」
ズレている日本の感覚


 例えば、森法相が生きる政治の世界では2010年、小沢一郎氏にゴーン氏のような「疑惑」がかけられた。
 マスコミは、起訴もされていない小沢氏周辺のカネの流れを取り上げ、逮捕は秒読みだとか、特捜部の本丸はなんちゃらだとお祭り騒ぎになった。
 いわゆる陸山会事件だ。

 では当時、日本社会は「疑惑の人」となった小沢氏にどんな言葉をかけていたのか。
 民主党のさる県連幹事長はこう述べている。

「起訴されれば無罪を証明すべきだ」
(朝日新聞2010年4月28日)

 ワイドショーのコメンテーターたちも、渋い顔をして似たようことを述べていた。
 新橋のガード下のサラリーマンも、井戸端会議の奥様たちも同様で、日本中で「小沢氏は裁判で無罪を証明すべき」のシュプレヒコールをあげていた。

 日本人としては認めたくないだろうが、この件に関して国際社会の感覚からズレているのは、ゴーン氏の代理人ではなく、我々の方なのだ。

「図星」であることを指摘されてムキになって正当化することほど見苦しいものはない、というのは世界共通の感覚だ。
 つまり、「被告人は無罪を証明すべき」という言葉をあれやこれやと取り繕ったり、誤魔化したりすればするほど、「うわっ、必死すぎて引くわ」と国際社会に冷ややかな目で見られ、ゴーン陣営の思うツボになってしまうのである。

「テキトーなことを言うな!世界中から尊敬される日本がそんな嘲笑されるわけないだろ!」という声が聞こえてきそうだが、「愛国」のバイアスがかかった日本のマスコミがあまり報じないだけで、この分野に関してはすでに日本はかなりヤバイ国扱いされているのだ。

 2013年5月、スイス・ジュネーブで、国連の拷問禁止委員会の審査会が開かれた。
 これは残酷で非人道的な刑罰を禁じる「拷問等禁止条約」が、きちんと守られているかどうかを調べる国際人権機関なのだが、その席上でアフリカのモーリシャスのドマー委員がこんな苦言を呈した。

「日本は自白に頼りすぎではないか。これは中世の名残だ」

 アフリカの人間に、日本の何がわかると不愉快になる人も多いだろうが、この指摘は非常に的を射ている。
 足利事件、袴田事件、布川事件などなど、ほとんどの冤罪は、捜査機関の自白強要によって引き起こされている。

痛いところを突かれて逆ギレする

 それは遠い昔のことで今はそんな酷いことはない、とか言い訳をする人もいるが、2012年のPC遠隔操作事件で、無実の罪で逮捕され、後に警察から謝罪された19歳の大学生も、取調室で捜査官から「無罪を証明してみろ」(朝日新聞2012年12月15日)と迫られたと証言している。

 この自白偏重文化が中世の名残であるということは、そこからやや進んだ江戸時代の司法を見れば明らかだ。
 死罪に値するような重罪の場合、証拠がいかに明白だろうと自白を必要とした、と記録にある。
 さらに、自白をしない被疑者に対しては「申しあげろ。申しあげろ」とむち打ち、えび責めなどの拷問で強要した、という感じで、罪を告白するまで100日でも自由を奪う「人質司法」のルーツを見ることもできる。

 罪を吐くまで追い込むので当然、現代日本のような冤罪も量産される。
 名奉行で知られる大岡越前は、徳川吉宗にこれまで何人殺したかと聞かれ、冤罪で2人を死刑にしたと告白している。

 話を戻そう。
 ゴーン氏の代理人同様に、鋭い指摘をするドマー委員に対して、日本の代表として参加した外務省の上田秀明・人権人道大使は「この分野では、最も先進的な国のひとつだ」と返したが、日本の悪名高い人質司法などは、参加者たちの間では常識となっているので、思わず失笑が漏れた。
 すると、上田大使はこのようにキレたという。

「Don't Laugh! Why you are laughing? Shut up! Shut up!」
(笑うな。なぜ笑っているんだ。黙れ!黙れ!)

 昔から日本は、海外から痛いところを突かれると逆ギレして、とにかく日本は海外とは事情は違うという結論に持っていって、変わることを頑なに拒んできた。

 このままやったら戦争に負けて多くの国民が死にますよ、という指摘があっても、この国は世界の中でも特別な「神の国」だと、頑なに耳を塞いだ結果、凄まじい悲劇を招いた。

 先進国で唯一、20年間も経済成長をしていないのは日本だけなので、異様に低い賃金を引き上げて生産性を向上させていくしかない、と指摘をされても、日本の生産性が低いのは、日本人がよその国よりもサービスや品質にこだわるからだ、ちっとも悪いことではない、などというウルトラC的な自己正当化をしている。


 筆者が生業とするリスクコミュニケーションの世界では、「図星」の指摘に対して、逆ギレ気味に自己正当化に走るというのは、事態を悪化させて新たな「敵」をつくるだけなので、絶対にやってはいけない「悪手」とされる。

国際人権団体も日本の司法を批判

 しかし、今回も日本はやってしまった。
 国内的には、森法相や東京地検の反論で溜飲の下がった日本人も少なくないかもしれないが、国際社会ではかなりヘタを打ってしまったと言わざるを得ない。

 それを如実に示すのが、ニューヨークの国連本部で14日に催された、国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチの記者会見だ。
 ケネス・ロス代表はゴーン氏が「取り調べに弁護士が立ち会えなかった」と批判していることに対して、以下のように述べた。

「日本の刑事司法制度が容疑者から自白を得るために課した巨大な圧力を物語っている」

「司法制度ではなく、自白(強要)制度だ」
(時事通信1月15日)

 慰安婦問題や徴用工問題なども然りだが、日本政府は「人権問題」の対応がうまくない。
 人権という多様な価値観が衝突するテーマであるにも関わらず、「日本は正しい」というところからしか物事を考えることができないので、傲慢かつ独善的な主張や対応になることが多い。
 そのゴリ押しが裏目に出て、揚げ足を取られ、オウンゴールになってしまっているのだ。

 これは一般社会などでもそうだが、「オレ様は絶対に間違っていない」と自己主張するだけの者は、次第に誰からも相手にされなくなる。
 その逆に、厳しい指摘や批判にもしっかりと耳を傾けるような真摯な姿勢の人は、周囲から信頼される。

 日本の司法制度や懲罰主義は、国際社会から見るとかなりヤバい。
――。
 ゴーン氏側のジャパンバッシングを迎え撃つためにも、まずはこの厳しい現実を受け入れることから始めるべきではないか。


[写真]
ゴーン VS 日本の第1ラウンドは完全に日本の負け。それを決定付けたのは、なんと法務大臣の「大失言」だった

Diamond Online、2020.1.16 5:35
ゴーンに惨敗した日本、森法相の大失言が世界に印象付けた「自白強要文化」
(ノンフィクションライター 窪田順生)
https://diamond.jp/articles/amp/225890

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白神ゆりこ「八王子を変えなければいけない」

 2020年度に始まる大学入学共通テストでの英語民間試験の活用見送りなどを受け、文部科学省が新設した大学入試のあり方に関する検討会議が15日、初会合を終えた。
 英語入試の方法についてこれまでの議論を生かすのか白紙にするのかなど、委員の間で基本的な認識のズレも見られた。
 検討期間は1年で、広く納得感を得られる議論になるかは不透明だ。

 共通テストでは英語4技能(読む・聞く・書く・話す)を測るために英語民間試験を活用し、思考力や表現力を伸ばすために国語と数学に記述式問題を導入する計画だったが、両方見送られた。
 
 改革は13年の政府の教育再生実行会議の提言以来、検討が重ねられてきた。
 委員間ではこうした議論全てを白紙に戻すかどうかで食い違いがあった。

 会合の冒頭、萩生田光一文科相は「4技能を入試で適切に評価することは重要だ」と発言。
 これを受けた議論では、日本大教授の末冨芳委員が座長の三島良直氏(東京工業大元学長)に「英語民間試験、記述式、4技能ともに原点からの再検討と聞いている」と確認。
 三島氏は「それで結構です」と応じた。

 末冨委員以外にも4技能を共通テストや大学の個別試験で測るかどうかを含め、白紙から検討すると捉えている委員はいる。
「4技能は本来、高校の授業で扱っていくべきだ」(全国高等学校長協会会長の萩原聡委員)との声も上がった。

 一方、日本私立中学高等学校連合会会長の吉田晋委員は「教育再生実行会議の提言で英語4技能試験も記述式問題も決まってきた。全部戻すのか」と反発した。

 記述式問題は個別試験を含む入試全体で拡充を検討した方がよいとの意見が複数挙がった。

 大学入試センター試験に代わる共通テストは「知識偏重」などと批判される高校教育、大学教育、大学入試を一体で改革する「高大接続改革」の柱だ。
 入試を変えることで高校、大学の教育を変える同改革の理念についても議論となり、東京大准教授の両角亜希子委員は「発想自体がおかしい。教育の課題は教育の現場で解決すべきだ」と批判した。
 一方で理念を一定評価する声もあった。

 家庭の経済状況や居住地による受験機会の格差の解消を重視する意見は多くの委員から出た。

 検討会議は2回目は2月7日に開かれる予定で、主に民間試験活用などが決まった経緯を検証する。
 初会合でも「見送りになった原因を究明し、再発を防止する必要がある」など、検証の徹底を求める声が相次いだ。


「図」
大学入試検討会議で出た意見

[写真]
大学入試のあり方に関する検討会議であいさつする萩生田文科相(中央)=15日、文科省

日本経済新聞、2020/1/16 2:00
大学入試検討会議初会合
英語4技能など認識にズレ

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO54438500V10C20A1CR8000/

 暗黒が支配する東京・八王子市の市長選挙が19日、告示される。
 同市は安倍首相の側近中の側近である萩生田光一文相の城下町だ。

 萩生田大臣の後援会幹部の会長を務めるビルメンテナンス会社A社の社員が、知人を殴り殺す事件が起きた。2014年のことだ。
 殺人事件の現場は市営プール。
 にもかかわらず、八王子市は請負業務に関わるA社の指名停止期間をわずか3ヶ月とした。
 市の幹部は短かすぎる処分に怒ったが、A社の会長と萩生田氏が親しい関係にあることは有名だったため、追及されることはなかった。
(以上、週刊朝日2019年12月27日号より)

 石森孝志・八王子市長は、萩生田氏の腹心。
 城代家老である。議会は圧倒的な自公支配だ。 

 八王子市は国政の縮図と言ってよい。
 安倍首相とその周辺がどんな違法行為を犯しても罪に問われないように、萩生田氏周辺の責任が問われることはない。
 八王子市で権力者に絡んだ凶悪事件が起きても警察は本気で動かないだろう。「詩織さん事件」がそうであったように。
 萩生田独裁の小国家で、間違っていることは間違っていると声に出して言える数少ない機会が、市長選挙だ。

 3選を目指す城代家老の石森市長の前に立ちはだかったのは、白神(しらが)ゆりこ候補予定者=弁護士・36歳=だ。

 法の支配が崩れた地で法律家が立ち上がったのである。
 田中が「大変な覚悟が要ったのではないですか?」と問うと、白神候補予定者は次のように答えた―

昔、治安維持法の改悪に反対して答弁する前に殺されてしまった山本宣治(1889 - 1929)という国会議員がいて、(殺される前に)『山宣ひとり孤塁を守る、だが僕は淋しくない。背後には多くの民衆が支持しているからだ』と言ったんです。
 同じです。こういう闇に立ち向かうのは私一人。けれども背後にこれだけの共感者がいて一緒に市政を変えたいという仲間がいます。心細くない


 気になる選挙戦だが、現時点ではっきりしているのは、共産党と立憲Bなどが白神候補予定者を推す。
 八王子の立憲民主党にはA勢力とB勢力がある。
 Aは市長派。Bは是々非々で市政に臨む。立憲Aの動きはまだ定かではない。


[写真-1]
事務所開きで挨拶する白神ゆりこ候補予定者。=11日、八王子市

[写真-2]
前回の市長選挙。萩生田官房副長官(当時・マイク持つ)と2期目を目指す現職の石森市長。=2016年、八王子市

[写真-3]
「八王子を変えなければいけない」。白神候補予定者と危機感を共有する人々が応援に駆けつけた。=11日、八王子市

田中龍作ジャーナル、2020年1月11日 18:27
萩生田独裁の城下町で、法の支配訴え立ち上がった女性弁護士
https://tanakaryusaku.jp/2020/01/00021762

「困っている」を見捨てない、きめ細かなケア

 高齢者がいきいきと住み続けられる住まいやケア、障がいがあってもなくても、地域で安心してくらせる支援体制を整備します。
 ひとり親ホームヘルプサービス事業を充実します。

子どもや若者が夢を持てるまち

 保育園・学童保育所の待機児童解消とともに保育の質、環境を向上。就学援助基準の緩和・増額。出産から子育てのさまざまな時期に応じたサポートを強化します。

安全・安心・快適−人にやさしいまちづくり

 震災や原発事故・急激な気象変化などに学び、市内の減災対策をすすめます。
 防災に福祉・環境・女性の視点を入れます。
 生活する人の目線で交通計画を見直し、不便解消に努めます。

市民とともにすすめるまちづくり−対話と共同で

 だれもが気軽に市長と対話ができる仕組みをつくり、市長室を開放します。
 住民投票を含む自治基本条例を市民参加で制定。地域の市民事業、多様な人が集える居場所づくりを応援!

豊かな緑と環境を守り活かす、環境先進都市へ

 原発に依存しない再生可能エネルギーの普及など、地球的課題に応える持続可能なまちづくりを八王子からリードします。
 川口物流拠点整備は中止を含めて見直し、貴重な自然を残します。

中小企業と個店、農業がかがやく、産業のまちに

 個店の魅力を引き出し、市内事業者の仕事おこしを支えます。
 空き家活用の仕組みづくり、公契約条例の制定、農家支援・担い手育成など、地域の産業振興と働く人の待遇改善をはかります。

のびのび学べるゆたかな教育・文化のまちづくり

 障害があっても共に学べる学校、図書館、市民スポーツなどの環境整備、伝統芸能などの継承、学術と文化を育て発展させる取り組みをすすめます。
 安全、安心で温かい中学校給食を実現します。

平和・人権−憲法を市政に活かします

 自治体には市民のいのちとくらしを守る責務があります。
「安保法」の廃止をめざし、平和と人権を尊重した、多文化共生の国際平和都市・八王子をつくります。


「弁護士の白神ゆりこ」公式サイト
八王子八策
https://sirayuri.waterblue.net/

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2020年01月15日

崔承喜「伊太利の庭」

イタリーの庭 歌詞

作詞:南谷寝二
作曲:Ralph Erioin・Beda

恋の甘い吐息
夜の庭にもえる
夢の調べ 踊るタンゴ
月青く 影が揺れる
足もとに 秘めやかにアー

想い出の イタリー
庭にひらく 恋の
白い花の ドレスが舞う
月に濡れ 露がひかる
まなざしに秘めやかにアー


 おまけのけ
 映画上演前に館内に流れていた曲が、どこか懐かしい調べで。。。
 映画の中でも使われていた『イタリアの庭』というタンゴだったのですが、映画の歌声と、館内に流れていた歌声とははちょっと違うようでもあり、、、ネットで探してみました。

 YouTubeでヒットしたのは、
☆ 淡谷のり子さんの「イタリアの庭」バージョンと
淡谷のり子 - 伊太利の庭 A GARDEN IN ITALY (1936)
https://www.youtube.com/watch?v=_hlxMCMaKRg

☆ オリヱ・津坂さんの「伊太利の庭 ( 愛の歌 ) 」でした。
愛の歌(伊太利の庭) オリエ・津阪
https://www.youtube.com/watch?v=PLxhCxS-zIc


http://garadanikki.hatenablog.com/entry/20190712/1562918240

 時折聴きたくなるあの曲は崔承喜の「伊太利の庭/伊太利의庭園」でした(やはり金子文子の時代とはズレる)。
 崔承喜のSPレコードは『半島の舞姫』(1936)の主題歌「郷愁の舞姫」だけかと思っていました。

 女流舞踊家、崔承喜(チェスンヒ=1911〜1969)。
 日本語読みは「さい・しょうき」。
 オールドファンには『半島の舞姫』のニックネームが懐かしいかもしれない。

 東洋人離れした170センチ近い恵まれた体とエキゾチックな美貌。
 現代舞踊と朝鮮の伝統舞踊をミックスした独創的な踊りで、ピカソやコクトー、川端康成ら世界中の文化人を虜(とりこ)にした不世出のアーティストだ。

 崔は日本統治時代の朝鮮・京城(現韓国・ソウル)の良家の出身(出身地は別説あり)。
 モダンダンスの石井漠(ばく)門下に入って日本へ渡り、次第に頭角を現す。
 1934(昭和9)年、東京で開いた第1回新作舞踊発表会で川端ら文化人・知識人に称賛されたときはまだ20代前半だった。

 映画「半島の舞姫」(今日出海=こん・ひでみ=監督)に主演し、化粧品やお菓子などの広告モデルや、写真雑誌のグラビアページを軒並み席巻していたのも、このころだ。
 現代のアイドルが束になってもかなわないほどのブームを呼んだと言っていい。

 当時、川端康成が書いた一文が残っている。

《女流新進舞踊家中の日本一は誰かと聞かれ、洋舞踊では崔承喜であろうと、私は答えておいた…第一に立派な体躯(たいく)である。彼女の踊りの大きさである。力である。(略)また彼女一人にいちじるしい民族の匂いである…肉体の生活力を彼女ほど舞台に生かす舞踊家は二人と見られない》
(「朝鮮の舞姫崔承喜」から)

 1938(昭和13)年には米ニューヨーク、ロサンゼルス公演、翌年にはパリなどヨーロッパを回り、ピカソ、コクトー、ロマンロランらを魅了する。
 当時、フランスに留学中だった周恩来(後に中国首相)も崔のステージを見たという。
 帰国後、写真雑誌のインタビューで崔は《アメリカでもヨーロッパでも随分たくさん写真を撮られてきましたわ…欧米人に日本をよく理解させるには芸術が一番だと思いましたわ》(「アサヒカメラ」1941(昭和16)年)1月号)と自信たっぷりに語っている。

 1944(昭和19)年1月、東京・帝国劇場で開催した20日間、23回の連続公演は「伝説」となっている。
 戦時下にもかかわらず、観客が殺到し、連日満席の大入り。
 敗色が濃くなり、モノがなくなっていったご時世に日本国民が朝鮮出身の舞姫のステージに熱狂していたのだ。
 そこに民族の違いなどない。
 “我らがスター”であったことが分かるだろう。

 仕事が次第に限られてゆく中で崔は、日本軍の依頼で満州や北支方面で慰問公演を続けながら1945(昭和20)年8月、終戦を迎える。
 戦後、その行動が栄光から非難へと暗転させてしまう種になるとはツユ知らずに…。
 
□  ■  □

 「親日派」と呼ばれることは朝鮮民族にとって今も昔も売国奴に等しい極めつきの悪罵(あくば)である。

 1946(昭和21)年5月、米軍占領下の朝鮮南部(現在の韓国)へ戻った崔は戦争中、日本軍の部隊慰問公演へ協力したことなどをあげつらわれ、思わぬ批判を浴びてしまう。

 そのころ夫の安漠(アンマク=後に北朝鮮文化省次官)はソ連軍を後ろ盾にした金日成(同首相、国家主席)が実権を握っている北の平壌へ入っている。
 安は日本統治時代、左翼色が強い「朝鮮プロレタリア芸術同盟(カップ)」のメンバーとして活躍。
 中国で地下活動をしていた朝鮮独立運動組織ともつながっていた。

 懐かしい故郷である南の地で同胞から「倭奴(ウェノム=日本人への蔑称)」という酷(ひど)い言葉まで投げつけられた崔は夫の誘いに乗って北へ向かう。
 これには金日成の意向が強く働いていた。
 世界的な舞踊家は格好の広告塔になる。
 金日成はVIP待遇で崔を迎えた。 

 平壌の中心を流れる大同江のほとりに建てられた舞踊研究所には「崔承喜」の個人名が冠せられた(後に国立に移管)。
 白亜の殿堂のような4階建ての研究所は1、2階が300人に及ぶ研究所員の宿舎、3階が事務室、4階がけいこ場。
 そこへ金日成がよく訪ねてきた。
 崔は直にこの独裁者と話ができたという。

 崔は朝鮮民族の舞踊を体系化し、金日成の意向に沿うような作品も創作した。
 やがては北朝鮮の文化芸術全般を仕切る立場にまで上り詰めてゆく。

 だが、栄光は長く続かない。
 崔ほどの大スターであっても、しょせん、「日本とつながりがあった人物」が信用されることはないのだ。
 礎(いしずえ)さえ築いてくれれば後は邪魔者になる。

 1958(昭和33)年10月、金日成は《作家、芸術員の中にある古い思想に反対する闘争に力強く取り組むことに対し》という論文の中で、「舞踊大家」の名で崔のことを「個人英雄主義」と厳しく批判する。
 背景には金日成による政敵粛清の嵐に巻き込まれた夫・安漠の失脚もあった。

 要職から外された崔が命じられたのは、1959(昭和34)年12月から始まった帰国事業で北朝鮮へ着いた在日朝鮮人の迎接委員だった。
 そこでは広告塔としての「崔承喜」の名前もまだ利用価値があったからであろう。
 
  
□  ■  □

 日本一の美声と謳(うた)われた名テナー歌手、永田絃次郎(げんじろう=1909-1985、朝鮮名・金永吉=キムヨンギル)もまた金日成が三顧の礼で北朝鮮へ迎えたスターのひとりだった。

 永田と同時期の名誉回復はおそらく偶然ではない。
 前年には金正日が日本人拉致を認めて謝罪した小泉訪朝があり、対日宣伝だった可能性もある。
 ただ、同時に語られる彼らの物語は、
《日本統治時代の厳しい差別や酷い仕打ちの中でも民族の誇りを忘れず、北朝鮮へ帰って金日成主席の温かい配慮の下で才能を開花させた》という式の荒唐無稽なプロパガンダである。
「酷い仕打ち」は日本ではなく北朝鮮の方ではないか。

 一方、終戦直後に崔の「親日的行状」をやり玉に挙げた韓国でも後になって再評価の動きが広がっている。
 生誕100年となる2011(平成23)年には韓国、北朝鮮双方で記念の行事が行われた。

 “上げたり、下げたり”…忙しいことである。政治と時代に翻弄され続けた泉下の崔はきっとこう言うだろう。
「私は好きな踊りを踊りたかっただけなのに」と。
          
                   
[写真]
「半島の舞姫」と呼ばれた崔承喜

産経新聞、2016.6.4 18:00
ピカソも金日成も虜にして…「半島の舞姫」崔承喜(さい・しょうき)
(文化部編集委員 喜多由浩)
https://www.sankei.com/life/news/160604/lif1606040010-n1.html

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2020年01月14日

静かに退化し滅びに向かう国?

 麻生太郎副総理兼財務相は2020年1月13日、地元の福岡県直方市で開いた国政報告会で「2千年の長きにわたって一つの民族、一つの王朝が続いている国はここしかない」と述べた。
 政府は昨年2019年5月にアイヌ民族を「先住民族」と明記したアイヌ施策推進法を施行しており、麻生氏の発言は政府方針と矛盾する。

 麻生氏は13日の国政報告会の中で、昨年のラグビーワールドカップ(W杯)の日本代表チームの活躍に触れ、「いろんな国が交じって結果的にワンチームで日本がまとまった」などと指摘。

 その上で「2千年の長きにわたって一つの場所で、一つの言葉で、一つの民族、一つの天皇という王朝が続いている国はここしかない。よい国だ」と述べた。

 麻生氏は同日、同県飯塚市での国政報告会でも「2千年にわたって同じ民族が、同じ言語で、一つの王朝を保ち続けている国など世界に日本しかない」と発言した。
 政府は昨年2019年9月には、アイヌ施策推進法に基づき、アイヌの人びとの差別解消に向けた取り組みや支援の実施を盛り込んだ基本方針も閣議決定している。

 麻生氏は総務相時代の2005年にも「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない」と発言し、北海道ウタリ協会(当時)から抗議を受けた。

 また麻生氏は、12日にも直方市であった成人式来賓あいさつで「皆さんがた、もし今後、万引きでパクられたら名前が出る。少年院じゃ済まねえぞ。間違いなく。姓名がきちっと出て『20歳』と書かれる。それだけはぜひ頭に入れて、自分の行動にそれだけ責任が伴うということを、嫌でも世間から知らしめられることになる。それが二十歳(はたち)だ」と発言している。


[写真]
地元であいさつする麻生太郎副総理=2020年1月12日、福岡県直方市のユメニティのおがた

朝日新聞、2020年1月13日 21時16分
麻生太郎氏「日本は2千年、一つの民族」
政府方針と矛盾

(垣花昌弘、遠山武)
https://www.asahi.com/articles/ASN1F67HDN1FTIPE00X.html

・・・麻生氏「誤解が生じているなら、おわびのうえ訂正」……またこの論法。誤解の余地などない。辞任すべきだ・・・
・・・「誤解が生じているならおわびの上、訂正する」……謝罪ではない。「なら」という仮定条件表現が使われており、発言に対して「誤解が生じている」と主張しているのに、どう誤解されているかについての説明がない・・・
・・・「不適切発言」ではない。民族抹消発言だ。差別煽動表現を単なる無意識の偏見・無知・失言・不適切・判断の誤りとしてカモフラージュするのは和人至上主義。煽動されたネトウヨの反応を見ろ。・・・
・・・麻生内閣で単一民族差別発言で辞任した人がかつていました。麻生自身は?・・・
・・・「何をやってもパクられない。それが安倍政権」あっそう・・・

【2008年9月28日 AFP】中山成彬(Nariaki Nakayama)国土交通相が2008年9月28日、一連の問題発言の責任を取り辞任した。
 麻生太郎(Taro Aso)首相率いる新内閣は24日に発足したばかりで、中山氏の在職はわずか5日間だけだった。

 この日の朝、首相に辞表を提出した中山氏は、辞表が受理されたかとの問いに「はい」とだけ答えた。

 中山氏は、「日本は随分内向きな単一民族」「日教組の子どもなんて成績が悪くても先生になる」などと発言。
 成田空港反対闘争については「ごね得というか、戦後教育が悪かった」などと問題発言を繰り返した。


[写真]
首相官邸に到着し記者団に囲まれる中山成彬(Nariaki Nakayama)国土交通相(中央、2008年9月28日撮影)

AFP、2008年9月28日 12:16
中山国交相、問題発言で辞任 在職はわずか5日
https://www.afpbb.com/articles/-/2522078

・・・麻生太郎氏は、相手を馬鹿にする態度を崩さないまま「誤解が生じたのなら」と上から目線で責任逃れを図っているだけ。彼は反省も謝罪もしていない。ただ責任逃れをしているだけ。・・・
・・・政権にとって麻生の存在意義は、安倍の「避雷針」。もうすぐ80歳の総理経験者で現副総理・財務相なのにこんなにバカ。モリカケ、セクハラ、無数の妄言とキリがないのに誰も安倍の任命責任を問わない。本人も責任取らない。しかも相対的に安倍がまともかのように錯覚させる。早くともに辞めさせないと・・・
・・・こんなバカを多くの国民が支持している、それも若い人たちが。支持しているということはおかしいと思っていないのだろう。こちらの方がより深刻。・・・
・・・もはやコメントするのも馬鹿馬鹿しいほど低劣なレベル。これがこの国の副総理。だが今や国民は政権の不正や失言・妄言、隠蔽、腐敗、私物化に慣れてしまった感がある。それで政治はどんどんおかしくなる。これが日本の現状。悪循環を断ち切るには民意の受け皿こそ必要である。・・・
・・・不祥事を起こせばトンズラする。違法行為を犯しても謝らない。公費を私物化しても検察が捜査しない。それが日本の政治家・・・

 政治家によるジェンダー的に問題のある発言として、麻生太郎財務相の「子どもを産まなかったほうが問題」がワースト1位に選ばれた。
 2588票、投票総数の34%を占める“ぶっちぎり”だ。
 しかも投票者の割合は女性より男性が多い結果に。投票理由からは、少子化の責任を個人に押し付けてきた政治への怒りがにじんでいた。

政治家のジェンダー問題発言に男性もおこ!

 投票は、上智大学の三浦まり教授ら「公的発言におけるジェンダー差別を許さない会」が主催。
 2019年の政治家の公的発言の中から、ジェンダー差別に該当するもの、またジェンダー格差を容認するようなものを8つ候補にあげ、インターネットで投票を募った(2019年12月30日〜2020年1月9日)。

 投票者数は3820人と、前回の2026人から1790人以上増加。
 うち女性2228人、男性1422人、その他・わからない169人などで、男性の関心の高さもうかがえる。

 ワースト1位に選ばれたのは、麻生財務相の以下の発言だ。
(日本人の平均寿命が延びたのは) いいことじゃないですか。素晴らしいことですよ。いかにも年寄りが悪いみたいなことを言って いる変なのがいっぱいいるけど間違ってますよ。子どもを産まなかったほうが問題なんだから
(2019年2月3日、福岡県内での国政報告会にて)

 1人最大2票を投じることができる今回の投票。
 投票総数7593票のうち、麻生氏のこの発言は2588票と、投票総数の34.1%を集め、他を大きく引き離す結果となった。

子どもを産むか産まないか、決めるのは私だ

 主催者によると、投票理由として多くの人があげたのは、以下の4つだったという。

・ 麻生氏が現副総理、過去には総理大臣も務めた政界で大変高い地位にある人物であり、その発言は非常に影響力が強い。

・ 長い政治的キャリアを持ち、国の政策決定を行う高い地位にありながら、国の政策の失敗原因を「子どもを産まなかった人」だけに押し付けるのは、政治家としての責任放棄。

・ 子どもを産む産まないは個人のリプロダクティブ・ヘルス/ライツ(性と生殖に関する健康・権利)に関わることであり、他人に指図されることでも、「国のためになる/ならない」で評価されることでもない。

・ 過去に何度も問題発言を行って批判されているにもかかわらず、再び麻生氏が問題発言をしたことに対する「反省がない」「国民の批判の声を聞く気もない」という怒りや失望。

 主催者は「差別発言を繰り返し自浄能力もないように見える政治の世界の象徴とし て、麻生氏の発言がワースト投票の対象に選ばれた面もあるようだ」と分析している。
 ちなみに麻生氏のワースト1位は、昨年に続き2年連続。
 昨年はテレビ朝日記者への財務省前事務次官のセクハラ事件に関する
「こちら側も言われている人の立場も考えないと。福田の人権はなしってわけですか」
「相手(被害を受けた女性記者)の声が出てこなければ、どうしようもない」
「そんな発言されて嫌なら、その場から去って帰ればいいだろ。財務省担当はみんな男にすればいい。触ってないならいいじゃないか」
などの一連の発言だった。

少子化は若い世代の意思表示

 今回、麻生氏の発言に投票した人は、女性29.3%、男性31.3%と、女性より男性の方が多かった。
 当時この発言を報じたメディアの中には、麻生氏の発言を「子どもを産まない女性や、産めない事情を抱えた女性に対する配慮に欠けた発言」と伝えたものもあった。
 いわゆる「少子化」問題は、「女性問題」として語られてきた過去がある。
 今回の投票結果が浮き彫りにしたのは、そうすることで透明化されてきた政治の責任、ないがしろにされた個人の意思、それらに対する性別を超えた怒りだろう。

 厚生労働省が2019年12月24日に公表した人口動態統計では、国内で2019年に生まれた日本人の子どもは86万4000人になり、統計を始めた1899年以降で初めて90万人を下回る見通しに。
 大きな衝撃を与えたのは記憶に新しい。

 少子化は「こんな社会で子育てしたくない」という、若い世代の意思表示かもしれない。
 政治はどう応えるか。


[写真-1]
麻生太郎副総理兼財務相。東京証券取引所にて、2020年1月6日撮影。

[写真-2]
ちなみに2位は安倍晋三首相の2019年7月16日、新潟県内での参議院選挙の応援演説で「お父さんも恋人を誘って、お母さんは昔の恋人を探し出して投票箱に足を運んで」という発言。

Business Insider Japan、Jan. 11, 2020, 07:00 PM
政治家ジェンダー問題発言ワースト1位は麻生氏。
女性より男性の方が怒ったその内容は……

(文・竹下郁子)
https://www.businessinsider.jp/post-205653

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犬コロ

私は犬コロでございます

空を見てほえる

月を見てほえる

しがない私は犬コロでございます

位の高い両班の股から

熱いものがこぼれ落ちて私の体を濡らせば

私は彼の足に 勢いよく熱い小便を垂れる

私は犬コロでございます


 金子文子は、その運命のパートナー・朴烈とめぐり合う直前の心境を、手記にこう書いている。
 一切の望みに燃えた私は、苦学をして偉い人間になるのを唯一の目標としていた。が、私は今、はっきりとわかった。今の世では、苦学なんかして偉い人間になれる筈はないということを。いや、そればかりではない。謂うところの偉い人間なんてほどくだらないものはないという事を。人々から偉いといわれる事に何の値打があろう。私は人のために生きているのではない。私は私自身の真の満足と自由とを得なければならないのではないか。私は私自身でなければならぬ。
 私はあまりに多く他人の奴隷となりすぎて来た。余りにも多く男のおもちゃにされて来た。私は私自身を生きていなかった。
 私は私自身の仕事をしなければならぬ。そうだ、私自身の仕事をだ。しかし、その私自身の仕事とは何であるか。私はそれを知りたい。知ってそれを実行してみたい。

(pp.319-320 下線部は原文では圏点)
金子文子『獄中手記、何が私をこうさせたか』岩波文庫、388頁)

 正確にいうなら、文子の元恋人だった朝鮮人青年の友人のところで、「犬コロ」と題する朴烈の書いた詩を偶然目にする頃。
 自暴自棄になりそうな心を、かろうじて制していた時期だろうか。

 社会の最底辺で、過酷な労働に心身をすり減らしつつ、苦学しながら将来を夢見ていた文子。
 だが、現実社会のあまりの理不尽さに、そのころ知り合った「新山初代」を通して触れたニーチェやスチルネル(シュティルナー)の影響もあってか、少しずつニヒリズムに傾いていった。
 この頃から私には、社会というものが次第にわかりかけて来た。今までは薄いヴェールに包まれていた世の相(すがた)がだんだんはっきりと見えるようになった。私のような貧乏人が何(ど)うしても勉強も出来なければ偉くもなれない理由もわかって来た。富めるものが益々富み、権力あるものが何でも出来るという理由もわかって来た。そしてそれ故にまた、社会主義の説くところにも正当な理由のあるのを知った。
 けれど、実のところ私は決して社会主義思想をそのまま受け納れる事が出来なかった。社会主義は虐げられたる民衆のために社会の変革を求めるというが、彼等のなすところは真に民衆の福祉となり得るか何うかということが疑問である。
「民衆のために」と言って社会主義は動乱を起すであろう。民衆は自分達のために起ってくれた人々と共に起って生死を共にするだろう。そして社会に一つの変革が来(きた)ったとき、ああその時民衆は果たして何を得るであろうか。
 指導者は権力を握るであろう。その権力によって新しい世界の秩序を建てるであろう。そして民衆は再びその権力の奴隷とならなければならないのだ。然らば××〔革命〕とは何だ。それはただ一つの権力に代えるに他の権力を持ってする事にすぎないではないか。
 初代さんは、そうした人達の運動を蔑んだ。少くとも冷かな眼でそれを眺めた。
  〔略〕
 けれど私には一つ、初代さんと違った考えがあった。それは、たとい私達が社会に理想を持てないとしても、私達自身には私達自身の真の仕事というものがあり得ると考えたことだ。それが成就しようとしまいと私達の関したことではない。私達はただこれが真の仕事だと思うことをすればよい。それが、そういう仕事をする事が、私達自身の真の生活である。
 私はそれをしたい。それをする事によって、私達の生活が今直ちに私達と一緒にある。遠い彼方に理想の目標をおくようなものではない。

(pp.320-322 〔 〕内、太字は引用者)
前掲書、岩波文庫、389-391頁

 文子が獄中でこの長編手記を書き了えたのは、1926年の始めごろ。大逆罪で死刑判決を受ける(3月25日)直前だろうか。

 ロシア革命(1917年)以後10年足らずの時点で、満足な教育も受けることのなかったわずか20歳余りの女性が、その後の社会主義政権の行く末を正確に見据えていたともいえる。

 そしてまた、彼女のこの指摘は、曲がりなりにも民主主義という体制を整えた現代社会にあっても、国家(権力を持つもの)との緊張関係に、一方の当事者である民衆が思いを巡らすときのよすがともなるものだろう。

 前段の引用とは異なり、ここで文子は、繰り返し「私達」「私達自身」と述べていて、運動においては、自律的な生き方だけでなく、同志との連帯を強く意識していたこともうかがえる。

 自分自身の真の仕事を探し求めていた文子は、朴烈との邂逅を果たしたものの、運命の暗い罠に吸い寄せられるように、未曾有の震災と騒擾とに遭遇し、結果的に、天皇制国家によってその未来の可能性の芽まで摘み取られてしまった。

 今にして思えば、文子は、生まれてくるのがあまりに早過ぎたといえようか。

 その思想の先見性が理解されるのは、むしろ、これからなのかもしれない。

散らす風散る櫻花ともどもに
潔く吹け 潔く散れ

(文子・獄中歌)


進工舍の人びと、2009-03-17 23:51
金子文子の、ジレンマと先見性
https://sinkousya.exblog.jp/11123814/

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映画「金子文子と朴烈」

 やっほーくんのこのブログ、次の日付の日記をぜひ再読してみてくださいね:

☆ 2019年07月20日「日本がこれ以上分断しないため」
☆ 2019年12月21日「ジェンダーギャップ、韓国 108位と日本 121位を逆転」
☆ 2019年12月29日「ヘイトが蔓延する社会」

 実は昨日も映画鑑賞の日でした。
 渋谷まででかけ観てきたんです。
 韓国映画「金子文子と朴烈」!

 朝鮮人アナキスト(無政府主義者)の妻となり、23歳で獄死した大正時代の日本人女性思想家を描いた韓国映画「金子文子と朴烈(パクヨル)」(イ・ジュンイク監督)が、2019年2月16日の東京・渋谷のシアター・イメージフォーラムから、順次公開される。
 主人公の金子文子を演じたチェ・ヒソ(32)は、
100年近い過去の時代に自由や平等について考え、行動した女性がいた。国籍は重要ではなく、その姿と精神を知ってほしい」と話す。 

 貧しい生い立ちの文子(チェ)は、アナキスト朴烈(イ・ジェフン)の「犬ころ」という詩に共感。
 同志となり、同棲(どうせい)を始める。
 しかし、危険思想者としてマークされていた二人は1923(大正12)年、関東大震災の直後、警察に拘束される。
 皇太子暗殺を企てたとして大逆罪の疑いで起訴され、裁判を通じて主張を展開する。

 作中で、文子は判事に、
人間はみな平等。馬鹿(ばか)も利口も、強者も弱者もない」と訴える。
 チェによると、文子は貧しく、両親にも愛されなかった女性。
 つらい過去が「虐げられる人のために生きる。権力に対して自分の意思を貫く」精神の柱になった若き思想家だ。
 日本の観客には、
反日映画と誤解されるかもしれないが、国籍を超えて権力と闘った文子と同志たちに注目してほしい」と望む。

 韓国では2017年に公開され、235万人の動員を記録した。
 チェは大ヒットした理由を、
「二人は韓国でもあまり知られていなかった。『こんな人たちがいたのか』という驚きと感動があった」と説明する。
 韓国政府は昨年2018年、文子に「建国勲章」を授与。

「百年近く前の人に今、勲章が出たのは、この映画の影響だと言う人も多い」

 ソウルで生まれ、小学2年から卒業まで大阪市で過ごしたチェは、日本語も流ちょう。
 文子の手記や裁判記録も日本語で読み込んだという。
 映画は2回目の主演だが、本作で文子を演じ
「役者として強い影響を受けた。主体的に生きる女性に魅力を感じるようになった」と話す。

 日本はチェにとって、
「考え方や生き方を形成する時期に、幸せに暮らした特別な国」。
 日本の映画もよく見るといい、
「ぜひ出演してみたい」とアピールする。

 2019年1月に韓国で公開された大森立嗣監督の「日々是好日(にちにちこれこうじつ)」を「毎日の価値を語ってくれる映画」と気に入っている。
 茶道の先生役として出演し、昨年2018年9月に他界した樹木希林を「とても好きな役者さんでした」といたんだ。


[写真-1]
「金子文子と朴烈」の一場面。法廷に立つ金子文子(チェ・ヒソ)

[写真-2]
金子文子への思いを語る主演女優のチェ・ヒソ=東京・渋谷で

東京新聞・朝刊、2019年2月14日
権力と闘う姿を描く 映画「金子文子と朴烈」
主演チェ・ヒソ「国籍は重要でない」

(酒井健)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/entertainment/news/CK2019021402000231.html

 映画「金子文子と朴烈」は、大正時代、大逆罪で死刑判決を受けた日本人と朝鮮人が主人公で、実話に基づいた作品です。
 日本では「不敬だ」という理由で街宣された映画館が出ました。
 韓国でも「日本を良く描きすぎだ」と怒る人が現れたそうですが、実際には大ヒット。
 女性客も多いそうです。
 韓国で235万人を動員し、日本でもロングランを続けるこの不思議な作品の魅力は何なのか?
 日本語と韓国語、両方に堪能な主演女優のチェ・ヒソさんに聞きました。

 3月下旬のある平日の午後、チェ・ヒソさんが「名古屋シネマテーク」(名古屋市千種区)での上映後に舞台あいさつに立つことになっていました。

 映画館には開演前から行列が。会場内は意外にも若い人が多く、半分くらいは女性です。

 隣の席の女性2人組は、なんと「今日で見るの3回目なんだよね」と話していました。
 リピーターも出るほどとは。
 期待が膨らみます。
 1923年の東京、社会主義者たちが集うおでん屋で働く金子文子は朝鮮半島出身のアナキスト(無政府主義者)、朴烈に出会う。
 当時日本の植民地の出身だった朴は日本で差別を受けることも多く、権力や当時の政府に対する憤り、そして社会を変えたいという強い意思を持っていた。
 文子は、そんな朴烈にひかれ、同志となることを決める。
 その年1923年9月1日、関東大震災が発生。
 10万人を超える死者・行方不明者が出て東京は大混乱に陥る。
 当局は震災による人びとの不安を鎮めるため、朝鮮人やアナキストらを捕らえはじめ、文子と朴の2人も拘束される。
(「金子文子と朴烈」公式サイトより)

 意外にコミカルな場面も多く、会場からは時折笑い声も上がりましたが、終盤からすすり泣きがあちこちから聞こえました。

 植民地、関東大震災、虐殺……。
 題材は重いです。
 でも、笑って泣けるエンタメ要素がある。
 上映終了後、金子文子役のチェ・ヒソさんが登壇すると、満場の拍手が起きました。

 作中では、実際の金子文子が韓国語に堪能だったように、日本語と韓国語を交互に織り交ぜながら演じています。
 チェさん自身は小学生のころ、親の仕事の関係で日本で暮らしたことがあるため、日本語での受け答えもスラスラとこなしていました。

 この作品では、関東大震災後に「朝鮮人が井戸に毒を入れた」というデマを信じて朝鮮系の人びとを襲う自警団のシーンも描かれています。
 日本での公開は今年2019年2月。
 日本と韓国の外交関係が緊張する中、チェさんも映画への影響を心配していました。

「日本の人には、つらいシーンもあったと思う。私は日本が大好きなのに入国できなくなるかも、なんて心配でした」と話していました。

ヒットの理由、単独インタビューで語る

 舞台あいさつ終了後、詳しく話を聞きました。
―― 金子文子と朴烈。韓国ではどんな人物だと受け止められているのでしょうか?私は恥ずかしながら全く知りませんでした。

チェ・ヒソ: 私も全然知らなかったです。韓国でも知らない人が多かったと思います。
 歴史上有名になる人って、どうしても成功した人、勝利した人が中心ですよね。
 朴烈はそうではない。
 裁判で有罪になり、約20年間牢獄にいたので、成功したとは思われなかったからではないかと思います。

―― 映画を作るにあたって、日本語ができるチェさんが演じる以外にできることも多かったのでは?

チェ・ヒソ: 日本語の指導は、他にも日本語のできる俳優たちと一緒に行いました。
 イ・ジュンイク監督は日本で公開されることも念頭に置いていました。
 もし日本で公開されれば、日本語の発音がいいかげんだと映画に集中できなくなりますよね。
 日本の人が見てもおかしくないレベルに持っていこうと思いました。
 当時の裁判資料も読みました。
 350ページくらいだったでしょうか。
 カタカナと漢字で書かれているし、裁判の話なので本当に読むのが大変でした。
 1日1ページ読むのにも苦労したくらいです。
 当時の新聞も資料として読んでいます。
 映画でも実際の紙面から写真だけ役者のものに変えて使いました。

―― 韓国でも235万人を動員し、日本でもロングラン。名古屋では3月に一度上映は終わりましたが、5月に再上映が決まりました。ヒットの理由をどのように捉えていますか?

チェ・ヒソ: この映画は、とても良い時期に公開できたなと思っているんです。
 世界的には#metoo運動があり、韓国ではキャンドル革命(※ろうそく集会。朴槿恵前大統領の退陣を求めた市民によるデモ)。
 公開時期がちょうど社会に合っていた。
 韓国語はこういうことを「映画の運命が良かった」というような言い方をするんですけど、本当にそうだったと思っています。

原題と日本語題が違う理由、日韓で同じ反応

―― 映画の原題は「朴烈」ですが、日本語版だと「金子文子と朴烈」。日本での配給元の広報担当をしていた女性が、男性も女性も対等な関係であるべきだという文子の考えを尊重し、このタイトルになったと聞きました。韓国で文子の名前が入らなかったのはなぜなのでしょうか。

チェ・ヒソ: 最近の韓国映画って、長いタイトルはあまり見ないんですね。
 例えば、日本でも上映された「1987年、ある闘いの真実」の原題は「1987」だけ。
「金子文子と朴烈」では長すぎるなという気がします。
 ただ、日本のタイトルを知った韓国の人の中には「日本のタイトルの方がいいな」と言う人もいました。
「特に文子が前に来ているのがいい」って。
 文子は朴烈と同居するにあたっても対等な関係でいたいという「契約」を作っていたくらいですから。

―― 日韓で映画の反応に違いはありましたか?

チェ・ヒソ: 両国での反応は驚くほど似ていますね。
「こんな人たちがいたんだ」と驚く人、そして「2人の愛と信念に心打たれた」という人が多かったです。

―― 文子と朴烈には皇族を襲おうとしていた疑いがかけられていたため、日本では2人を題材としたこの映画は「不敬だ」という人たちがいました。実際、上映中止を求める電話や街宣をかけられた映画館もあったそうです。

チェ・ヒソ: 実は、文子たちに同情的な人物を登場させたことで、韓国のネット上で「日本人を良く描いている」と怒っている人たちがいました。
 韓国では植民地時代の日本は悪いものとして捉えられがちです。
 でも、この映画では文子と朴烈が受けた不当な裁判から助けようとした日本人の布施辰治弁護士がいますし、日本政府の中でも文子たちの扱いに異を唱える人がいました。
 2人の取り調べを担当した立松懐清判事のように、文子の不遇な境遇に同情した人もいました。
 こういった人物たちは決して映画のために創作したわけではなく、実在の人々なんですよね。
 グーグルでもなんでも調べてみればわかる話ですから、いつのまにかそういった批判は消えていきました。
 映画を見て、これは「新しい歴史だ」と感じてもらえる人もいましたね。
 先入観を持って歴史を見てはいけないなと改めて思っています。

―― 金子文子は笑顔が大変魅力的でした。演じるにあたり、どんな人物像を想定していましたか?

チェ・ヒソ: 文子の書いたもの(獄中手記の『何が私をこうさせたか』岩波文庫)や裁判の記録などを読むと、自分の意見をしっかり持った女性だと感じました。
 親の愛を受けられずに学校も通えなかったという悲しい生いたちなのに、明るい。
 死刑になるかもしれないのに、怖がることなく堂々としています。
 かわいそうな、悲惨な人物として演じることも出来たかもしれませんが、実際の文子はそうではないと感じましたね。

―― 上映している映画館によると、女性の観客が多いそうです。

チェ・ヒソ: 政治的な映画というより、帝国さえ拒めなかった2人のラブストーリーだと思っています。
 愛と信念を共有し生きた朴烈と金子文子の生き方を見て欲しい。
 日本でもぜひ若い世代、特に女性に見てもらえるとうれしいなと思います。

取材を終えて

 チェさんは作中の金子文子よりは大人っぽく落ち着いた印象でしたが、勉強熱心で社会を冷静に見つめようとする姿勢は文子に通じるところがありました。

 日韓で映画のタイトルがかなり違うことについては、舞台あいさつの時にも質問が飛んでいましたが、背景を聞いて納得。
 その上で原題にない「金子文子」をタイトルにつけた日本の配給元のアイデアは、映画の内容にもぴったりで良いなと思いました。

 決して有名とは言いがたい歴史上の人物、しかもアナキストのカップルが主人公という映画に女性ファンがつくのはなぜだろうと思っていましたが、実際に見ると腑に落ちました。

 約100年前の日本が舞台ですが、文子は恵まれない環境に育ちながらも知的好奇心旺盛で、男性のアナキスト仲間とも臆せず議論していました。
 恋人である朴烈に対しても「三歩下がる」なんてことはせず、あくまで対等。
 文子や朴らの政治思想は今の私たちからみるとだいぶ過激ですが、生き方はとても現代的で、私もいつのまにか文子、そして文子を自然に受け止める朴のカップルが好きになっていました。

 チェさんが話していたように、韓国では「新しい歴史」の映画と受け止める人もいたそうです。
 日本で見ても、教科書からなんとなく想像できる当時の雰囲気や人びとの考えとは違う新しい発見を見つける人が多いのではないかと思います。
「なんだか難しそう」「きっと日本人がみんな悪く描かれてるんでしょう?」なんて思った人に是非見て欲しい映画です。


[写真-1]
「金子文子と朴烈」の主演チェ・ヒソさん
[写真-2]
「金子文子と朴烈」の一場面
[写真-3]
名古屋での舞台あいさつがあった映画館「名古屋シネマテーク」。昔ながらの単館系の映画館で、レトロな雰囲気です。
[写真-4]
舞台あいさつに登壇した主演のチェ・ヒソさん。この映画で韓国の権威ある映画賞「大鐘賞」で新人女優賞と主演女優賞を受賞。韓国映画界の新人スターです。
[写真-5]
名古屋シネマテーク近くのカフェでインタビューに応じるチェ・ヒソさん。
[写真-6]
小学生の頃は大阪に住んでいたというチェ・ヒソさん。日本人役なので、作中で話す朝鮮語が日本語なまりに聞こえるよう努力したそうです。
[写真-7]
1923(大正12)年の大阪朝日新聞。映画ではこの紙面を元にしています。
[写真-8]
金子文子の思想を学ぶため、当時彼女が読んでいたクロポトキン(ロシアの政治思想家)らの著書も読み込んだそうです。
[写真-9]
チェ・ヒソさんが演じる金子文子。笑顔が印象的な役柄です。
[写真-10]
文子の不幸な境遇に理解を示した立松判事(キム・ジュンハン)。上司の命令に従わざるをえない立場ながらも、理性がのぞく役です。
[写真-11]
作中で文子が何度もみせる、いたずらっぽく顔をクシャッとしかめて笑う表情を再現してもらいました。

withnews、2019/05/12
日本と韓国で物議呼ぶも大ヒットの映画「金子文子と朴烈」の魅力
(日高奈緒)
https://withnews.jp/article/f0190512000qq000000000000000W0c610501qq000019138A

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映画「男はつらいよ お帰り 寅さん」

 2020年1月12日(日)は本来ならば、山歩クラブの「山でお餅つきだい」企画だったのですが、天気予報がずっと降水確率が60%〜70%、雨ばかりの予報で1月8日(水)に急遽、映画鑑賞の日にしたのです。
 餅つきには12人のエントリーがあったのですが、映画の日になってお集まりいただいたのは、5人衆でした。
 一斉報告メールをいつものように特別大公開:

 皆さん、こんばんは。鏡開きはすみましたか?
 南岸を行く低気圧がちょっと離れてとか、今日は雨予想がはずれましたがまあ、こればかりは相手方の準備もあることで仕方なし、でした。
 で、餅つきは2月、じゃなく12月にし、来月は月例の山歩きにしようや、と5人で相なりました。
 候補地、希望地ありましたらお知らせください、月末発行の「かわらばん」をお楽しみに。
 夏山は唐松岳 2696m、仙丈ガ岳 3033m、八ヶ岳横断などいいね、合宿地は信州上田市をもう一度、今度は菅平高原に平塚らいてふの家を訪ねるとか、あっ、日光企画もやんなくっちゃ、と話が盛り上がりました。
 そう、今日の山歩き、山で餅つき、の代わりに、第一作目から50年後の映画「お帰り寅さん」鑑賞後のお話し合いの場で!
 小説家(!)になった満男(49)がサイン会でUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)、あの92歳で亡くなった緒方貞子さんのところの職員になった泉ちゃん(45)と八重洲ブックセンターでばったり。
 さくら(78)、その夫の博(75)、マドンナ役最多5回のリリー(79)という登場人物に涙、笑い、涙の映画を観たあとのお話し合いの場だったのです。
 次回まで風邪ひくなよ〜、達者でいるんだぜぇ〜、歯みがいて寝るんだよぉ〜、ヤッホー!!


 映画『男はつらいよ』(通称“寅さん”)シリーズの見どころのひとつは、作品ごとに登場する魅力的な“マドンナ”です。

 シリーズ第42作『男はつらいよ ぼくの伯父さん』(1989)からは、寅さんの甥、満男(吉岡 秀隆)の恋も始まります。
 その満男のマドンナとして登場したのが、満男の高校時代の吹奏楽部の後輩、及川 泉(後藤 久美子)でした。
 影のあるとびきりの美少女“泉ちゃん”は寅さんの相手役ではないものの、『男はつらいよ 寅次郎紅(くれない)の花』(1995)まで計5作品に登場するシリーズ屈指の人気マドンナとなりました。
 いずれの作品でも、満男はおじさんゆずりのシャイで奥手な“恋愛下手”をいかんなく発揮。
 満男と泉はなかなかうまくいきません。

『寅次郎紅の花』で満男は泉とお見合い相手の結婚式を台無しにしました。
 その後、逃避先の奄美大島の海辺で、満男が泉についに愛の告白をして、どうやら遠距離交際し始めたらしいところで、2人の話は止まっていました。

 あれから20余年。
 あの“寅さん”の新作が公開されるという驚きのニュースが飛び込んできました。
 新作の主人公は満男。
 小説家になった満男の前に、ある日突然、泉ちゃんが現れます。
 泉ちゃんはなんと国連職員、それも難民支援に携わるUNHCR職員になったというのです。

 再び動き出す満男と泉ちゃんの恋はどうなるのか?
 泉ちゃんは一体どんな女性になったのか。

 イズミ・ブルーナという現代の国際的マドンナの魅力にもぜひご注目ください。

新作映画『男はつらいよ お帰り 寅さん』

― 今ぼくたちは幸せだろうか。君たちはどう生きるか ―

 車 寅次郎の甥・満男と、満男がかつて思いを寄せた泉のその後の物語。
 別々の人生を生きてきた二人を軸に、さくらや博、そしてくるまやを囲む人たちを描く。

 窮屈で生きづらい時代。
 困難にぶつかった時、「あゝ寅さんだったらどんな言葉をかけてくれるだろうか」と思いかえす……。
― やってくる新時代。そんな不透明な時代を生きていく私たちのために、昭和から現代に虹をかけるように、今、寅さんがスクリーンに蘇ります。

『男はつらいよ』シリーズ開始から50年目の50作目、山田 洋次監督88本目の新作が登場します!

イズミ・ブルーナ(旧作では 及川 泉)

 満男の初恋相手。
 一度は結婚の約束までしたこともあったが、両親の離婚後オランダへ。

 難民問題に興味を持ち、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)職員に。
 既婚で二人の子どももいる。
 仕事で来日し、思いがけず満男との再会を果たす。
 今回また山田組に呼んでいただき、とても光栄に思うのと嬉しい気持ちで一杯です。
『男はつらいよ 寅次郎紅の花』を撮り終えてから子育てに入っておりました。
 ある日ジュネーブの自宅に山田監督からお手紙が届きました。
 それは、こういう作品を作りたい、それにはどうしても君が必要だ、どうにか考えてもらえないだろうかという、長いお手紙だったんです。
 そのお手紙を読んでる時、山田監督が今まで撮ってきた全ての『男はつらいよ』という作品に対する大きな愛情と、今回撮りたい作品に対する情熱がひしひしと感じられました。
 お手紙を読み終わる頃には『はい』とひとつ返事で行こう。
 そう思いました。

 寅さんは大きな背中、大きな心で全てを包み込んでくれる、大好きなおじちゃま。
 泉は、外国に住んでる叔母さんのところに行って勉強して結婚して。
 楽しいことも、大変なこともあったと思います。
 きっとそれを全ておじちゃまに聞いてもらいたいなと思っているでしょう。
―― 後藤 久美子 (談)

UNHCR広報官が語る「新作撮影秘話」
 昨夏、松竹のご担当者から、寅さんの新作のマドンナがUNHCR職員だと知らされたときは、本当に驚きました。
 その後はじめて寅さんの撮影現場に立ち会わせていただいたのですが、プロフェッショナルなスタッフが集まって、ひとつのものを全力で作る現場の緊張感に圧倒されました。
 ちょうどその頃、中南米から北米に向けて大勢の難民が避難する、いわゆる“キャラバン”に関する報道が出ている頃でした。
 撮影の合間に、山田監督が私たちの方にいらして、「こういった難民の人たちは、強制移動させられるとき、皆さんどういう心持ちでいるんでしょうかね」などと尋ねられました。
 日本だけでなく、世界で起こっているいろいろなことに関心をお持ちなのだと感じました。
 また、山田監督はご自身の満州引揚げの体験を語ってくださいました。
 戦況の悪化、着の身着のままで逃れるときの恐怖…。
 山田監督の「絶対に平和が一番」という強い想いを、言葉の端々から感じました。
 山田監督の「誰が見てもおかしくない作品にしたい」という細部へのこだわりも印象に残っています。

 記者会見シーンの撮影の際、山田監督から「久美子ちゃんああいう感じでいいかな?」と、UNHCR職員としての佇まいや話す速度、ニュアンスなどについて聞かれました。
 後藤さんの英語はパーフェクト。
 私からは唯一、あまり慣れていない記者の方もきちんと聞きとれるように、国名などの固有名詞や数字が出たときは、少しゆっくり目に間を置いたほうがいいと思います、ということを山田監督に申し上げました。
 撮影前には、台本を渡されて、現実的にUNHCR職員がやること、やらないこと、を確認をしてほしいと依頼されました。
 後藤さんが首にかけるネックストラップなど、実際にUNHCR職員が使用している小物も作品に登場します。

 後藤 久美子さんが演じるイズミ・ブルーナさんは、人間としての魅力が輝いていると感じました。
 単に美しいというよりも、もっと深い輝き。
 後藤さんはジュネーブにお住まいなのですが、撮影前、後藤さんがジュネーブの国連本部のビジターセンターを、一般のいち訪問者として訪ねられていたことを知って驚きました。
 後藤さんの役作りに対する真摯な姿勢にも感銘を受けました。

 各国の現場で援助活動にあたっているUNHCRの日本人職員たちも、みんな大喜びしています。
 海外で暮らす中で、ふと日本を取り戻したくなるとき、“寅さん”がどれだけ私たちUNHCR職員の心を癒してくれるか。
 “寅さん”の力はすごいんです。
 関係者試写で出来上がった作品を初めて観たとき、冒頭で桑田 佳祐さんが歌う寅さんの主題歌を耳にした瞬間、いち寅さんファンとして思わず涙が出ました。
 今度の新作の中では、満男も泉も成長して社会人として生きている。
 その二人の背中を、寅さんの一言一言が今もそっと押してくれているのだなあと、作品を拝見して感じました。

 普段UNHCRがやっている仕事の一端が、後藤さんのような方が演じてくださることによって、より分かりやすく伝わってくると思います。
 よろしかったら、ぜひ劇場でご覧ください。
 UNHCRを支援してくださっている日本の皆様には、UNHCRをサポートしていて良かったと思っていただけたら嬉しく存じます。
(UNHCR 駐日事務所・広報官 守屋 由紀談)

※ UNHCR 国連難民高等弁務官事務所 (United Nations High Commissio ner for Rerugees) の略称で、1950年に設立された国連機関のひとつです。紛争や迫害により難民や避難民となった人を国際的に保護・支援し、難民問題の解決へ向けた活動を行っています。1954年、1981年にノーベル平和賞を受賞。スイス・ジュネーブに本部を置き、約135か国で援助活動を行っています。


[動画]
映画『男はつらいよ お帰り 寅さん』公式サイト
https://www.cinemaclassics.jp/tora-san/movie50/

[写真]
イズミ・ブルーナ役の後藤 久美子さん(中央)と山田 洋次監督(右)

国連UNHCR協会公式サイト
“寅さん” 新作にイズミ・ブルーナUNHCR職員が登場します
https://www.japanforunhcr.org/about/overview/

 22年ぶりに公開された映画「男はつらいよ」の新作は、主人公寅(とら)さんの甥(おい)・満男が物語の中心となる。
 俳優吉岡秀隆さん(49)のイメージが強い役だが実は四代目。
 第一作で赤ん坊の満男を演じたのは下町の和菓子店の男の子だった。
 実家の店を継ぎ、作品とともに50歳を迎えたもう一人の「満男」も、再び寅さんと会える喜びをかみしめている。  

 初代の満男を演じたのは作品の舞台になった東京都葛飾区で和菓子店「川忠(かわちゅう)本店」を営む石川雅一(まさかず)さん(50)。
 柴又駅から歩いて15分の店には、生後3ヶ月の石川さんが故・笠智衆さん演じる御前様に抱かれている写真が飾られている。

 寅さんの妹さくらと工場労働者の博の恋を描いた1969年の第一作の終盤、二人の赤ちゃんが登場する。
 そのロケで撮った写真だ。
 生まれたばかりの赤ちゃんを探していた山田洋次監督の目に留まったのが、近くに住んでいた石川さんだった。

 高校生の頃、アルバムに収められているこの写真に気付いた。

「この赤ちゃん誰」

 母、百合子さん(77)は「あなたよ」と即答。

「うそでしょ」

 半信半疑で第一作を見直し、「これは自分だ」と確信した。
 だが、友人にはなかなか信じてもらえず、内気な性格もあって周りに言わなくなった。

 それから20年以上が過ぎた2008年、テレビ番組の取材で「初代の満男を演じたのは……」と家族がぽろっと話したのが取り上げられ、初めてメディアに出た。
 反響の大きさに「もっと誇っていいんだ」と思い直し、最近ようやく自ら言えるようになった。

 高校卒業後、「ソニーに入りたい」という夢をかなえて充実したサラリーマン生活を送った。
 しかし数年後、父、徳保(とくやす)さんが63歳で他界。
 1872(明治5)年創業の店の歴史を絶やすまいと、実家を継いだ。
 くしくも寅さんの実家「くるまや」と同じく団子が名物の和菓子店だった。
「これも運命かな」と修業に打ち込んだ。

 心の支えにしてきたのが、スクリーンで奮闘する同年代の満男の姿だった。
「気が弱くてどこか頼りない」という性格を自身に重ね合わせ、成長する満男に励まされてきた。
 前に出るタイプではないが、商店街の副会長や消防団員を進んで引き受け、街のために尽くしている。

 シリーズ50作目となる新作「男はつらいよ お帰り寅さん」では、吉岡さんが演じる満男に中学三年生の娘がいる設定。

「自分に娘が生まれたような気持ちになるのかな」

 石川さんはそんな思いを膨らませながら鑑賞を楽しみにしている。

 配給元の松竹によると、満男役は第一作を石川さんが、第2〜26作を中村はやとさんと沖田康裕さんが、第27作以降を吉岡さんが演じている。


[写真-1]
「男はつらいよ」第一作の撮影の合間に、笠智衆さんに抱かれる初代「満男」の石川雅一さん=石川さん提供

[写真-2]
実家の和菓子店を継いだ石川雅一さん=東京都葛飾区で

[図]満男の歩み ☟

満男の歩み.jpg

東京新聞・朝刊、2019年12月31日
寅さん見てますか
第1作に出演、初代満男50歳
和菓子店継ぎ奮闘

(加藤健太)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201912/CK2019123102000130.html

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2020年01月13日

1969年から日本はこんなに変わった

『男はつらいよ』は、1969年の作品。
 ご存じ“寅さんシリーズ”の第1作である。
 おなじみのテーマソングにのって寅さんが江戸川土手を歩いてくる。
 16歳の時に飛び出して以来、20年振りに寅さんが柴又に帰ってくる設定だ。

 この時の寅さんの格好が、あの腹巻きスタイルではなく、ジャケットにネクタイなのが新鮮である。
 なにより渥美清自身が若い。
 まだ寅さんというより、コメディアン渥美清の感が強い。

 渥美清だけでなく倍賞千恵子も若い。
 僕が小学生の頃に眩しかった60年代のお姉さんそのもの。
 キュートでかわいい。
 倍賞千恵子もまだ“さくら”というより、女優・倍賞千恵子である。

 そのさくらのお見合いに寅さんが付き添うシーンが、おそらく“寅さんシリーズ”として最初のギャグ・シーンだろう。
 これがメチャクチャ面白い。
 この時点ではまだ、子どもからお年寄りまで楽しむ国民的シリーズになるとは夢にも思っていないから、寅さんは遠慮なしの毒舌である。
 キレのいい下ネタギャグを連発。
 喜劇映画として真っ向勝負のシーンだ。
 当時の映画館は笑いの渦になったことと思う。

 しかし話が進むにつれ喜劇映画から、ゆっくりとグラデーションをもって“寅さん映画”へと変わってゆく。
 寅さんの格好はいつのまにかおなじみのテキ屋スタイルになっているし、マドンナも登場する。
 御前様の娘、冬子(光本幸子、1943 - 2013)だ。

 冬子に愛情を寄せた寅さんが失恋するところも“寅さん映画”そのまま。
 それにしてもこの失恋は、のちの数多い失恋以上にキツく思えるなあ。
 まだ“お約束”ではなく、本気の失恋。
 寅さんの悲痛な悲しみが観客にも伝わる。

 寅の失恋を「バカだねえ」と嘆くとらやの人たちも、のちのシリーズそのままのパターンなのだが、これも1回目なので、まるで寅さんをいたわっていないところがかえって喜劇的である。
 そのなかで、ひとりさくらだけが兄に同情を寄せる。

 恋に破れて柴又を去る寅さん。
 江戸川土手で「おにいちゃ〜ん」と叫ぶ倍賞千恵子は、まぎれもなく寅さんの妹さくらである。

 コメディアン渥美清が“寅さん”となり、カワイイ女優倍賞千恵子が“さくら”になるのが、この『男はつらいよ』なのだ。

『男はつらいよ』
〇 製作年:1969年
〇 製作・配給:松竹
〇 カラー/91分
〇 キャスト/渥美清、倍賞千恵子、三崎千恵子、森川信、前田吟、佐藤蛾次郎、笠智衆、光本幸子、笠智衆、志村喬ほか
〇 スタッフ/監督: 山田洋次、脚本: 山田洋次、森崎東 音楽: 山本直純


サライ、2017/9/16
寅さんもさくらも若い!
映画『男はつらいよ』シリーズ第1作の醍醐味

(牧野良幸)
https://serai.jp/hobby/244960

[動画]
 寅さんが20年ぶりに、故郷柴又に帰ってくる。
 歓迎ムードも束の間、寅は妹さくらの縁談をぶちこわし、また旅の人となる。
 奈良で旅行中の御前様とその娘・坪内冬子(光本幸子)と再会。
 幼なじみゆえ、気さくな冬子に恋をした寅さんは、帰郷してからも冬子のもとへ日参する。
 一方、裏の印刷工場につとめる諏訪博は、さくらへ想いを寄せていた・・・博の父には名優・志村喬(1905 - 1982)。
 寅さんの最期がハブに噛まれるでは酷すぎるとフジテレビ版の結末に抗議が殺到したこともあり、寅さんをもう一度、ということで山田洋次監督自ら企画。
 ワイドスクリーンいっぱいに、元気溌剌な寅のハチャメチャぶりが爆笑を誘う。
 マドンナは新派のトップ女優で、これが映画初出演の光本幸子。


松竹 Cinema Classics 公式サイト
https://www.cinemaclassics.jp/tora-san/movie/1/

 今度はいつ帰るの。桜の咲く頃、それとも若葉の頃。みんなで首を長くして待ってるわ。
(第41作『寅次郎心の旅路』から)

◇ ◇ ◇ 

「男はつらいよ」シリーズの真のマドンナは、もしかしたら、倍賞千恵子さんが演じた、寅さんの最愛の妹・さくらかもしれません。

 16歳で柴又を飛び出して以来20年。
 寅さんからは音沙汰なく、その消息は不明でした。

 父母と長兄をなくし、叔父・竜造(森川信)と叔母・つね(三崎千恵子)のもとで美しい女性に成長したさくら。
 丸の内の電機メーカーにつとめていたころ、帝釈天の宵庚申(よいこうしん)に、寅さんが帰ってきたのです。

「お兄ちゃん?」
「そうよ、お兄ちゃんよ」

 これが第一作で、20年ぶりの兄妹が交わした最初のことばです。
 この瞬間から、寅さんとさくらは、より一層、かけがえのない肉親であるお互いを意識したのだと思います。
 山田洋次監督作詞、山本直純さん作曲、倍賞千恵子さんの「さくらのバラード」の歌いだしです。

江戸川に雨が降る
渡し舟も 今日はやすみ
兄のいない 静かな町
どこに行ってしまったの
今ごろ なにしてるの
いつもみんな 待っているのよ
そこは晴れているかしら
それとも冷たい雨かしら
遠くひとり 旅に出た
私のお兄ちゃん
どこかの街角で
みかけた人はいませんか
ひとり旅の 私のお兄ちゃん


(セリフ)

いつもそうなのよ いつも……
「さくら!しあわせにくらせよ」って……
もう帰らないって
あの時いったけど……
そこは晴れているかしら
それとも冷たい雨かしら
遠くひとり 旅に出た
私のお兄ちゃん

どこかのお祭りで
見かけた人はいませんか
ひとり旅の 私のお兄ちゃん

https://www.youtube.com/watch?v=w9gcX2tp618

 寅さんが旅に出ているときの、さくらの心境を描いた名曲です。
 この歌が劇中で歌われたのは、第16作『葛飾立志篇』の西部劇仕立ての「寅さんの夢」での「テキサスに雨が降る」と替え歌バージョンのみです。
 ところが映画を観(み)ていくと、この曲が聞こえてくるような気持ちになることがしばしばあります。
 大抵、物語の中盤ですが、寅さんが旅に出ているとき、とらやに手紙が届いたり、「寅さんはどうしているかねぇ」とおばちゃん、さくらたちが噂(うわさ)をしている場面があります。

 そういうときの柴又は決まって雨。寅さんがいない故郷は、雨が降っていることが多いのです。
 今日のことばは、第41作『寅次郎心の旅路』の冒頭、寅さんの宿に届いたさくらからの手紙の一節です。

お兄ちゃんは薄着だし、外食が多いから栄養が行き届かないし、どうしても風邪をひきやすくなるのよ

 兄を気遣うさくらの手紙を、寅さんが読む宿屋の外にも雨が降っています。
 さくらは旅先の寅さんを案じ、寅さんはさくらに故郷を感じています。

 ぼくたちは、この兄妹のお互いを想(おも)う気持ちにふれたくて、寅さんがいつも柴又に帰ってくるように、「男はつらいよ」を繰り返し観るのかもしれません。


東京新聞、2014年4月30日
[寅さんのことば 風の吹くまま 気の向くまま]
番外編「さくら」
手紙で兄を想う気持ち

佐藤利明(娯楽映画研究家)
https://www.tokyo-np.co.jp/hold/2015/torasan/list/CK2014043002000174.html

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山崎望「1989年から世界はこんなに変わった」

1989年から世界はどう変わったか

「会社を辞めたのだけれど…」と告げに来た友人から、ことの経緯と顛末を聞いた。詳細は書けないが、会社が愛着の対象から、その理不尽な処遇に抗議をする場になり、「もう同僚と同じ部屋にいることすら耐えられない」状態になってしまったらしい。「辞める」という本人の判断を尊重したい、と思って黙っていた(正確には言葉がなかったのだが、それは文章末までお付き合い願いたい)。

「資本主義の世界だから、しょうがない。力もないくせにうるさいやつだった、という話でまとめられるだろう。いわゆる自己責任ってやつだね」と話す友人を見ながら、未だ世界が資本主義に覆われていなかった時代に想いを馳せた――。

 本稿では、「ポスト冷戦の世界」が出現した1989年との比較で、現代について考えてみたい。

「開かれた世界」や「自由民主主義」が希望に満ちて語られた1989年から30年が経ち、世界の様相は大きく変わったように見える。キーワードとなるのは「離脱」だ。

 現在、世界中で1989年の理想に逆行するかのように、自由主義や民主主義から、人びとや組織がそれぞれの論理で「離脱」することを求め始めているように見える。
 その背景では、人びとが他者との共存を拒否し、純粋な「われわれ」を求める機運が高まっているのかもしれない。

「ポスト冷戦の世界」とは何か

 さて、東西を分断していたベルリンの壁の崩壊(1989年)から、30年が経過した。当時の出来事を乱暴に図式化するならば、以下のようになるのではないだろうか。

 社会主義圏の東欧諸国で暮らしていた人びとの一部は自由を求めて西側へと脱出し、ある人びとは自らの国にとどまり、街頭に集まり異議を申し立て、ついには体制内改革派と協力して「東欧革命」という民主化を成し遂げた、と。

 A・ハーシュマン Albert O. Hirschman は『離脱・発言・忠誠、企業・組織・国家における衰退への反応』(ミネルヴァ書房、2005年6月)において、組織において人々が選択し得る行動として、「忠誠(loyalty)」「発言(voice)」「離脱(exit)」の三つの類型を挙げた。それにならえば、旧社会主義体制から人々が「離脱」し始め、とどまった人々は「発言」し、やがては社会主義体制に対する人々の「忠誠」は失われた、と整理できるだろう。

 30年前の「1989年」を象徴的な分岐点として、冷戦構造を特徴とした世界の仕組みは大きく変わった。

 経済面では、すでに西側陣営で胎動していた、政府の役割を抑制して市場原理に基づく競争を重視する新自由主義が旧社会主義圏を飲み込み世界に広がり、グローバルな市場が形成された。

 政治面では、旧社会主義圏のみならず、それ以前から進んでいた「民主化の第三の波」(S・ハンチントン)により、自由民主主義体制が政治体制のスタンダードと認識されるようになった。

 さらに国際社会では、グローバル化に対応するべく、主権国家に加えて多様な国際機関や地域共同体、企業や非国家的組織などのアクターから成り立つ「グローバル・ガバナンス(統治)」が模索された。

 以上、少々戯画化してはいるが、「ポスト冷戦の世界」は、冷戦構造に彩られた世界との対比で言えば、壁によって閉ざされていない「開かれた世界」、また「対立のない世界」として描くことができよう(もちろん旧ユーゴやパレスチナをはじめ、数々の重要な例外を忘れてはならないが)。北半球の大きな部分において、自由主義と民主主義の価値は疑う余地のないものとされ、国境を越える情報と経済の爆発的な広がりは、こうしたイメージを現実のものと人々に認識させることに大きく寄与した。

 再度まとめると、「1989年」とは、社会主義体制からの「離脱」に始まり、東欧革命にみられる異議申し立ての「声」を経て、開かれた対立なき世界――おそらくは自由民主主義の理念に支えられている――へと「忠誠」の対象が変化する契機となった年であった。

「逆回転」が起きた30年後の世界

 では友人が会社を辞めた2019年――1989年から30年が経った世界はどのようにスケッチすることができるのだろうか。

 経済面では、GAFAのような超巨大企業が国境を越える帝国の如き相貌を見せ、新自由主義は現代世界の「条件」となりつつある。M・フィッシャー Mark Fisher が『資本主義リアリズム』(堀之内出版、2018年2月)で書いたように「いまや資本主義の終わりより、世界の終わりを想像することの方がたやすい」。前出の友人の認識もまた同様であろう。われわれはそこから抜け出すことができない、新たな監獄の中で生きているのかもしれない。

 政治面では、世界のスタンダードとされてきた自由民主主義が揺らぎ、「権威主義化」が進んでいる。権威主義体制の中国やロシアは影響力を高め、ポーランドやハンガリーなど1989年以来、民主化を遂げてきた諸国の一部では、従来の動きに反するような「民主化の逆行」が起き、自由民主主義が定着していた諸国でさえ、その価値観に挑戦するポピュリズムが台頭している。

 他方では大規模なデモや占拠運動などの直接民主主義の復権が起きている。さらに国際社会では、グローバル化に逆行するがごとく、主権国家が存在感を取り戻し、「われわれ」と「彼ら」を分断する「壁」を求める声が大きくなっている

 こうした現代世界を、「ポスト冷戦の世界」とは対照的に、「再び壁によって閉ざされつつある世界」「対立が高まる世界」として、描くことができよう。自由主義と民主主義の価値を疑う声は広まりつつあり、皮肉にも国境を越える情報と経済の爆発的な広がりは、こうしたイメージを現実化する促進力となっている(このように単純に、二つの世界を描ききることには無理があり、現実には二つの世界は複雑にからまり、どの局面をみるかによって異なった相貌があらわれるのだが)。

国際的しがらみからの「離脱」

 現代の世界は、前出のハーシュマンの言葉を借りるならば、どのように表せるだろうか。それはグローバル化や自由民主主義に対して異議を申し立てる国家、政党や運動の広がりであり、それによってさまざまな対立が生れる世界であろう。

 ここで注目したいのは、「ポスト冷戦の世界」で根付いてきた「しがらみ」からの「離脱」が多発している、という現象である。その先にいかなる世界が広がるのであろうか。グローバルガバナンスや自由民主主義に対する「異議申し立て」の「」に始まり、そこからの「離脱」、さらに「忠誠」の対象が変化しているのではないだろうか。

 離脱の中でも、Brexitは世界に大きな影響を与えた。もはやイギリスはEU内部にとどまり声をあげるのではなく、そこから離脱することを民主主義によって選んだのである。それは欧州統合のプロジェクトに対する「忠誠」の消滅である。

 こうした離脱は、イギリスのみで起きている動きではない。ポピュリズムによって大統領の地位にトランプを押し上げたアメリカは、パリ協定からも、TPPからも、イランなどと核合意からも離脱した。メガ経済圏が模索される中で、インドはRCEPの交渉からの離脱を宣言した。G8から「離脱」していた核大国であるロシアはINFからも離脱し、極東ではGSOMIAから韓国が離脱の姿勢を見せた。

 問題は、ポスト冷戦の時代に育まれつつあったグローバルガバナンスの仕組みから、国家が離脱しつつある、というだけにとどまらない。

 Brexitをしたイギリスからはスコットランドが離脱する可能性も指摘されている。こうした底流には「しがらみ」に抗う声をあげ、そこから離脱し、忠誠を誓う「われわれ」を求める人びとの姿がある。

自由主義からの「離脱」

 さらに30年前、社会主義圏の人びとがそれを求めて声をあげた自由主義から離脱しようとする人びともいる。『民主主義を救え!』(岩波書店、2019年8月)を著した若手政治学者のY・モンク Yascha Mounk(1982年生まれ)によれば、グローバル化がもたらした自由の果実から「取り残された」人びとは、自由がもたらす荒波からの離脱を試みている。

 人びとはポピュリズムという形で「人民people」の正統性を掲げ、自分達を置き去りにするエリートや、自由の果実を奪うと考える移民や少数民族を排斥する声を上げている。世界を席巻するポピュリズムの背後に、自由主義の下で行われる競争から「取り残された(もしくは、その不安を感じる)人びと」がいることが実感できるだろう。

 その中には「多数派」とされてきた人びとさえ含まれている。少数民族の権利、信仰の自由、同性愛者の権利といった「政治的正しさpolitical correctness」に脅威を感じる人々も、自由主義からの離脱を試みている。こうしたポピュリズムが国家権力を掌握した場合、多数派の国民に支えられて自由主義から離脱していく「イリベラルデモクラシー」と呼ばれる政治体制へ移行する事例が指摘されている。いわば「自由主義なき民主主義」である。

 これらの人びとは閉ざされた壁の向こうに広がる自由の海に飛び込むよりも、自由がもたらす格差、貧困、共同性や自己決定権の喪失に抗い、新たな壁を築く国家や共同体を追い求める。壁の内側では、慣れ親しんできた生活様式を掘り崩すような自由は追放され、自分達の脅威となりかねない見知らぬ他者と出会うこともない。不愉快さや違和感、さらには恐怖感をもたらす他者のいない、純化された「われわれ」が守られることになる。

「自国民優先主義」と批判されようと、排外主義と批判されようと、そこに自由主義からの離脱を願う人々の声(voice)があることは確かである。この点では欧州の右派勢力も、アメリカのオルタナ右翼(オルト・ライト)も、ロシアのナショナリストも、アジアの排外主義者も、日本のレイシストも一致している。

民主主義からの「離脱」

 他方では、民主主義からの離脱を試みる人びともいる。グローバルな市場に君臨するGAFAに象徴される超国家的な企業にとってみれば、自分達の経済活動を国境に縛り付け、自由を制約する決定を行う民主主義は「足かせ」に過ぎない。そもそも企業が統治する領域と民主主義の相性は悪い(E・アンダーソン Elizabeth Secor Anderson (born 5 December 1959)『プライベート・ガバメント』Private Government: How Employers Rule Our Lives (and Why We Don't Talk about It). Princeton, NJ: Princeton University Press)。

 労働組合の組織率の低下が恒常化する世界で、社長を全従業員の投票や熟議によって決定すべき、と考える企業は少ないだろう。労働環境から経営方針に至るまで、社員もしくはステークホルダーで民主的に決定すべき、と考える人びとの声はまだ弱い(松尾隆祐(1983年生まれ)『ポスト政治の政治理論、ステークホルダー・デモクラシーを編む 』法政大学出版局、2019年8月)。

 むしろ、シリコンバレーのスタートアップ起業家であるC・ヤーヴィンのように「自由と民主主義は両立しない」という確信に至り、民主主義からの離脱(exit)を求める人びともいる。彼らの考えは、超国家的な企業群から成り立つ諸都市を中世のように専制君主が統治する「新反動主義」として着目されている(木澤佐登志(1988年生まれ)『ニックランドと新反動主義、現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』講談社、2019年5月)。

 これらの民主主義からの離脱を求める企業も、自らの活動にとって障害物のない、純化された「われわれ」による場を求めている。そこには、自分達の経済活動の妨げになるような意見を持つ他者との共存から逃げられない、民主主義という制度は存在しない。

 多様性が称賛されるとしても、あくまで経済的な利潤の追求や「生産性」のための多様性であり、それに貢献しない多様性は歓迎されない。実際、多様性を謳う企業内で、貧困者や能力の低い人の姿を見つけることは難しい。民主主義から離脱する人びとが求めるのは「民主主義なき自由主義」の世界である。

 主権国家の自律性の回復を訴える国家主義者や、「国民第一主義」を訴えるナショナリストは、グローバルガバナンスのための条約や枠組みからの離脱を主張する。権力を民衆に取り戻せ、と主張するポピュリストは、自由な世界市民に解消されない「われわれ」を構築し、自由主義からの離脱を訴える。自由を規制されない経済活動を目指す超国家企業は、民主主義からの離脱を模索する。

 現代世界を変化させているさまざまなアクターは、「ポスト冷戦の世界」からの離脱を目指している、という点で共通している。現代世界は「離脱の時代」という観点から捉えることができるかもしれない。

「離脱」は、「声」とは異なる。
「声」は同じ組織や国家の内部で、ゲームのルールを共有した上での、異議申し立てや対立である。これに対して「離脱」は国家や組織から出ていくことであり、ゲームからの退出でもある。

他者と共存したくない、という欲望

 では、なぜ「離脱」が多発しているのだろうか。冷戦の終焉に象徴されるさまざまな「壁」の解体は、われわれに東西が対立する冷戦構造下の「われわれ」からの離脱の機会をもたらした。しかし、人びとはゲームのルールが共有されない中で、新たな「われわれ」を作ることの難しさに直面した

開かれた、対立なき世界」で生きることに困難を覚え、あるいはそれに反発した人びとは、再び壁を作り、「閉じられた、対立のある世界」で生きることを切望している。この壁を作り、「われわれだけの世界」を作ろうという欲望には、離脱の欲望が胎胚している。それは自分にとって、不快な、もしくは危険になるかもしれないような他者との関係から離れ、関係を断ちたい、という欲望である。換言すれば、それは他者と共存したくない、という欲望である。

 個人レベルであれ、国家レベルであれ、こうした欲望を持つ離脱者たちは、自らの脆弱性を正面から認めることが難しい点においても共通している。国家や民主主義から離脱して、個人の能力でグローバルに広がった新自由主義の大海を泳ぐことを望む人々も、グローバルガバナンスや自由主義から離脱して、国家や民族という名の壁の内部で心地よい同胞と共に生きることを望む人々も、この意味では同じである。

 ここまで描いてきた状況は、人びとが、脆弱性を補ってきた関係の網の目――それは時に国家という組織の形をとり、自由主義や民主主義という原理によって動く――から離脱しようとしている状況と言い換えられよう。

 国境を越える組織や条約から離脱した国家。未曽有の力を持ち成長を続け、国家や民主主義から離脱を試みる超巨大企業。ポピュリスト政治家に権力を与え自由主義から離脱した民衆…。彼らは、確たる未来や力強さよりも、先行きの不透明感や傷つきやすさ(=脆弱性)に直面しているかに見える。離脱という力強い自己決定をしたにもかかわらず、である。

 人びとが共存するゲームのルールから離脱することはできても、その先、新たに共存のためのゲームのルールを共有する人びとに出会えるとは限らない。離脱したその後、それでも現実には消え去らない他者と、どのような関係を築くのか。離脱者たちは途方に暮れ、場当たり的な対応を繰り替えしているのではないだろうか。

「対話」は解決になるのか

 こうした状況に対して、民主的で自由な対話を推奨する人びともいる。しかし対話を繰り返すことは、新たな合意を作るというよりも、むしろ、われわれを束ねている条件の自明性を失わせていくのではないだろうか。われわれを束ねているものが自明でないということに気づいた人びとが、そこから離脱することは不思議ではない。

 ここでは民主的で自由な対話の過剰さこそが、離脱への動機づけを生み出す。Twitterの世界と同様、「炎上」するよりも、ブロックをするなり、アカウントを消し「離脱」した方が賢明――そうした感覚が蔓延するかもしれない。

 これに対して、民主的で自由な対話を減らして、伝統や文化を背景にした「以心伝心」を推奨する人びともいる。しかし問題は、すでに伝統や文化の基盤自体が融解しつつある現代において、「以心伝心」は難しい、という現実である。「あなたの常識は私の非常識」となるような現代世界で、内容を伴っていない「以心伝心」のようなものを押し付ける行為は、規範を共有しない人びとを離脱させる衝動を高めることになるだろう。

離脱の先に何があるのか

 そもそも人間は他者と共に生きざるを得ない、相互に依存しあう社会的な存在ではなかっただろうか(他人に全く依存することなく一生を過ごすことができる人間がいるだろうか?)。
 そうした他者と何らかの関係を作っていく政治という営みが不可欠な政治的存在ではなかっただろうか。

 他者の存在抜きには、自らの存在を形づくることも、自らを作り直す機会を得ることも困難である。
 離脱の欲望は、人間を、われわれが知っている社会的存在や政治的存在とは異なる何者か、に導いている「ハーメルンの笛吹き」なのではないだろうか。

「1989年」が象徴的に押し開いた、進展するグローバル化、すなわち国境を越えて統治し、また自由主義と民主主義がスタンダードとなる世界。それに対して現代を、国家や民族が復権し、また自由主義や民主主義に異議申し立ての声をあげる権威主義がする世界としてスケッチするだけでは十分ではない。
 いかなる組織や政治共同体に対して「忠誠」を持つのか、また現存の体制の在り方に対して声を上げるのか否か――こうした政体の在り方は、自由主義や民主主義にかかわる政治学の「伝統的」な議論だと言えるが、その裏で、ゲームのルールを共有する忠誠や声ではなく、ゲームのルールを共有しない離脱が増殖しているからである。

 いったい、離脱の行く先に何があるのか。

「会社を辞めたけれど…」とつぶやく、会社を「離脱」した友人を批判するつもりはない。むしろ今後の活躍を期待している。
 しかし同時に、世界に広がる離脱者たち――超国家企業から、権威主義化する国家、ポピュリズムを支持する人びとまで――と共鳴する友人のつぶやきに応えるだけの言葉を私は持ち合わせていない。

 冒頭、私は友人のつぶやきに耳を傾け、黙ったのではない。離脱する人びとに応える言葉がなかったのである。
 離脱する人びとに応じる、いかなる言葉があるのか。探しあぐねるのは自分だけではないかもしれない。

現代ビジネス、2020.01.12
世界中が「他者との共存」を拒否し「離脱」を求め始めた現代について
1989年から世界はこんなに変わった

(山崎 望、1974年東京生まれ、駒澤大学教授)
https://gendai.ismedia.jp/list/author/nozomuyamazaki

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2020年01月12日

子規の明治

 明治になってから今年2018年で150年になります。
 俳句の世界で「明治」といえば正岡子規(1867 - 1902)を思い浮かべますが、子規が生きた明治とはどのような時代だったのか、考えてみたいと思います。

 明治時代の大きな特徴は、それが強烈な「国家主義の時代」だったことです。
 現代人は明治時代の日本人も今と同じ考え方をしていたと、何となく思っているのですが、それでは明治という時代、そこに生きていた日本人が見えてきません。

 では明治はどんな時代だったのか。
 江戸幕府は幕末、それまで200年以上つづいた鎖国政策をやめて開国します。
 それはヨーロッパやアメリカの「列強」と呼ばれる大国が、世界に植民地を求めて争う「帝国主義の時代」の真っ只中でした。
 東アジアの大国中国は、アヘン戦争でイギリスに敗れて半植民地になっていました。
 小さな島国である日本も、一つ間違えば列強の植民地にされかねない危機的な状態でした。

 そこで明治維新の指導者たちは、日本が列強の植民地とならないよう、天皇から庶民にいたるまですべての国民が国のために働く、という「国家主義」を新しい日本の大方針として掲げたのです。

 元号が明治と改まる年、明治天皇は施政方針「五箇条の御誓文」を発表します。
 そこには「官武一途庶民ニ至ル迄 各其志ヲ遂ゲ 人心ヲシテ倦マザラシメンコトヲ要ス」とあります。

 これは公家や武家から庶民に至るまで、国民全員が能力を発揮して志をとげよう、ということです。
「戦後の個人主義」では、個人の能力は一人ひとりの欲望実現のためにあるのですが、「五箇条の御誓文」の「各其志ヲ遂ゲ」とは、国民全員がその持ち場で能力を最大限に発揮して、日本を列強のような強い国にしようという「国家主義」の宣言でした。

 正岡子規は明治元年の前年に四国の松山で生まれました。
 子規の年齢は明治の年数と同じで、子規は明治という時代とともに、国家主義の空気を全身に浴びて成長しました。

 明治の大人は、子どもが新国家建設に役立つ「有為の人」になることを願い、明治の子どもは「有為の人」になろうとしました。
「末は博士か大臣か」という言葉も残っていますが、「明治の国家主義」を庶民の側から眺めると、それは立身出世ということでした。

 子規は少年時代、政治家になって出世し、国を動かすことを夢に見ました。
 しかし子規が生まれた松山藩は明治維新の賊軍であり、薩摩・長州の藩閥政府の中では出世の道は閉ざされています。
 しかも子規は病弱だったので、政治家になって志を果たす時間の余裕がありませんでした。

 そこで子規は政治家になることを断念し、文学者になろうと決意します。
 これも現代人が小説家や詩人になるのとは違って、政治の世界でやろうとした仕事を文学でやろうとしたのです。

 子規が新聞記者になるのも、結核にかかっていたのに日清戦争に従軍にするのも、政治家としての志を文筆で果たそうとしたからです(ヤッホーくん注1)。
 このように子規の行動は、「明治の国家主義」を背景にして、はじめてその意味が鮮やかに浮かび上がります。

 子規の業績の一つとして、「写生」という近代大衆文学の方法を提唱したことがあげられます。
 子規はこの写生をまず俳句で唱え、次に文章と短歌に応用してゆくのですが、そもそも子規が写生という方法を思いついたきっかけは、西洋絵画のデッサンでした。

 西洋絵画にはデッサンという方法があって、人物でも風景でも静物でも絵筆で描けば一枚の絵ができあがる。
 それならば俳句でも対象を言葉で描けば一句ができるはずだ、子規はそう考えました。

 絵筆と言葉を同じに考えていいのか、という疑問がすぐ湧き起こりますが、疑問を無視してやってしまうのが子規の無邪気さであり、明治の無邪気さでもありました。

 さてここで大事なのは、子規が西洋絵画を手本に写生を考え出したという点です。
 明治政府は日本を西洋の列強諸国に太刀打ちできる国にするために、西洋文明を日本に移植する、いわゆる西洋化の方針をとっていました。

 それを明治時代の言葉で「文明開化」といいます。
 文明開化とは平たくいえば西洋の真似をすることでした。
 子規の提唱した写生が西洋絵画の真似だったことは、明治政府の西洋化の方針と一致していたわけです。

 晩年、子規は新聞に「歌よみに与ふる書」を発表して短歌の革新にとりかかります。
 そのなかに「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集にて有之候」という一節があります。

 子規が名指ししている「古今集」は平安時代のはじめ、紀貫之らによって選ばれた和歌の聖典です。
 子規は新聞でその選者の貫之を「下手な歌よみ」とののしり、「古今集」を「くだらぬ集」とこき下ろしたのです。
 政治家のアジ演説そっくりです。

 こうして「古今集」をおとしめる一方で、子規は奈良時代に作られた「万葉集」を絶賛します。
 ではなぜ子規は「古今集」をけなして「万葉集」をほめたのか。
 これもまた明治政府の方針と関係があります。

 明治政府は天皇中心の強力な集権国家を目指したのですが、モデルにしたのはまずイギリスやドイツのようなヨーロッパの君主国でした。
 それだけでなく昔の日本にも新国家のモデルを求めようとしました。

 ところが日本史を振り返っても、平安時代は摂関家の藤原氏が政治を独占し、鎌倉時代以降は、武家の幕府が政治を取り仕切ってきました。
 つまり日本の歴史には天皇親政の時代などほとんどないのです。

 唯一、天皇が親政を行ったのが奈良時代でした。
 そこで明治政府は奈良時代を天皇親政の理想に掲げます。
 子規が平安時代の「古今集」をけなし、奈良時代の「万葉集」を褒めたのは明治政府の平安軽視、奈良賛美に添っているわけです。

 このように子規の仕事は、明治政府の方針の文学への応用という側面をもっていました。
 それは天皇から庶民まで、すべての日本人は新しい国のために役立つ「有為の人」でなければならない、そうしなければこの小さな島国は西洋列強の植民地になってしまう、という国家主義的な危機感が、いかに強く明治という時代をおおっていたかということです。

 NHKのテレビドラマにもなった司馬遼太郎の「坂の上の雲」は、前半は子規や秋山兄弟を描く青春群像小説です。
 ところが、1901(明治34)年の子規の死を境にして後半は日露戦争を描くキナ臭い戦争小説に変わります(ヤッホーくん注2)。
 なぜそうなるのか。

 そして、日露戦争後、日本は徐々に昭和の戦争という破滅に向かって進んでゆきます。
 その理由をめぐって、日露戦争を境に日本人が好戦的な民族に変わってしまったという考え方もあります。

 しかし今日みてきたように、それは明治という時代が誕生したときから孕んでいた国家主義が、しだいに牙をむき出してきたのではないでしょうか。
「国のために生きる」という明治の国家主義が、いつの間にか「国のために死ぬ」という昭和の国粋主義に変わってしまった。

 その国粋主義がもたらした破局の末、戦後の日本人は明治の国家主義に代わるどんな理想を獲得したのか、あるいは何も手に入れなかったのか。

 日本人の理想が、この150年間にどう変わったのか、明治150年の今年はそれを考える絶好の機会です。


NHK(視点・論点)、2018年02月23日 (金)
子規の明治
(俳人 長谷川櫂、1954年生まれ)
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/290863.html

(ヤッホーくん注1)[動画]

 1895(明治28)年10月、正岡子規は松山から東京へ向かう途中に立ち寄り、一代の名句を詠んでいます。

「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」

 子規は東大寺転害門(てがいもん)の隣に宿をとりました。
「對山楼(たいざんろう)」で、明治政府の要人や文化人が泊まった奈良屈指の名旅館でした。
 子規は對山楼で柿を食べたことを書き残しており、「鐘」は庭から間近に見える東大寺の鐘の音が着想ではないかと言われています。
 春には日清戦争に従軍し、秋に奈良見物を楽しんだ子規の明治28年は、カリエスの発症とともに暮れていきます。
 子規最後の旅は、7年に及ぶ闘病生活の始まりとなりました。

※ この動画は、2009年に放送したものです。


NHK・動画で見るニッポン、みちしる
東大寺 正岡子規 最後の旅
奈良屈指の名旅館 對山楼

https://www2.nhk.or.jp/archives/michi/cgi/detail.cgi?dasID=D0004260010_00000

 NHKの大河ドラマ「坂の上の雲」では、秋山兄弟とともに子規もよく出てくるはずですが、子規は、奈良にも立ち寄っています。
 有名な「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」という句を法隆寺の境内で詠んでいます。
 この法隆寺のある斑鳩の里は、柿も多くとれます。
 正月用の干し柿も多くの農家で作られています。
 この句を詠んだ時に子規は甘柿を食べたのでしょうか、干し柿を食べたのでしょうかと疑問に思いました。

 法隆寺と柿を一緒に撮れるところはないものかと、散々探したことがあります。
 そして、法隆寺の五重塔の見える立派な柿畑を訪ね当てました。
 そして、1個、失敬しました。
 皮をむくことなく、ハンカチで拭いてがぶりといったのですが、ものの見事に渋柿でした。
 口の中が、しばらく渋くて、やはり悪いことは出来ません。
 こういう観光客が来るところは、渋柿を植えているものだと納得しました。

 しかし、子規が法隆寺を訪れたのは、10月26日です。
 干し柿には少し早いので、境内で食べたのは、甘柿だったのでしょう。
 子規がこの句を詠んだ日の10月26日に因んで、この日は「柿の日」に制定されています。

 子規は、この年、日清戦争への従軍を希望し、近衛連隊付きとなって、旅順などを回っています。
 そして、5月17日の帰国の船上で喀血。
 5月23日には、県立神戸病院に入院しています。
 その後、8月には退院して、郷里の松山に戻り、松山中学校教員をしていた夏目金之助(夏目漱石)の下宿に転がり込んでいます。
 秋になって、松山を立ち、10月26日に法隆寺を訪ねたということです。
 このあと、どこに行ったかは、わたしは知りませんが、宿泊しましたのは、登大路の交差点を北に行った旅館「對山楼」でした。

 今、ここは、日本料理の「天平倶楽部」になり、子規の孫にあたる正岡明(64)氏が「子規の庭」を造園しています。
 子規の孫さんは、意外や、造園師になっているのです。
 子規は31日には、東京に戻っています。

 子規は結局、妻帯していません。
 子規の妹の律は結婚しましたが、子規の面倒をみる必要があったのでしょう、離婚しています。
 小説を読んでおられない方は、テレビの中で菅野美穂演じる律が、東京に出て来るので、秋山真之と結婚するように思われる方もおられるかも分かりませんが、実際は、結婚いたしません。

 子規は、上京するにあたって、叔父で外交官の加藤拓川の世話になります。
 拓川は、新聞「日本」社主でジャーナリストで親友の陸羯南(くがかつなん)に子規の面倒を依頼します。
 子規は「日本」の紙面で、俳句や短歌の革新を進めることになりました。
 これなくして、子規の人生は変わっていたでしょう。
 この拓川の三男の忠三郎(明氏の父)氏が、子規の妹、律の養子となって正岡家を継ぎました。
 したがって、明氏は、拓川氏の実孫でもあり、律の孫にもなります。

 子規は、「律なしには一日も生きていけない」と書いています。
 病魔に侵されながらも、気丈夫に次々と作品を発表しながらも、律には安心して、頼ったようです。

 子規は、「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」を詠んで以降、奈良には来ていないようです。
 明氏が、なぜ奈良に住むようになったのか、一度、聞きたいと思っています。
 子規は、仏像や宗教にはあまり興味を持たなかったのでしょう。

 飛火野(とぶひの)に近い破石町(わりいしちょう)には、志賀直哉(1883 - 1971)が住んだ家が残っており、直哉はここでサロンを作り、多くの文学者が訪れました。
 平城遷都1300年で、再び奈良が文化的な色彩を濃くすることを期待します。


山口増海のブログ、2009年12月9日水曜日
正岡子規と奈良
http://yamaguchi-masumi.blogspot.com/2009/12/blog-post_09.html

(ヤッホーくん注2)[動画]

 東京・田端。坂の多いこの町に正岡子規の墓があります。
 1902(明治35)年9月19日、明治の時代とともに生きた正岡子規は、35歳でその生涯を閉じます。
 遺体は、田端の大龍寺(だいりゅうじ)に葬られました。
 今も墓前には、子規の好きだった花や果物が絶えません。

※ この動画は、2010年に放送したものです。


NHK・動画で見るニッポン、みちしる
東京 田端
子規の墓

https://www2.nhk.or.jp/archives/michi/cgi/detail.cgi?dasID=D0004260019_00000

『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こころ』……
 数々の名作を世に残した文豪・夏目漱石が没して今年2016年でちょうど100年。
 漱石は小説、評論、英文学など多分野で活躍する一方、慈愛に富んだ人間味あふれる紳士でもありました。
 そんな漱石の「日常」を辿りながら文豪の素顔が見える逸話を取り上げ、小説、随筆、日記、書簡などに綴った「心の言葉」とともに毎日お届けします。

■ 今日の漱石「心の言葉」

風に聞け いずれか先に 散る木の葉
(『俳句』より)

[1903年1月27日の漱石]

 今年20⒗年から113年前の今日、すなわち1903(明治36)年1月27日、数え37歳の漱石は東京・田端にある大龍寺へ足を運んだ。
 目指す墓前にたどり着くと、線香を手向け手を合わせていく。

 墓は一本の白木の角柱。
「正岡常規墓」と書かれている。
 常規(つねのり)は正岡子規の本名である(通称は升/のぼる)。
 土葬のため、あたりは土が幾分か盛り上がっている。

「この下に子規が眠っている」

 漱石はそこに子規の影を見る思いで、ぐるぐると周囲をめぐってみる。

 子規と漱石は、一高在学中の数え21歳の頃から親密な交際をはじめた。
 ともに学び、ともに遊び、切磋琢磨し合ってきた。
 その親友が、漱石のロンドン留学中、1902(明治35)年9月19日に亡くなっていた。
 出立前からお互いに「もはや生きて会うことはできないだろう」と覚悟はしていた。
 その思いを抱きつつ、海を超えて手紙や絵葉書をやりとりしていた。
 漱石が子規の訃報を知るのは、帰国の船に乗るわずか10日ほど前だった。

「間に合わなかったか」

 覚悟はしていても、二度と会えぬ親友の笑顔を思い浮かべれば、漱石の中に痛切の思いがよぎった。
 漱石はこの日の墓参のことを、こんなふうに綴っている。

《霜白く空重き日なりき 我西土より帰りて始めて汝が墓門に入る爾時(そのとき)汝が水の泡は既に化して一本の棒杭たり われこの棒杭を周る事三度 花をも捧げず水も手向けず只この棒杭を周る事三度にして去れり 我は只汝の土臭き影をかぎて汝の定かならぬ影と較べんと思ひしのみ》
(未定稿『無題』)

 漢文調の書き付けには、友の冥福を祈る経文のような響きさえ感じられるのであった。


[写真-1]
東京・田畑の大龍寺に正岡子規の墓を詣でたときのことを綴った、漱石の未定稿『無題』。《水の泡に消えぬものありて逝ける汝と留まる我とを繋ぐ》と書き出される。写真/神奈川近代文学館蔵

[写真-2]
夏目漱石(1867 - 1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

[写真-3]
横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

サライ、2016/1/27
日めくり漱石/1月27日
夏目漱石、英国留学中に逝った親友・正岡子規の墓前で悲痛に耐える。
(矢島裕紀彦)
https://serai.jp/hobby/39176

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関川夏央「最後の八年」

 著者関川夏央(1949年生まれ)による書名の「最後の八年」とは、1895(明治28)年から1902(明治35)年までのことである。
 明治と言う元号の年数と年齢が同じ正岡子規、そのひとのの28歳から35歳までの時期と同時に、その時代というものが描かれる。

 なぜ、明治28年からか。
 その年、記者として日清戦争に従軍した帰途の船中で、大喀血(かっけつ)が起った。
 結核菌が子規の腰骨を侵しはじめた。
 好奇心旺盛で、闊達(かったつ)な精神をもつ男が、以後しだいに歩行困難となり、やがて寝返り困難とまでなっていく。
 つまりは、歩行と引き換えにいかなる仕事をなしたか。
 その仕事は世界とどうつながっていたか。

 すでに子規については決定版と呼べる全集が編まれ、生涯についても多くの証言や研究が積まれ、博物館や旧居には手紙や書画や写真などの資料があふれている。
 それにもかかわらず、子規についてのあたらしい本が、ある切迫感さえ伴ってなお書かれるのはなぜか。

 語っても語りつくせないということは、まず、その相渉(あいわた)った領域が見定めがたい、その時代が要約しがたい、というその渾沌(こんとん)ぶりにあるだろう。
 また、俳句だけのことではない、短歌だけのことではない、文芸だけのことではないその横断していく先の、子規に見えていたヴィジョンの重要性が考察されるべきだという、今日的な課題に対応しているとも思える。

 一年ずつを枠取りすることで、この本の著者もその渾沌と向き合っている。
 そしてその正体は、年を追って、子規が次々と取り組むものにおいて明らかになる。
 すなわち俳諧革新、和歌革新、文章革新、そして写生画。
 著者の工夫は、たとえば、世界の「蛮力」とのあいだで緊張する古い日本をとらえなおし、現代日本語の書き言葉の起源を子規に確かめようとするところなどにある。
 また、雑誌と出版により文芸を実業にしようとした弟分の虚子を描くにも、微妙で肝要な近代への検証が働いている。

 詩歌の機微を見ながら、文芸の領域を超え、多次元をひとつの語りで語りとおすことはむずかしい。
 依然として課題はあふれたままであるにせよ、過去の成果を冷静に踏まえての、あらたな一標準と呼べる子規評伝が書かれたことを喜びたい。

※ 日本経済新聞・朝刊、2011年5月29日付


日本経済新聞、2011/5/31
関川夏央『子規、最後の八年』(講談社、2011年3月)
語りつくせない渾沌と向き合う

[評者]平出隆(詩人)
https://www.nikkei.com/article/DGXDZO29398340Y1A520C1MZB001/

 自作小説「月の都」を携え、幸田露伴を訪ねた子規だったが、この訪問は残念ながら、小説家をめざしていた子規を諦めさせる結果となった。

 子規は「月の都」執筆以前にも、「龍門」「銀世界」「山吹の一枝」など習作を書いている。
 このうちの「銀世界」は知人に回覧され、編末に無名の評が付記されているが、一つは夏目漱石と考えられている。

 露伴訪問後の高浜虚子あての子規の手紙(1892(明治25)年5月4日)に「僕は小説家となるを欲せず詩人とならんことを欲す」と書かれている。
 この手紙は小説で身を立てる難しさを悟り、それでも他の形で文学を志す決心を示したものだろう。
 子規がしだいに俳句に打ち込んでいく、その背景がみえてくる。

 露伴との交友は、訪問をきっかけに続いている。

 1892(明治25)年下谷区上根岸88番地金井ツル方に転居した子規は、12月1日から『日本』新聞に出社し、郷里の母・八重妹・律を呼び寄せて正月を迎える。
『日本』の陸羯南(くがかつなん)の住居の西隣だったことが、子規を『日本』に近づける要因となった。
 陸と親しく交流。
『日本』に俳句欄が新設されている。

 同年1893(明治26)3月、帝国大学中退。
 翌1894(明治27)年に、今度は陸羯南宅東隣に位置する上根岸町82番地に母妹と転居した。
 子規26歳のこと。
 ここが≪子規庵≫で、この住居で子規は生涯を閉じることとなる。

 この年に千住や王子、川崎大師を巡り句作、12月に道連れ一人と開通したばかりの総武鉄道に乗って、終点佐倉まで足を運んでいる。
「鉄道は風雅の敵ながら新らしき鉄道に依りて発句枕を探るこそ興あらめ」で始まる俳文で、≪子規子≫の名を用い、「総武鉄道」の題で1894(明治27)年12月30日付『日本』新聞に掲載された。

 まず本所の割り下水で句を詠み、本所駅へ。
 この年は日清戦争勃発(ぼっぱつ)年で、旅客の老女が旅順について話すのを観察。
 発車時刻が来たが騒ぐ気配もなく、ようやく発車ベルが響き汽車に乗った。
 車内で切符を切ることに興味を抱き、鉄道馬車のようだと思い、「鴻の臺を左に眺めて車は転じ江戸川の鉄橋を渡り」市川に着いた。...

千葉日報、2009年4月2日 09:37
房総の作家
総武鉄道に乗車
正岡子規

https://www.chibanippo.co.jp/culture/bousou/101

 子規は総武線の佐倉駅で下車し、「霜枯の佐倉見上ぐる野道かな」と野道を歩いて、武家屋敷を右に折れ町通りに出た。
 東京を出立し、一時間余しか経過していない子規の目に「何もかも淋しき心地す」と「総武鉄道」(『日本』新聞・明治27・12・30)で書いている。

 海隣寺が「清国捕虜廠舎(しょうしゃ)」に使用されているのを眺めるが、この年は日清戦争勃発(ぼっぱつ)の年で、佐倉にも押し寄せた時代の反映を見て、遠国から連れてこられた捕虜を哀れんでいる。

 佐倉は森鴎外も軍医として度々訪れ、町中に泊まったこともある土地。

 坂の上から印旛沼を眺望。
 堀の内が昔は城だったが今は営所に用いられていると聞き詠んだ句。

「常盤木や冬されまさる城の跡」(現在、句碑が佐倉城跡公園の中に建っている)

「古沼の境もなしに氷かな」。

 もとの道を引き返して佐倉駅に戻ったところ、花嫁が馬に乗って親父と思える人の後にしたがっていくのに出会った。
「馬に乗る嫁入見たり年の暮」の句を詠んでいる。
 東京に住んでいる子規には下総の風俗が珍しかったのだろう。
 佐倉からは汽車で黄昏に本所駅に戻った。

 佐倉で、日清戦争の影響を眺めた子規は、新聞社にいながらも文学欄を担当し、従軍できない情けなさを思い、日清戦争の従軍記者を自ら希望する。

 翌1895(明治28)年3月、故郷・松山の墓参を終え、河東碧梧桐(へきごとう)と高浜虚子(きょし)に後事を託し、4月に近衛連隊付記者として金州に渡っている。
 大連湾から旅順に行くとき「房州通ひ位の蒸汽」に乗ったと、同1900(明治33)年に執筆した「我が病」に出ている。
 房総旅行で保田から乗船した舟が印象に残っていたのだろう。
 金州では森鴎外を毎日のように訪問している。

 意気に燃えた子規だったが、一ヶ月後日清講和が成立し帰国する船中で、激しく喀血(かっけつ)。
 容態が悪化し担架で神戸病院に運ばれる。
 この病魔が子規を苦しめることとなる。

 六分通り回復した子規は、8月下旬に松山に帰省。
 松山には同年1895(明治28)年4月から松山中学に赴任した夏目漱石が、上野義方の離れ家を借りて住んでいた。
 漱石は、東京高等師範学校教授の座を投げ打って都落ちし、中学教師に甘んじていた。...

千葉日報、2009年4月9日 09:34
房総の作家
佐倉城址へ
正岡子規

https://www.chibanippo.co.jp/culture/bousou/100

 近代国家日本の最初の対外戦争である日清戦争が始まると、元来が武家意識の塊であり、しかも新聞記者でもある子規は、自分も従軍したくてたまらなかった。
 しかし結核をわずらい、体力には自身がなかったため、周囲の反対もあってなかなか実現しなかった。

 だが記者仲間の五百木瓢亭が従軍して、戦場からのレポートを「日本」に発表したりするのを目にするにつけ、従軍志望はいよいよ高まった。
 そしてついにその願いがかなう日が来る。
 1895(明治28)年4月28日、子規は第二軍近衛師団にしたがって、戦場へと赴くことになる。
 その際景気付けに詠んだのが次の句である。

 行かば我れ筆の花散る所まで

 子規は意気揚々として遼東半島の金城に上陸したが、その時戦争は既に終わっていた。
 子規が上陸した2日後には、日清講和条約が締結される。

 だから子規が現地で見たものは、戦争の光景ではなく、戦後の荒れ果てた眺めであった。
 それでも子規は、従軍の様子を記録に収め、「陣中日記」と題して「日本」に送った。
 俳句入りの雑報といった体裁のものだが、もとより生々しい戦争の記録といったものではなく、文学味豊かな紀行文ともいうべきものだった。
 その折に添付された句のうちのいくつかを次に示そう。

 一村は杏と柳ばかりかな

 古寺や戦のあとの朧月

 戦のあとにすくなき燕かな

 この従軍は子規の健康に災いして、日本へ帰る船の中で大喀血を引き起こすにいたり、やがて彼を寝たきりの状態まで追い詰めることとなる。

 だが一方で収穫がないわけでもなかった。
 そのひとつが鴎外との親交を深めたことである。
 鴎外は子規と時期を同じくして、近衛師団軍医部長として金城に駐留していたのだった。

 子規は鴎外とは始めて会うわけではなかった。
「日本」の記者として、既に文名の高かった鴎外とは仕事を通じて接する機会があった。
 だが異国のしかも戦場で再会した二人は、それこそ胸襟を開いて語り合ったことだろう。
 鴎外の日記には子規と俳諧のことを談じたという記録が残っているし、また戦場で子規と懇意になったことは非常に幸せだったと、後年柳田国男との談話の中で語っている。

 子規と鴎外との交友は日本へ帰ったあとでも続いた。
 翌1896(明治29)年の正月には、子規庵での発句初めに鴎外も招かれて参加し、それ以後何度か運座に加わっている。
 漱石や虚子も加わったある運座の席では、鴎外が最高点をとった。
 そのときの主なメンバーの句は、次のとおりである。

 おもひきって出で立つ門の霰かな 鴎外

 雨に雪霰となって空念仏     漱石

 面白う霰ふるなり鉢叩      虚子

 子規のほうでも、鴎外が創刊した雑誌「めさまし草」に、一門を挙げて俳句や評論を寄稿して、花を添えてやった。

 こうした二人の交友は鴎外が小倉に転勤する1899(明治32)年まで続いた。
 その間柄は、親しき中にも礼儀ありといったものだったようだ。
 漱石や虚子に対しては、お山の大将振りを発揮した子規も、5歳年長の鴎外に対しては、礼儀をもって接していたのだろう。


壺齋閑話、2009年1月10日 21:53
子規と鴎外:日清戦争への従軍
http://blog.hix05.com/blog/2009/01/post-892.html

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2020年01月11日

正岡子規「七草集」

 元旦からもう11日目。「鏡開き」の土曜日、いかがお過ごしでしたでしょうか。
 もう一度、元旦の決意をかみしめてみるのも悪くないと思います。まずは社説:

 2020年。
 目線を少し上げれば2020年代の幕開けです。

 この十年を区切る年明けに見すえたいのは、一世代が巡る10年先の世の中です。
 より豊かな未来を次世代に渡すために、私たちはこの2020年代をどう生きるか。

 その手がかりにと、思い起こす場面があります。

 秋のニューヨークで、国連に集う大人たちに時の少女が物申す。つい最近も見かけたようなシーンが4年前にもありました。

 暗がりの傍聴席に照らし出されたのはマララ・ユスフザイさん。
 当時18歳。
 同席した各国の若者たちを代表して、階下の首脳たちに語りかけたのです。

◆ 次世代と約束のゴール
 
「世界のリーダーの皆さん、世界中の全ての子どもたちに世界の平和と繁栄を約束してください」

 2015年9月。
 国連サミットの一幕でした。
 この会議で採択したのが「持続可能な開発のための2030アジェンダ(政策課題)」。
 貧困、教育、気候変動など17分野にわたり、世界と地球を永続させるべく取り決めた開発目標(SDGs)です。
 その達成期限があと10年先の30年。
 マララさんたち次世代と世界が交わした約束のゴールでした。

 合言葉が二つあります。

 SDGs独自の取り組みで、一つ目は「誰一人も置き去りにしない」ということです

 置き去りにされなければ、次世代の誰もが平等に、尊厳と希望を持って生きられる。
 そういう社会が次々に循環する。
 持続可能な希望の未来は、私たちが目指すべき約束のゴールでもあります。

 ただ一方で自覚すべきは、SDGsの起点ともなった過酷な現実です。
 いまだ数十億の人々が貧困にあえぎ、いや増す富や権力の不均衡。
 採択後4年たつ今もやまぬ紛争、テロ、人道危機…。

◆ 賑わう子ども食堂に光

 これほど険しい現実を期限内に克服するには、もはや先進国も途上国もない。
 二つ目の合言葉は「地球規模の協力態勢」です

 全ての国の人々がそれぞれ可能な分野で協力し、複数の課題を統合的に解決していくしかない。
 アジェンダはそう促します。

 いわば総力戦の協力態勢なればこそ、社会の隅々から置き去りの人を見逃さず、救出もできるということでしょう。

 そんな世界の流れに棹(さお)さして、私たちの日本も進みます。

 この年末にふと甦(よみがえ)った光景はリーマン・ショック後の2008年。
 東京都内の公園で困窮者の寝食を助けた「年越し派遣村」でした。

「役所は閉まっている。周辺の(派遣切りなどで)路頭に迷う人が誰一人排除されぬよう、われわれで協力し合って年末年始を生き抜くぞ」

 開村式で村長の社会活動家、湯浅誠さんが張り上げた一声です。
 この定見。
 今にしてみれば湯浅さんは、SDGsの置き去りにしない協力態勢を、はるか以前に先取りしていたのかもしれません。

 あれから10年余の昨年暮れ。
 都内の会合に湯浅さんの姿がありました。
 今度は民間協力で運営する全国の子ども食堂の支援です。

 NPO法人「むすびえ」の設立1年祭で、湯浅理事長が力説したのも、子ども食堂の支援を通じて「誰一人置き去りにしない社会をつくる」ことでした。

 子ども食堂はいま全国に3700余。
 この3年で12倍の急増です。
 確かに子どもの貧困は深刻だが、食堂が子どもに食事を出すだけの場なら、逆に気兼ねする子も多く、この急増はあり得ない。
 湯浅さんの見立てです。

 貧しさに関係なく、例えば子連れの親たちが子育ての手を休めにやって来る。
 一人暮らしのお年寄りが自作の料理を持ち寄る。

 誰も置き去りにされない。
 多世代が頼り合う地域交流の場として必要とされ始めた。
 だから急増しているのだ、と。
 国連にも呼応し食堂を応援する民間企業、団体の動きも勢いづいています。

 派遣村以後の貧困から格差も極まった日本で、子ども食堂の賑(にぎ)わいは、SDGs社会に差す希望の光といってもいいでしょう。

 あとはこの賑わいを他分野にもどう広げていくかです。
 でも民間だけではやはり限界がある。
 巨大な政策システムを回す政治の原動力が、総力戦には不可欠です。

◆ 政治が無関心であれば

 もしも政治が、格差社会の断層に、弱い人々を置き去りにしたままで、次世代の未来にも無関心でいるならば、変えればいい。
 まだ10年あります。
 主権者一人一人が望んで動けば、変えられます。

 マララさんたちとの約束のゴールに向け、私たちはこの2020年代をどう生きるか。
「歴史的意義」をうたうアジェンダの一節です。

われわれは貧困を終わらせる最初の世代になり得る。同様に、地球を救う機会を持つ最後の世代になるかもしれない


東京新聞・社説、2020年1月1日
年のはじめに考える
誰も置き去りにしない

https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2020010102000113.html

 ところで、ヤッホーくん、もうひとつ、かみしめておきたい「年のはじめに考える」東京新聞の社説があるのです。

 明治150年といいます。
 明治維新はさまざまなものをもたらしましたが、その最大のものの一つは民主主義ではなかったか。振り返ってみましょう。

 日本の民主主義のはじまりというと、思い出す一文があります。
 小説・評論家で欧州暮らしの長かった堀田善衛氏の「広場と明治憲法」と題した随想です(ちくま文庫「日々の過ぎ方」所収)。

◆ 明治憲法つくった伊藤

 主役は伊藤博文。初代内閣総理大臣、枢密院議長として明治憲法起草の演説。渡欧し憲法とは何かを研究してきました。
 起草演説の1888(明治21)年、伊藤47歳、明治天皇はなお若き36歳。
 何しろ東洋初の憲法です。
 欧米に伍(ご)して近代国家をいかに創出すべきか。頭をふり絞ります。

 そこで堀田の随想は、悩める伊藤をたとえばベネチアのサンマルコ広場に立たせてみます。
 広場はベネチア共和国総督府の宮殿とサンマルコ大聖堂の並び立つ下。
 政治経済を行う世俗権力と聖マルコの遺骸をおさめる聖なる権威の見下ろす広場。
 堀田はこう記します。

<重大事が起(おこ)ったときに、共和国の全市民がこの広場に集って事を議し、決定をし、その決定を大聖堂が祝認するといった政治形式を、(伊藤は)一瞬でも考えたことがあったかどうか>

 堀田は大聖堂の権威に注目し、同じ役割を皇室にもたせるべく明治憲法はつくられたと考えを進めますが、その一方で、こんな想像はできないでしょうか。

 武士最下級足軽出身の伊藤が総理、公爵、枢密院議長へと上り詰めようと、彼は広場の民衆を果たして無視できただろうか、と。

 強大な幕府の打倒は志士に加え豪農富商、それに民衆の支えがあってこそ実現したのです。
 幕末期の民衆は当然のように欧米に追いつこうとしていたのです。

◆ 民衆の側からみる歴史

 歴史の多くは支配者の側から書かれます。
 そうであるなら民衆の側からでないと見えない歴史があるはずです。
 支配者のいう民衆の不満とは、民衆にいわせれば公平を求める正当な要求にほかなりません。
 維新をじかに体験してきた伊藤は、民衆の知恵も力も知っていたにちがいないと思うのです。
 つまり広場の意義もエネルギーも知っていたのではないか、と。
 維新後、各地にわき起こった自由民権運動とは、その名の通り人民主権を求めました。
 日本には欧州の広場こそなかったが、民主主義を求める欲求は全国に胚胎(はいたい)していたといっていいでしょう。
 その延長上に明治憲法はつくられました。

 絶対的天皇制ではあるが、立憲制と議会制をしっかりと明記しました。
 日本民主主義のはじまりといわれるゆえんです。
 明治憲法はプロシアの憲法をまねた。プロシア、いまのドイツは当時、市民階級が弱く先進の英仏を追う立場でした。
 追いつくには上からの近代化が早い。
 国家を個人より優位に置く官僚指導型国家を目指さざるをえない。国家優位、民主制度は不確立という、今から見ればおかしな事態です。

 広場は不用、もしくは悪用され、やがてドイツも日本も国家主義、軍国主義へと突き進んで無残な敗北を迎えるわけです。
 むろん歴史は単純ではなく、明治憲法は大正デモクラシーという民主主義の高揚期すら生んでいます。
 それはやはり社会を改良しようという民衆のエネルギーの発奮でしょう。

 戦後、両国ともあたらしい憲法をもちます。
 日本では“押し付け”などという政治家もいますが、国民多数は大いに歓迎しました。
 世界的視点で見れば、1948年の第3回国連総会で採択された「世界人権宣言」が基底にあります。
 人間の自由権・参政権・社会権。
 つまり国家優位より個人の尊重。
 長い時と多くの犠牲を経て人類はやっとそこまで来たわけです。

 振り返って今の日本の民主主義はどうか。

 たとえば格差という問題があります。
 広場なら困っている人が自分の横にいるということです。
 資本主義のひずみは議会のつくる法律で解決すべきだが、残念ながらそうなっていない。

◆ 広場の声とずれる政治

 また「一強」政治がある。
 首相は謙虚を唱えながら独走を続けている。
 広場の声と政治がどうもずれているようです。
 社会はつねに不満を抱えるものです。
 その解決のために議会はあり、つまり広場はなくてはならないのです。

 思い出すべきは、民権を叫んだ明治人であり、伊藤が立ったかもしれない広場です。
 私たちはその広場の一員なのです。


東京新聞・社説、2018年1月1日
年のはじめに考える
明治150年と民主主義

http://web.archive.org/web/20180101040838/http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2018010102000139.html

 ところで、この「明治憲法起草演説の1888(明治21)年、伊藤47歳、明治天皇はなお若き36歳」のころ、われらが正岡子規はどこにいたのかと申しますと、墨田区!

毎年夏に至れは二ケ月余の休暇を得るものから 都に残りゐる事は少なく 故郷に帰らざるも他国へ旅立つなと多かりける 今歳は故郷松山へも帰らず 又 行脚の僧を真似て草枕に日をくらすの望みもなく 東京に留まるも 町中の塵を猶此上にかうふらんは 本意なきことなればとて 向島の山本星にかりずまひすることに定めぬ
 楼上よりも川の面を打ながむへく さなくとも庵を出て つゝみに上れば 川一面は いふもさらなり 富士筑波の山々まて見え渡り 其なかめこそ いとたへなれ

(七草集、明治21年5月)

 正岡子規(1867年生、本名・常規)が、第一高等中学校に在学中だった1888(明治21)年の夏休み、向島須崎村(現・墨田区向島須崎町)の宝寿山長命寺門前の桜餅屋・山本屋の二階に仮寓し、『七草集』の前半部分を執筆したのは20歳のころ。
 向島は江戸期から文人墨客の愛した地で、風雅を好んだ子規は、特にこの地を選んでいる。

 1883(明治16)年に故郷の松山から上京した子規は、この年の夏休みには松山に帰省せず、勉学のため「閑静なる地を墨江に卜し」(「筆まかせ」)、近郊を散策して『七草集』のうちの「蘭(ふじばかま)之巻」「萩之巻」「をミなへし乃巻」「尾花のまき」「あさかほのまき」の五篇と「かる萱の巻」を執筆した。
 同年末には「葛之巻」を執筆。
 翌1889(明治22)年4月には「瞿麥(なでしこ)の巻」を加え、「かる萱の巻」を外して、秋の七草の名を篇名として『七草集』一冊にまとめている。
『七草集』はそれぞれ漢文、漢詩、和歌、俳句、謡曲、論文文体、擬古文体を駆使したもので、子規の広範囲に及ぶ教養の高さを示している。

 子規は『七草集』を友人たちに回覧し、巻末に余白を設けて評を書かせている。
 1889(明治22)年1月頃から同級生として交遊し始めたばかりの同年齢の夏目金之助(夏目漱石の本名)も、このとき評を書かされた一人。
 漱石は、5月に子規が突然喀血したとき、丁寧な手紙を送ったことから親友となった。 

 夏目は漢文と漢詩七言絶句を駆使して評し、「大著七篇皆異趣同巧猶七草不同姿態而至其沿☆倚籬細雨微風楚楚可愛則一也(大著七篇、みな趣きを異にして巧を同じくすること、なお七草の、姿態を同じくせずして、しかもその☆(たに)に沿い籬(かき)に倚(よ)り、細雨微風に楚楚(そそ)として愛すべきに至りては、すなわち一なるがごときなり)」と誉め言葉を送っている。
 このとき漱石の筆名が初めて用いられた。

 子規は漱石の漢文漢詩の凄さに圧倒され、これ以後ますます漱石との親交を深めていく。

☆は「たに」繝の「いとへん」が「さんずい」


千葉日報、2008年11月20日 09:58
房総の作家
七草集を執筆
正岡子規

https://www.chibanippo.co.jp/culture/bousou/109

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ドナルド・キーン「子規の英語力」

 苦手だと自らも書いていた子規の英語の力について、ドナルド・キーンさんは子規の英語はたいしたものだつたと云つているやうなので、先週出たばかりのキーンさんの書かれた子規の評伝、文芸評論「正岡子規」をたどつてみた。
 結論は、「子規の英語力は決して馬鹿にしたものではなかった。・・・」。
 どころか、子規は哲学書や海外の小説は原書か英訳版で読んでいたのであつた。
 時は明治の10、20年代、若々しい頃の話を記憶にとどめて置かう。

 正岡子規といふ人は、俳句、短歌、新体詩(これは自由詩か)、幼少から親しんだ漢詩と、そしてメリハリのきいた散文まで、「詩歌」全般にひろく関心を持ち光を当て、新しい時代の文学を切り開いて行つたのだ。
 この好奇心旺盛な言葉の狩人が横文字ごときにつまづくはずはない。
 いかんせん彼には時間がなかつた。
 大きな刺激を与えあつた旧友達は、さらなる飛躍を求め留学の途につく。
 自分もどれほど行きたかつたらうか。
 漱石、秋山真之、浅井忠、中村不折・・・彼らが帰つて来た頃、子規はもはやこの世にいなかつた・・・。

 生来楽天的で明るい人物であつた。
 だから、病気なぞに負けなかつた。
 太く短い生涯、この男には司馬さんが云ふやうにどこか可笑しみがあつて、それが大きな救いだ。
 キーンさんのこの「正岡子規」の原書を読んだならば子規は、内容に大いなる好感を抱くとともに自分の英語力もまんざらではないな、とニヤリとするかも知れない!?
 それよりまへに、キーンさん宛に添削とさらなるアドバイスを寄越したはずだ。
 真心からのおせつかいが身上の男であつた。

>>>>>>> 「ドナルド・キーン『正岡子規』(訳:角地幸男、新潮社、2012年8月)」より引用
・・・子規は、ぜひとも東京へ行かなければという思いで頭が一杯になっていた。
 1882(明治15)年12月17日に青年会で行った演説の中で子規は聴衆に向かって、英雄豪傑の住むところではない松山の僻地を去り、直ちに東京へ出ることを勧め、「河流ハ鯨鯢ノ泳グ所ニ非ズ」と訴えている。

 子規の母方の叔父加藤恒忠(1859−1923)は、東京に在住していた。
 子規は加藤に手紙を書き、東京に出たいと言った。
 最初は加藤も、子規に東京に来ないよう説得していた。
 しかし子規は、叔父がついには折れることを見越して1883(明治16)年5月、東京の中学校に転校するつもりで松山中学を退学した。
 ついに6月8日、叔父の加藤から上京の許可を与える手紙が来た。
 子規は喜び勇み、生まれて以来こんなに嬉しかったことはなかった、と書いている。

 東京へ向けて立つにあたって、子規は時間を無駄にしなかった。
 6月10日に船で松山を離れ、4日後には東京に到着した。
 1年後に書かれた子規の印象記は、まさに大都会に初めて出て来た田舎の少年の反応としてお馴染みのものだった。
 船は横浜埠頭に着き、そこから列車で東京へ向かった。
 まず子規は東京で一人の友人を探さなければならなくて、それは元級友の柳原極堂だった。

去年6月14日余ははじめて東京新橋停車場につきぬ。人力にて日本橋区浜町久松邸まで行くに銀座の裏を通りしかば 東京はこんなにきたなき処かと思へり やしきにつきて後川向への梅室といふ旅宿に至り柳原はゐるやと問へば 本郷弓町一丁目一番地鈴木方へおこしになりしといふ 余は本郷はどこやら知らねど いゝ加減にいて見んと真真に行かんとすれば 宿の女笑ひながらそちらにあらずといふにより 其教へてくれし方へ一文字に進みたり 時にまだ朝の九時前なりき それより川にそふて行けば小伝馬町通りに出づ、こゝに鉄道馬車の鉄軌しきありけるに余は何とも分らずこれをまたいでもよき者やらどうやら分らねば躊躇しゐる内 傍を見ればある人の横ぎりゐければこはごはと之を横ぎりたり 其後ハどこ通りしか覚えねど大方和泉橋を渡り(眼鏡かも知れず)湯嶋近辺をぶらつき 巡査に道を問ふすべをしらねば店にて道を問ひながらやうやう弓町まで来たり・・・
(口語訳略)

 子規が柳原のいるという家を見つけ、「お頼み」と一声二声呼ぶと、「誰ぞい」と玄関に現れたのは旧友の三並良だった。
 二人とも、ひどく驚いた。
 まさかこんな形で東京でばったり出会うとは思ってもみなかったのだ。
 この随筆は「其時は最早十二時近かりしならん 色々の話の中に柳原も帰り来り こゝではじめて東京の菓子パンを食ひたり」と終っている。

 その翌日、子規と三並は向島にある木母寺を訪ねた。
 そこで、叔父の加藤と落ち合うためだった。
 自分が哲学に興味を抱くようになったのは、ここで叔父を出会ったことが原因だった、と子規は書いている。
 叔父は話の中で「墨を白紙にこぼせば紙は黒くなる 実におかしきことなり。又男も女の着物を着け女のまげをゆへば女と少しも変ることなし 併し矢張男は男にて到底女とはいふべからず」云々と言った。
 続けて、子規は書いている。
 
余の之を聞きしときの喜びは如何なりしか 三年の学問も此一場の会話に如かずと思へり 然れども未だ哲学なる者を知らざるなり(中略)然らば此時余の目的は何なりとしかといへば政治家ならんとの目的也 叔ハ戯れに余に向て「汝ハ朝に在りては太政大臣となり野に在りては国会議長となるや」と笑はれしに 余ハ半ば微笑しながらまじめに「然り」と笑へたり。

 扨何故に法律とか政治とかの目的を定めしやといふに、余在郷の頃某氏余に目的を定めよといふ 余もいたく当惑したり 何となれば余の嗜好は詩を作り文を草することにありたれども 余は此時には漢学者の臭気を帯びし故、詩人画師などは一生の目的とすべきものにあらずと思考せり さればとて他にこれぞと思ふ者もなし 医者は大嫌ひ也 理科学は勿論蛇蝎視したり それよりは寧ろ法律か政治かにきめんと思ひて無理にも目的を定めて某氏にいいわけしたり・・・
(口語訳略)

 現象と本質の違いについて述べた叔父の言葉が、なぜ啓示となって子規を感動させ、哲学を勉強せずにいられなくなったのか、よくわからない。
 また、なぜ子規が自分の一生の仕事として政治を選んだのか、その説明も不可解である。
 ともあれ、この哲学との出逢いが子規の政治活動の時期に終止符を打った。
 東京に着いて4ヶ月後、共立学校に入り、そこで初めて荘子の講義を聴いた子規は、哲学がこんなに面白いものだとは思ってもみなかったと書き、1885(明治18)年春には、すでに哲学者になる決心をした。
 誰が何と言おうとこの決心が揺らぐことはない、と子規は書いている。

 子規は、英語の教師に恵まれた。
 共立学校の教師は高橋是清(1854−1936)で、教科書は Peter Partley's Universal History on the Basis of Geography (「パーレー万国史」)だった。
 高橋は優秀な経済学者で、のちに首相にまでなった人物だが、子規は高橋についてはほとんど語っていない。
 その後、1884(明治17)年の夏休みに、子規は本郷の進文学舎というところに英語を習いに行った。
 教師は坪内逍遥(1859−1935)だった。
 逍遥は翌年、新進気鋭の小説家・批評家として名声を得ることになる。
「先生の講義は落語家の話のやうで面白いから聞く時は夢中で聞いて居る、其の代り余等のやうな初学な者には英語修業の助けにはならなんだ」と子規は評している。

 子規は自分に英語の力がないことを、繰り返し述べている。
 子規研究家は一般にこの子規の言葉を事実として受け留めているが、子規の英語力は決して馬鹿にしたものではなかった。
 たとえば1890(明治23)年、第一高等中学校時代に英語の授業で書いた子規の答案が保存されている。
 表題は The Comparison of the English and Japanese Civilization in 16th Century(「第16世紀に於ける英国及び日本の文明の比較」)となっていて、冒頭の一節を読むと子規の英語の力がよくわかる。
 
 Before we start for the description of the English and Japanese Civilization, we must mention that the Emperors of Japan always ascend the throne of a lineal succession unbroken for ages.
(英国と日本の文明について書き始めるにあたって、先ず我々は日本の天皇が万世一系の皇統似よって受け継がれて来たことを指摘しなければならない)

 第一高等中学校で子規を教えた著名な歴史家ジェームズ・マードック(1856−1921)が子規の書いた英文を添削し、たとえば最初のセンテンスにある“ for the description of ”を“to describe"に直している。
 マードックの添削は細かく行き届いたものだが、子規が自ら言っているように英語の力が絶望的であることを示すほど手厳しいものではない。
 2年後の1892(明治25)年に書かれた Baseo as a Poet (「詩人としての芭蕉」)には、英語の間違いがほとんどない。
 子規の英文は、次のように始まっている。

 If the rule that best is the simplest holds good in rhetoric, our Japanese " hotsku" (pronounced "hokku") must be best of literature at that point. Hotsku which is composed of 17 syllables, should perhaps be the shortest form of verses in the world.
....
 We shall try to translate some of Baseo's poems words by words ( neglecting the metre & rhyme) to show the Japanese rhetoric as follows:
(It must be understood that in Japanese sentence, especially in "hotsku", personal pronouns and predicate verbs are often omitted).

 The old mere !
 A frog jumping in,
 The sound of water.

(簡潔こそ最上のものであるという通則が修辞学の上で有効ならば、わが日本の「発句」はその点では最高の文学と言っていい。17音節から成る発句は、おそらく詩の形式としては世界で一番短いのではないだろうか。(中略)芭蕉の幾つかを韻律など無視して逐語訳し、日本の修辞法の何たるかを次に示してみたい・・・ただし日本の文章、特に発句では人称代名詞や述語動詞がよく省略されることを予め承知しておいてほしい。
古い池!
蛙が飛び込み、
水の音)

 自分の英語が目覚ましく上達したことに、子規は気づいていないようだった。
 あるいは子規は、群を抜いて英語が優れていた級友の夏目漱石と自分とを比較していたかもしれない。
 しかし、この芭蕉のエッセイを書く頃までに子規が原書で読んでいた本を列挙していけばわかるように、子規はかなり難解な作品をも理解する力を持っていた。
 子規の手紙、とりわけ漱石に宛てた手紙には、自分が特に感動した英国の詩が幾つも引用されている。
 子規は、英語の原書を買い続けた。
 子規が死んだ時、その蔵書にはミルトン、バイロン、ワーズワースなどの詩の本と並んで哲学、歴史の本があった。
 子規は、これらの本を持っていただけでなく読んだのだった。
 三並良は、ゲーテの Faust(『ファウスト』)の英訳本を子規に贈ったことがあった。
 子規はそれを読んで、韻文と散文が交錯しているのが面白いと言ったという。
 こうした関心が、子規の小説『曼珠沙華』に影響を与えたかもしれない。

 子規は自分が読んだヨーロッパの長篇小説に感動したが、おそらく最も深く感動したのはヴィクトル・ユーゴの Les Miserables (『レ・ミゼラブル』)の英訳だった。
 この作品に唯一言及している「病牀手記」(1897)11月16日の項で、英訳『レ・ミゼラブル』を読んだことに触れている。
 弟子の佐藤紅緑(1874−1949)は、子規の病床に集まる弟子たちと一緒に子規の『レ・ミゼラブル』の講義を度々聴いたという。
 佐藤はまた、不審な者が通り抜けられないように家の裏木戸を閉めてしまおうかと子規に言ったことに触れて、しかし子規は『レ・ミゼラブル』に出てくるミリエル神父は前科者を家に泊めたことがあると言って裏木戸はそのままにした、と伝えている。

『レ・ミゼラブル』の第2章から、その一部を訳した子規の草稿が残っている。
 子規はこの翻訳についてほかでは触れていないので、いつ、どういう理由で翻訳したかを特定することは難しい。
 また、この大部の長篇すべて翻訳するつもりでいたのかどうかもわからない。

 子規の英語の読解力を示すさらなる証拠として、幼少の時に子規の家を全焼させた火事について触れた文章がある。

年長じて後、イギリスの小説(リットンのゴドルフインにやありけん)を読む。読みて将に終わらんとす、主人公志を世に得ず失望して故郷に帰る、故郷漸く近くして時、夜に入るふと彼方を望みて、丘の上に聳えし広壮なる我家の今や猛火に包まれんとするを見る、の一段に到りて、心臓は忽ち鼓動を高め、悲哀は胸に満ち、主人公の末路を憐むと共に、母の昔話を思ひ出ださゞるを得ざりき。

(成長した後、イギリスの小説(リットンの『ゴドルフィン』であったと思う)を読む。まさに終段にさしかかり、主人公が志を世に得ることなく失望して故郷に帰って来る。故郷が近くなり、夜に入って彼方を望むと、丘の上にそびえる広壮な我が家が猛火に包まれようとしているのを見る。ここへ来て、自分の心臓はたちまち鼓動を高め、悲哀は胸に満ち、主人公の末路を憐れむとともに、母の昔話を思い出さずにはいられなかった)

 ブルワー・リットンの仰々しいヴィクトリア朝の散文で書かれた Godolphin は、英語が母国語の読者でも決して読みやすい小説ではない。
 しかし子規は、それを(同じ作者の他の小説数冊と一緒に)読んだだけでなく、その主人公に共感を抱くまでに原文をよく理解したのだった。
 子規はまたスペンサーの哲学や、ゾラの小説の英訳本を始めとして数多くの英書を読んでいた。

 子規は自分が最大の魅力を感じる対象が詩歌であることに気づいていたが、同時に小説が文学の最も重要な形式であるとも考えていた。
 子規は小説を書くことを試みては失敗したが、詩歌への思いは常に小説より強かった。
 すでに見たように子規が最初に夢中になったのは漢詩で、ほとんど生涯の最後まで漢詩を作ることに熱心だった。
 子規が短歌を作り始めたのは1885(明治18)年、松山の歌人井手真棹(1837−1909)の指導を受けた時である。
 俳句に対する関心が芽生え、それが次第に強くなったのは再び松山に帰省した1887(明治20)年、著名な俳人大原其戎(1812ー1889)に紹介された時だった。
 其戎は子規が見せた十句から一句を選び、自分が主宰する俳誌「真砂の志良辺」に掲載した。
 これが、子規の俳句が活字になった最初である。

 虫の音を踏わけ行や野の小道

 一人の人間が三つの違った形式(漢詩、短歌、俳句)で詩を書くのは極めて異例のことだったが、子規はどれか一つに限定されることを嫌った。
 子規はあらゆる詩形を含む名称として「詩歌」という言葉を使った最初の一人だった。

 共立学校で過ごした日々を、子規は「余は哲学を志すにも拘はらず 詩歌を愛すること甚しく 小説なくては夜が明けぬと思ふ位なりき」と書いている。
 哲学と詩歌のどちらかに決めかね、哲学は自分の目的で、詩歌は娯楽だと人に語っている。
 この二つを繋げるものがあればいいと子規は願ったが、やはり両立しないのではないかと思った。
 僧侶は小説を書かなかったし、スペンサーが詩歌を作ったという話も聞いたことがなかった。

「哲学の発足」と題されたこの随筆は次のような明るい調子で終わっていて、「其後漸く審美学なるものあるを知り 詩歌書画の如き美術を哲学的に議論するものなることを知りしより 顔色欣々として雀躍するの思ひを生じ 遂に余が目的を此方にむけり こはこれ今年のことになんありけるぞかしな」とあり、最後の自注で「此時スペンサーヨリ外ニ哲学者ヲ知ラザリシナラン」と書き加えている。

 審美学を発見した子規の喜びは、長続きしなかった。
 1890(明治23)年、子規は叔父加藤恒忠からエデュアルト・フォン・ハルトマンの Die Philosophie des Schonen (「美学」)一巻を手に入れた。
 子規はドイツ語は読めなかったが、のちにドイツ語教授となる旧友三並良の助けを借りた。
 夏目漱石によれば、最初、子規は自分が哲学を知っているということを他の学生たちに印象づけようと、ハルトマンの本を子供のように得意になって見せびらかしたという。
 しかし三並の助けがあったにせよ、自分がまったく知らない言語を読む緊張感に子規は堪えられず、審美学の勉強は断念した。

 それでも当初は、楽天的な気持ちから自分の専門分野を見つけたことに興奮するあまり、共立学校を規定の年数で卒業する代わりに、途中から東京大学予備門の入学試験を受けることにした。
 入学試験の準備が不十分であることを、子規はよく承知していた。
 子規の英語は(少なくとも子規によれば)特に弱かったが、一つには場慣れするため、また戯れの気持ちもあって1884(明治17)年9月の試験を受けることにした。
 もとより、不合格は覚悟の上だった。

 子規は試験の準備はしなかったが、ほとんどの科目の出題が驚くほどやさしいことがわかった。
 最大の難関は、予想していたように英語だった。
 試験用紙が配られた時、子規は恐る恐る手に取ってみた。
 一目見ただけで、五問ほどある英語の質問で自分に理解できるものがほとんどないことがわかった。
 のちに、子規は書いている。

第一に知らない字が多いのだから考へやうもこじつけやうも無い。此時余の同級生は皆片隅の机に並んで坐つて居たが(これは始より互に気脈を通ずる約束があつた為めだ)余の隣の方から問題中のむつかしい字の訳を伝へて来てくれるので、それで少しは目鼻が明いたやうな心持がして善い加減に答へて置いた。其時或字が分らぬので困つて居ると隣の男はそれを「幇間」と教へてくれた、もつとも隣の男も英語不案内の方で二、三人隣の方から順々に伝へて来たのだ、しかしどう考へても幇間ではその文の意味がさつぱり分らぬのでこの訳は疑はしかつたけれど自分の知らぬ字だから別に仕方もないので幇間と訳して置いた。今になつて考へて見るとそれは「法官」であつたのであらう、それを口伝へに「ホーカン」といふたのが「幇間」と間違ふたので、法官と幇間の誤などは非常の大滑稽であつた。

それから及落の掲示が出るといふ日になつて、まさかに予備門(一ツ橋外)まで往て見る程の心頼みは無かつたが同級の男が是非行かうといふので往て見ると意外の又意外に及第して居た。却つて余等に英語など教へてくれた男は落第して居て気の毒でたまらなかつた。試験を受けた同級生は五、六人あつたが及第したのは菊池仙湖(謙二郎)と余と二人であつた。
(『墨汁一滴』)

 子規が試験に及第したのは、かりに「ホーカン」の意味を知らなかったとしても、子規が同級生たちよりも英語が出来たことを示している。
 自分は英語が苦手だと執拗に繰り返す子規の言葉は、眉に唾して読んだ方がいいかもしれない。
 尊敬に値する高潔な人物でさえ、必要とあれば嘘をつくことがあった。

 試験の際に不正行為、つまりズルをやることは、当時はごく普通のことだった。
 子規が味をしめたのは入学試験を受けたときで、それからはズルをしても何とも思わなくなった。
 しかし2年ほどして、ふと気づいてみると、他人の力を借りて試験を受けるのは不正なだけでなくて、極めて卑劣なことなのだった。
 それ以後、如何なる場合でもズルはやらなかった。

 無事に予備門に入学したものの、子規は勉強するという気分ではなかったようである。

 とにかくに予備門に入学が出来たのだから勉強してやらうといふので英語だけは少し勉強した。もつとも余の勉強といふのは月に一度位徹夜して勉強するので毎日の下読などは殆どして往かない。それで学校から帰つて毎日何をして居るかといふと友と雑談するか春水の人情本でも読んで居た。
・・・(以下略)

Storia - 異人列伝、2012-09-05 22:00:21
(歴史に名を残す人物と時間・空間を超えて―すばらしき人たちの物語)
子規の英語力 ー ドナルド・キーン
https://blog.goo.ne.jp/norilino1045/e/172156c6747a2ee639166e0d64d112e0

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2020年01月10日

高校国語の新学習指導要領

2022年度に変わる高校の学習指導要領や、2021年から大学入試センター試験に代わる大学入学共通テストの国語で、実用が重視され、文学が激減すると懸念が高まっている。
国語教育をどう考えるか、二回にわたり識者に聞く。
(東京新聞・鈴木久美子)

☆ 国語教育に文学は不要か(上)
日大文理学部長の紅野謙介(こうの・けんすけ、1956年生まれ。日本大文理学部長。専攻は日本近代文学)さん

◆ 思考力・表現力より情報処理能力重視に

―― 高校の国語はどう変わりますか。

 今進行しているのは戦後最大、高校・大学・入学選抜の三位一体の改革です。新学習指導要領は「主体的・対話的で深い学び」など、誰も反論のしようのない抽象的な言葉で示されています。今の段階で、具体論を示す最適な公的資料が大学入学共通テストのサンプル問題とプレテスト。公表された国語の問題を検討した結果、相当に問題があり、日本の十代の思考力、判断力、表現力をゆがめてしまうと危機感を持ちました。

―― どんな問題が。

 大きく二つあり、一つは記述式問題が追加されること。
 採点基準が明確でなく、あいまいな部分が残るために、生徒が自己採点できない。

 もう一つは複数の資料を、図表やグラフも入れて5、6種類の情報を読み込み設問に答えるやり方。無理やり推し進める結果、一つ一つをきちんと解読できないまま、短時間でキーワードをぱっとつまんで解答を探す方向にいくだろう。情報処理能力だけを高めることになる。こういう言葉への接し方、読み方を推奨していいのでしょうか。

 文学作品なら一つの教材で丁寧に読み込めます。例えば高校一年で定番の「羅生門」であれば、老婆の言葉が主人公の下人を動かし、老婆も蛇を干し魚として売る女の言葉を取り込み、互いの世界観が交錯する。一つの教材で、それぞれの立場から見たらどうかと話し合いができます。評論やエッセーも引用や他者の言葉などを入れて組み立てられています。

◆ 現代国語、小説や詩歌なく、法律や契約文書に

―― 文学の扱いは。

 必修の現代の国語は、小説などのフィクションや詩歌などは入りません。実用的な文章を中心とした教材で教科書を作ることが実質的に支持されている状態です。法律や契約を巡る文章です。

 大学入学共通テストの記述式のサンプル問題も自治体の景観保護のガイドラインや駐車場の契約、プレテストは高校の生徒会の部活動規約、著作権法。新指導要領を推進する方たちが出した指導プランには特別予算の申請書やエントリーシートの書き方もあります。

 もう一つの必修、言語文化は七割が古典。文法はあまりやらず、季節感など伝統的な物事の考え方を身に付けましょうと強調し、一種の「雰囲気文化ナショナリズム」です。残り三割が近代以降の散文です。近代の評論、小説を読む機会は圧倒的に減ると思います。

―― 今までが文学偏重だったのでは?

 必ずしもあたらない。小説が必ずセンター試験の問題になっていたということもない。教科書も三十編のうち小説は五、六編です。

◆ 変質の理由は政財界の要望

―― なぜ実用性にシフトしているのですか?

 政財界の要望でしょう。それは、日本の経済的地位の失墜と世界的にリーダーシップをとれない混迷の表れ。アマゾンにもグーグルにもなれない現状に悲鳴をあげて、それを教育のせいにする。昔から繰り返されている問題です。

―― AIの発達や少子高齢化など「予測不能な」時代に対応するための改革とされます。

 二十年も前から分かっていたことで、むしろ、不安をあおり立てるための言葉になっていませんかね。
 大切なのは今までやってきたことの中にある確実に大事な部分を伸ばすこと。みんなで議論し、より現実に即した改革案を練るプロセスがなくなり、現場が置き去りにされ、あるアイデアだけがどんどん実現に向かっているのが現状です。


[図]学習指導要領
学習指導要領.jpg

東京新聞・夕刊文化面、2019年9月17日
「思考や表現力ゆがめる恐れ」
日大文理学部長 紅野謙介さん
https://www.tokyo-np.co.jp/article/culture/culture_news/CK2019091802100027.html

☆ 国語教育に文学は不要か(下)
作家・法政大教授 中沢けいさん

―― 高校の新学習指導要領の国語をどう見ていますか。

 今までの国語教育は、小説、詩、評論、エッセー、日記などいろいろなジャンルの文学作品を読んで、言葉を使うことのおもしろさを学んできたというイメージを持っていました。
 不都合は感じていなかったので、今回の議論は当惑しました。
 もっと話し合った方がいいと思っています。
 そもそも契約書やマニュアルなどの実用的な文章は、基本的には義務教育を終えたら読めるように書くのが理想ですから、点差が出る大学入試問題を実用文で作るのは想像できません。

―― 実用性が求められる背景は?

 平成の30年、感情への無関心が社会的に広がっていることが一因という感じはします。
 お店の人が昔は好きなお客さんにおまけして、嫌いだと思うと値段をふっかけるような、感情のやりとりがある世界で生きていました。
 でも今はコンビニに行って、かごをレジに差し出すと、店員さんが型通りのあいさつをしてポスシステムでお勘定してくれます。
 このお客は嫌いだからカレーパンの値段を倍にしようとは思わない。
 感情を考えなくてもいい社会をつくってきた。
 感情の波のない方が、コンスタントに仕事ができる。
 受験勉強でも経験しているはずです。

―― 文学は感情と密接に関わりますね。

 20世紀後半の文学は関係の文学とも言われたくらいに人間関係を描くことを主流にしていました。
 感情は時代によって変化するので、そのたびに言葉を新鮮なものにあらためていく必要があった。
 時代を代表し、かつ普遍性をもった作品が古典として残されます。

 人生の中で壁にぶつかって、よそに逃げたい時に、古典は大変ありがたい。
 千年前にも困っていた人がいたんだね、とか人間の感じ方にはこんなに変化があるんだとか、視野を広げてゆっくり呼吸できるようになる。
 精神の形成の問題で、頭の中の畑を耕している感じです。
 ゆっくり耕してからの方が、芽はよく出ます。

―― 国語から文学が減ると、どうなっていくでしょう?

 教養の格差が生まれる可能性があると思っています。
 国語で読む教材は知識や勉強の土台になり、学問や芸術など興味を持つ範囲が生まれます。
 エリート教育をしているような高校は、規定の授業はさっさと済ませて、先生がお考えの教材を使って勉強していくでしょうから、中間層の教養との間に亀裂が走る。

 日本は1945年以降、比較的安全な社会と言われてきました。
 その背景に識字力の高さと、文学を中心にした読書人口の広がりがありました。
 それがなくなると、社会的な不安定を生み出すような気がしています。

―― 希望はありませんか。

 いつの時代もへそ曲がりはいます。
 だめと言われるとやりたくなる。
 学校で教えてくれない楽しい本の読み方を発見し、前の時代には考えられないような豊かな詩を口承文芸として、1970年代のシンガー・ソングライターはつくりあげた。
 井上陽水や中島みゆきは、教科書に載るようになりました。
 あるいは、政治家のいい演説に魅力を感じる人が出てくるかもしれない。
 教育の外で日本語を豊かにしていく動きが起こる可能性は高い。

 ただ、文芸は根っこに詩(ポエム)を持っていて、ポエムは東アジアの儒教の文化の強い社会では祈りにつながっています。
 国語教育を実用的な論理国語化したときに、それがどういう形で社会に姿を現してくるのかは分かりません。


東京新聞・夕刊文化面、2019年9月18日
「教養の格差が不安定を生む」
作家・法政大教授 中沢けい(なかざわ・けい、1959年生まれ。作家、法政大文学部日本文学科教授)さん
https://www.tokyo-np.co.jp/article/culture/culture_news/CK2019091802100040.html

高校国語の新学習指導要領で「文学」が激減し、2、3年生で文学に触れずに卒業する生徒が出る可能性もあるという。
選択科目を「論理国語」と「文学国語」に分ける必要があったのか。
文学界も巻き込んだ論争が起きている。
AERA 2020年1月13日号では新学習指導要領に揺れる高校国語の最前線を取材した。
(AERA編集部・石田かおる)

「ゴリゴリの理系で、国語は嫌いでした。点数は取れないし、役に立たないと思っていたんです。ところが大学に入って、周囲の友人たちと小中高で習った国語の話題で盛り上がる。もったいないことをしたと思います。夏目漱石の『こころ』の『精神的に向上心のないものは、馬鹿だ』の一文は心に刺さりました」

 医学部に通う大学2年生の男性はそう記す。

 中学生の子を持つ47歳の女性は、新学期に国語の教科書が配られると真っ先に読んだ。

「いまも心に残っているのは、梶井基次郎の『檸檬』です。レモンの黄色が鮮やかに目に浮かぶようでした」

 国語が、戦後最大といわれる変化を前に大きく揺れている。
 2022年度から実施される高校国語の新学習指導要領で、「実用文」を扱う比重が増え「文学」の扱いが大幅に減少する。

 AERA本誌では昨年11月、インターネットを通じて、国語教育のこうした変化や役割についてアンケートを実施。254人から回答を得た。
 教科書で出合った「心に残る作品」の質問には、冒頭にあるように思いあふれる回答が数多く寄せられた。

 今回、とりわけ問題視されているのは、主に高校2、3年生が受ける選択科目だ。
 説明文や論説文など論理的、実用的な文章を扱う「論理国語」と、明治時代以降の小説、詩歌などを扱う「文学国語」が設けられた。
 大学入試の出題傾向に合わせると、多くの学校では「論理国語」と「古典探究」を選ぶと見られ、「文学国語」がはじかれる。
 そうすると、教科書の定番だった中島敦の『山月記』や漱石の『こころ』などを読まずに生徒たちは卒業することになる。
 アンケートでも上位を占め、10代から60代まで幅広い年齢層に支持された作品だ。

 こうした事態に日本文藝家協会は声明を発表し、文芸誌も次々と特集を組んだ。
 昨年2019年8月、東京都港区の日本学術会議講堂で開かれたシンポジウム「国語教育の将来──新学習指導要領を問う」では、東京大学の安藤宏教授(近現代日本文学)が声を荒らげた。

「『論理国語』と『文学国語』という分け方は大問題だ。文学に論理はないというのか」

 新指導要領では、AIやグローバル化による、予測困難で変化の激しい時代に子どもたちが対応していくため、「実社会で必要とされる国語の力」により重きがおかれた。
 OECDの学習到達度調査(PISA)や、新井紀子さんの『AI vs.教科書が読めない子どもたち』で問題提起された、読解力の低さへの危機感もある。
 安藤教授は言う。
「即戦力を求める、社会の要請もあるのでしょう。しかし実用的なわかりやすさばかりを優先し、わからないものに向き合うことを軽視するのは危険です。一番わからないのは『人の心』。それにアプローチするのが文学や哲学などの人文知です。グローバルで多様な価値観のなか生きていく時代であればこそより重要になる」

 沖縄県の公立高校2年の女子生徒(17)は、化学の研究者になるのが夢だ。
 高校1年から塾に通い、各種模試も受けている。
 受験年となる、2020年度から開始予定の大学入学共通テストは新学習指導要領と連動しているため、模試には実用文が出題されている。

「例えば、集合住宅のスロープ設置で住人が費用負担をめぐって議論したり、小学校の学校選択制を家族で話し合ったり。会話形式の問題文に関連するデータや資料がついてきて最適解を探ります。要はもめごとの話なんです。こういうのも必要なんだろうと思いますが、新指導要領でこんなのばかりになってしまったら、国語で『生きる力』が本当につくのかなって思ってしまいます」
(女子生徒)

 女子生徒が読解力や論理的思考が鍛えられたと実感するのは、一昨年2018年、1ヶ月間かけて『羅生門』を読み込んだ学校の授業だ。

「登場人物の行動や心理を考えるとき、必ず『根拠』を探しました。同じ場面でも、人によって見方が変わるのがとても勉強になりました。大学に入ったら、色々な論文を読まないといけなくなるので、多様な視点や発想を知ることはすごく大事だと思っています」

 一方、「論理国語」の新設を支持する声もある。
 日本語教育を専門とする、東海大学の村上治美教授は言う。

「いわゆる国語と、外国語のように言語スキルを学ぶ『日本語』と、別建ての発想が必要だと思います」

 村上教授は、大学に入学する学生たちがリポートをきちんと書けないことに、多くの大学が頭を抱えていると指摘する。

「頭に浮かんだことを段落分けすることなく書き連ねてしまう。文章を構成する力が身についていないのです」
(村上教授)

 対策として、東海大学では1年生の必修科目で、新聞記事の要約をさせ、文章の構成の仕方を教えている。

「大学4年で卒論を書くことから逆算すると、高校卒業時までにリポートを書く基礎になる段落構成力は身につけてきてほしい」
(同)

『論理トレーニング』などの著書のある、立正大学の野矢茂樹教授(哲学)は大学入学共通テストのモデル問題に「駐車場の契約書」をはじめとする実用文が出されたことを評価する。

「ただし、契約書という新規性にばかり注目が集まり、出題の意図が正しく理解されていないのが残念。ポイントは、規則を具体的な場面でどう適用するか。論理的能力を問う問題で、契約書を読む問題ではないんです」

 野矢教授は「1回読めばわかる文章」を書けて、読める「日本語の基礎力」の育成が大事だという。
 そのためには名人芸的なレトリックを含む文学より、レシピから論文まで、さまざまな説明文の「普段使いの文章」で、情報把握や論理展開の力を鍛える方が効率的だと考える。

「要約することが意味を持つ文章を使うのがおすすめです。文学でできないことはないですが、詩は要約すると魅力を失いますよね? 小説も同様で、文学は細部の表現に作家が命をかけています。それだけに、あらすじを抜き出し論理のトレーニングに使うのはもったいない。普段使いの言葉を用いた『論理国語』で日本語の基礎を、その上に『文学国語』で表現や多様な視点を学習するといった棲(す)み分けが必要です」
(野矢教授)

 本誌アンケートでは「新指導要領の実用文重視への転換をどう思うか」も尋ねた。
 これに対し、「良い」が15%、「悪い」が55%、「どちらともいえない」が30%だった。
「良い」と答えた大学院1年の男性は、
「足し算ができない生徒に微分積分を教えても意味がないように、読解力のない生徒に文学を教えてもどうかと思う。文学に触れない生徒が出るのは好ましくないが、優先すべきは読めない人を減らすこと」
 と主張。

 これに対し「悪い」と答えた26歳の会社員の女性はこう指摘する。
「SNSなどで意味を正しくとらえられない人たちは、言葉の背景を汲(く)みとれていない。それには想像力が必要で、実用的な文章だけで鍛えるのは難しい」

 古代ギリシャの、有名な論理矛盾を伝える文に、
「『クレタ人は嘘つきだ』とクレタ人が言った」
 がある。
 クレタ人が嘘つきだとしても正直だとしても意味に矛盾が起きる。
 ところが、前出の安藤教授は「クレタ人は正直に話したのだ」と解釈する。
「クレタ人は、自虐、自嘲をこめて『クレタ人は嘘つきだ』と言ったのです」
(安藤教授)

 そう読めば、確かに成立する。
 言葉は文脈や感情とともにあるからだ。
 安藤教授は言う。
「論理と文学は切り離せるものでなく、車の両輪。どちらも必要なんです」

 アンケートでも、優先度や配分の考えの違いはあれど、同様の回答が少なくなかった。問題は、新指導要領が“どちらか”しか選べない設定になっていることだ。
 名古屋大学教育学部附属中・高等学校国語科の加藤直志さん(43)は言う。

「新指導要領は『実用的な文章』と『文学』をむりやり切り分けたうえで、個々の単位数が4と大きいためどちらか一方の選択を強いる設定になっている。それが最大の問題。いずれも必要で、その扱い方や比率は各学校の教員の判断に委ねるべき」

 こうした声を受けてか、標準単位より減らす「減単」に文部科学省が言及するようになった。
 大滝一登・視学官はこう説明する。
「学習指導要領では標準単位数を示していますが、生徒の実態などを踏まえ、当該科目の目標の実現が可能であると判断できる場合には、少ない単位を配当することが認められています。判断するのは各自治体の教育委員会ですが、減単の検討をしているところもあるようです」

 加えて、高校の現場からは教育環境の整備も欠かせないとの声が上がる。北海道の国語教員の女性(51)は言う。
「高校卒業までにリポートを書けるようにとか、論理国語の必要性もわかる。しかし添削作業は非常に手間がかかる。実現するには少人数クラスにし、いまの倍近くの国語教員が必要です」

 昨年2019年12月上旬、PISAの結果が発表され、日本の生徒たちの読解力の低下があらためて話題となった。
『国語教育の危機』の著書がある日本大学の紅野謙介教授(近現代日本文学)は次のように語る。

「今回の国語改革は、AIやグローバルなどの言葉を使い不安や恐怖心をあおってくるのが特徴。PISAの調査についても、受験したのは15歳。高校1年の1学期で、小中学校の教育結果が反映されました。高校国語の改訂は『改革が進んでいる、小中学校の指導要領にならえ』というもので、むしろ読解力の低下を招く危険性がある。PISAの指標そのものを疑問視する声もあり、いずれにしろ落ち着いた議論が必要です」

 国語力の現状認識について、確かなデータや根拠に基づく共有から始めることも不可欠だ。

※ AERA 2020年1月13日号より抜粋


[写真]
教えるべきは「契約書」か、漱石の『こころ』か。二択を迫るような新学習指導要領の高校国語の科目設定に、学校現場からは困惑の声があがる/2019年12月、神奈川県内の高校で

[図-1]
新学習指導要領で高校国語はこう変わる

[図-2]
新学習指導要領で高校国語はこう変わる

dot.asahi.、2020.1.8 17:00
契約書か漱石の『こころ』か、どちらかしか学べない?
高校国語の新学習指導要領に困惑の声

https://dot.asahi.com/aera/2020010800015.html

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柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

[今日のことば]
 余は今まで禅宗のいわゆる悟りという事を誤解していた。
 悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思っていたのは間違いで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きている事であった。
(正岡子規)

 夏目漱石の親友で俳人の正岡子規は、すぐれた随筆家でもあった。
 上に掲げたのは、その随筆『病牀六尺』の中に書かれたことばである。

 子規は、学生時代から結核を患っていた。
 肺を蝕んでいた結核菌はやがて背骨をも侵し、脊椎カリエスを発症。
 漱石が熊本に赴任した1898(明治29)年4月頃には、ほとんど寝たきりの状態になる。
 1900(明治33)年9月、漱石が英国留学へ出発する折には、もはや互いに生きて顔を合わせるのは無理だろうと覚悟を決めるほどであった。

 子規は体の痛みに苦しみ、身動きできぬ煩悶に苛まれる。
 時には絶叫し、号泣する。
 それでも、猛烈な食欲と表現意欲で自己を支えた。
 自殺の衝動と闘いながら、枕元の小刀と千枚通しのスケッチをしたこともあった。
 ロンドンにいる漱石あてに出した子規の最後の手紙の、次のような一節は、なんとも胸にしみる。
 僕ハモーダメニナッテシマッタ、毎日訳モナク号泣シテ居ルヨウナ次第ダ(略)
 イツカヨコシテクレタ君ノ手紙ハ非常ニ面白カッタ。
 近来僕ヲ喜バセタ者ノ随一ダ。
 僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガッテ居タノハ君モ知ッテルダロー。
 ソレガ病人ニナッテシマッタノダカラ残念デタマラナイノダガ、君ノ手紙ヲ見テ西洋ヘ往(いっ)タヨウナ気ニナッテ愉快デタマラヌ。
 モシ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテル内二今一便ヨコシテクレヌカ(無理ナ注文ダガ)。(略)
 書キタイコトハ多イガ苦シイカラ許シテクレ玉エ

 このような日々の中から紡ぎ出された随筆のひとつが『病牀六尺』。
「如何なる場合にも平気で生きている」という表現は、この上もない痛切さに満ちている。

 漱石と同年生まれの子規は、今年2017年が生誕150年。


サライ、2017/3/24
今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。
漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。

(矢島裕紀彦)
https://serai.jp/hobby/153989

[動画]
 正岡子規は食欲がおう盛で、食いしん坊として知られています。
 中でも、一日何個も食べたと言われるほど、菓子パンを好んでいました。
 子規のふるさと松山には、当時の菓子パンを現代に復刻したパン屋さんがあります。三年がかりで開発したそうです。
(この動画は、2010年に放送したものです)

https://www2.nhk.or.jp/archives/michi/cgi/detail.cgi?dasID=D0004260016_00000

まさに「獺祭」のごとし 病床の周りを彩る名産たち

 獺祭書屋主人---。
 俳人正岡子規のもうひとつの号である。
 獺(カワウソ)は、獲った獲物を並べておく性質があり、そのにぎやかなさまを「獺祭」 と呼ぶ。
 一方子規は、書物を部屋のそこらじゅうに片っぱしから並べておく。
 言ってみれば「片付けられない男」!
 その「獺祭ぶり」は友人たちを驚かせたという。

 そして今、子規の晩年を振り返れば、違った意味で、いえいえ本来の意味での「獺祭」ではなかったかと思う。
 ほとんど動けない病身の身ながら、子規のもとには各地の名産品、さまざまな珍しい食べ物が集まってきた。
 残された記録を見ると、そのにぎやかなこと! 
 近日わが貧厨をにぎわしたる諸国の名物は何々ぞ。
 大阪の天王寺蕪、函館の赤蕪、秋田のはたはた魚、土佐のザボン及び柑類、越後の鮭の粕漬、足柄の唐黍(とうきび)餅、五十鈴川の沙魚(はぜ)・・・。
(『墨汁一滴』)

 まだまだ続く。
 紹介しきれないが、中でも美味しそうなものをちょいと並べてみましょう。
 石見の鮎の卵、仙台の鯛の粕漬、下総の雉等々、デパートの物産展も真っ青。
 気になったのは、「甲州の月の雫」なるもの。
 これ、和菓子だった。
 江戸末期、ある菓子職人が甲州葡萄の粒を誤って砂糖蜜の中に落し、拾い上げて食べたところすばらしく美味しかったことから生まれたのだとか。
 現在は甲州葡萄を、求肥に包んで作っている。
 子どもの頃から果物が大好きだったという子規。
 この「月の雫」という風雅な菓子も、さぞ喜んで食べたことだろう。
 葡萄の他、梨、西瓜、林檎、無花果、レモン、桃やパイナップルのかんづめ。
 子規の日記には日々の食事が記され、そこにはほとんど必ず果物が登場する。

「子規は果物が大変好きだった。且ついくらでも食べる男だった」

 親友夏目漱石も、小説『三四郎』の中に子規を実名で登場させ、こう記している。
 大文豪にまでこう書かせてしまうんだからはんぱじゃない、歴史に残るほどの果物好きなんである。

ご飯四膳、おはぎ二つ・・・ いくらでも食べる男!

 「子規庵」と呼ばれた、根岸の住まいから出られない毎日。
 創作以外の楽しみがない身の欲望は、食べることへと集中するのか。
 子規の食欲は驚くほど旺盛で、果物に限らずまさに「いくらでも食べる男」。
 病人とは思えない食事の量、そしてその記録は克明だ。
 9月26日 曇 午後小雨
 朝 ぬく飯四わん あみ佃煮 はぜ佃煮 なら漬(西瓜)
 包帯取替及び便通
 牛乳一合ココア入り 餅菓子一個半 菓子パン 塩せんべい
 午 まぐろのさしみ 胡桃 なら漬 みそ汁実はさつまいも 梨一つ
 間食 葡萄 おはぎ二つ 菓子パン 塩せんべい 渋茶
 便通
 夕 キャベツ巻一皿 粥三わん 八つ頭 さしみの残り なら漬 あみ佃煮 葡萄十三粒
(『仰臥漫録』)

 これ、なんと1日の食事なんです。
 朝ご飯4膳、昼ご飯前に餅菓子一個半って、食べ過ぎでは・・・子規先生。
 昼ごはんを食べ、さらにおやつにおはぎ2つに菓子パン。
 牛乳はココアを入れて、欠かさず毎日飲む。
 どうやら牛乳そのものの味はあまり好きでなく、ココアを入れて風味づけしていたらしい。
 牛乳は栄養が取れるからなのだろう。
 こうした豊かな食生活を続けられた、ひとつの支えが弟子の存在だ。
 弟子たちは師匠に栄養をつけるべく、さまざまな食べ物を持参、あるいは送って来た。
 中でも長塚節はマメに子規のもとへと、たらの芽、雉、鶉、鴫など地元茨城の名産品を送り続けたという。
 子規もまたその思いに応え、歌に詠み、あるいは礼状を送った。

 「君がくれた栗だと思ふとうまいよ」

 そう書かれたはがきを受け取った長塚の心中は喜びだったか、切なさだったか。
 子規の病気は結核。当時は特効薬がなく、ひたすら滋養をつけるしかないとされた。
 食事は子規にとって、楽しみであり、そして病と闘うための唯一の武器だった。

 子規は下戸だったが、毎日必ず赤葡萄酒を飲んだ。
 これもまた滋養のつもりだったろう。
 ある日、当時としてはごくごく珍しいシャンパンももらった。
 が、お気に召さず、友人と少し飲んだきり残りを来客の車夫にあげてしまったという。
 も、もったいない。

 しかし、これぞ人徳というのだろう。
 動けない身体ながらに、珍しい食べ物も酒も、友人も弟子も集まった、「獺祭」のごとくにぎやかな子規の晩年。
 だが、まだ30代。
 子規の若い好奇心は満たすことができない。
 ある日の日記で、子規は珍しくかなわない願いを書き、「ちょっと見たい物」を挙げている。
 一、活動写真
 一、自転車の競争及び曲乗
 一、動物園の獅子及び駝鳥・・・

 その中に「ビヤホール」があった。
 1899(明治32)年に東京初のビヤホールが銀座に誕生。
 子規が亡くなるのはその3年後のことだ。
 新しい酒場に憧れた子規。
 にぎやかなビヤホールで、弟子たちと俳句論をたたかわせてみたかったのか。
 はたまた大好きな野球をした後、大ぜいでジョッキを傾けてみたかったろうか。

[参考文献]
『病牀六尺』『仰臥漫録』『墨汁一滴』(正岡子規、岩波文庫)
『三四郎』(夏目漱石、新潮文庫)


現代ビジネス、2012.01.24(Tue)
「日本人は何を食べてきたか」
第7回 正岡子規
闘病のため、いくらでも食べた男

(本郷 明美)
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/31268

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2020年01月09日

斉藤直子「子規はずっとここにいる」

「清洲橋」の道路標識が突然、目の前に現れてヤッホーくんがびっくりしたのは、おそれ入谷の鬼子母神まえ、

入谷鬼子母神(いりやきしもじん)」(下谷1-12-16、眞源寺)

 入谷鬼子母神は、日蓮上人の尊像とともにここ眞源寺に祀られている。
 眞源寺は、1659(万治2)年、日融上人により創建された。
 鬼子母神は、鬼神般闍迦(はんじゃか)の妻で、インド仏教上の女神のひとりである。
 性質凶暴で、子どもを奪い取っては食ってしまう悪神であった。
 釈迦は鬼子母神の末子を隠し、子を失う悲しみを実感させ、改心させたという。
 以後、「小児の神」として児女を守る善神安産・子育の守護神として信仰されるようになった。

 入谷鬼子母神では、子育の善神になったという由来から角(ツノ)のない字を使っている。

0110102角のない鬼.png

 また、七月上旬、境内及び門前の道路沿いは「朝顔市」で賑わう。
 入谷名物となったのは明治に入ってからで、十数軒の植木屋が朝顔を造り観賞させたのがはじまりといわれている。
 当時この地は、入谷田圃といわれ、朝顔や蓮の栽培に適していた。
 大正初期、市街化により朝顔市は途絶えたが、1948(昭和23)年復活。
 以後、下町情緒豊かな初夏の行事として親しまれている。


http://www.taito-culture.jp/city/landscape/si_216/087/s1.html

鬼子母神.JPG

 そう、そう、ヤッホーくんは「子規庵」の帰り道。
 この「鬼子母神」あたりも、正岡子規、1867(慶応3年) - 1902(明治35)年、歩けるうちは散策していたに違いありません。

鬼子母神の正岡子規文学碑

漱石来る
蕣や 君いかめしき 文學士
 (あさがおや きみいかめしき ぶんがくし)

入谷から 出る朝顔の 車哉  (いりやから でるあさがおの くるまかな)

子規の歌.JPG

―― 今年2017(平成29)年は子規生誕150周年にあたるということで、関連していろいろお話を伺えれば幸いです。よろしくお願い致します。

斉藤直子: 子規庵保存会の広報を担当しております斉藤と申します。よろしくお願い致します(ヤッホーくん注)。

子規庵の今昔

―― 子規庵は子規の時代と同じ場所にあるのでしょうか。

斉藤: 昔から同じ場所です。ただ、敷地は現在の半分ぐらい(55坪)でした。子規が居た時分は、根岸にありますので、「根岸庵」とも呼ばれました。現在、住所は台東区根岸2丁目ですが、当時は下谷区上根岸町と言っていました。

―― 子規没後、子規庵はどのように維持・保存されてきたのでしょうか。子規庵保存会の成り立ちなどと併せてお聞かせ頂けませんか。

斉藤: 子規没後、1911(明治44)年に遺族と子規庵を護るために、保存会を設けることが「旧友会」(虚子、碧梧桐、左千夫、不折、鼠骨など9名)で決まり、寄付金を公募することになりましたのが、保存会の始まりです。
 子規は、新聞記者だったわけですから、財産はありません。関東大震災後、1925(大正14)年に大家さんの前田家が下屋敷の土地と建物すべてを売却されることになりました。棟続きの隣家分まで購入してほしいとのことで、保存会は資金を子規の全集の刊行や、子規の真筆頒布などをして現在の子規庵の土地家屋を購入し、維持に当てました。
 1928(昭和3)年には寒川鼠骨さんが事務所を建てて移り住まれ、庵と律さんを護ることになります。その年、財団法人子規庵保存会の認可を得、律さんが初代の会長になられました。
 律さんの死後、1945(昭和20)年4月の空襲で全焼した子規庵を、1950(昭和25)年にほぼ昔の姿に再建したのは鼠骨さんです。
 1927(昭和2)年に作ったお蔵は焼けずに残りましたので、その中にあった遺品は無事でした。
 1952(昭和27)年11月に東京都指定史跡となり、今に至っています。
 一般財団法人子規庵保存会は、2018(平成30)年には設立90年を迎えます。現在は正岡家や門弟のどなたとも関わりのないボランティアの小さな団体ですが、来庵してくださる皆様のご協力を得て、子規庵の維持・保存に今後も努力したいと思っております。

[写真]
子規庵には、寒川鼠骨が草案したと思われる子規庵保存の主旨が掛けられています。

―― この周辺が現在のように建て込んだのは、いつ頃からでしょう。

斉藤: 私は根岸については詳しくありませんが、1901(明治34)年に、大槻文彦という根岸に住む有名な国語学者(『言海』の編集者)の方が、「東京下谷 根岸及近傍図(ねぎしおよびき んぼうのず)」という地図を作製しました。鉄道が出来たことにより、風情がなくなったが、曲がりくねった細道はそのままだとあります。お寺、湯屋、カ リコミ店、そばや、魚やなどもあり、田圃も載っています。元三島神社、根岸幼稚園、笹の雪を見つけてうれしくなります。文人墨客、画家の家や別荘もあったとのことです。
 1933(昭和8)年、律さんが碧梧桐の問いに、「加賀様のお構えが分譲地となって、そこらに立派なお家が並ぶようになりました」と話しています。
 1945(昭和20)年の空襲後、現在に至る根岸の変貌ぶりを、今後ご存知の方々からお聞きし、記録として残せたらいいなと思っています。

―― こちらに来られるのは、日本の方が主ですか。海外の方も来られますか。

斉藤: 北海道から沖縄の方まで来られますが、海外の方はまだそれほどでもありません。たまに日本文学にご興味がある方がお見えになりますが。2年ほど前にパンフレットの英語版を作りました。2020年の東京オリンピックもありますので、これからに期待しています。文学だけではなく、昔のふつうの日本家屋を見て頂くだけでもありがたいです。

中村不折との親交について

―― 向かいに洋画家の中村不折の旧宅と書のコレクションを基にした書道博物館がありますが、子規と不折の関係についてお話頂けますか。

斉藤: 1894(明治27)年、子規はこの家に移り住み、家庭向けの新聞「小日本」の編集責任者にな りました
 その年の1894年3月に、挿絵画家として浅井忠さんから1歳年上の不折さんを紹介され、すぐに意気投合したそうです。
 日清戦争時には、従軍記者と従軍絵師という関係でした。行ってみたら戦争が終わっていたので、二人はよく金州城外を散策したとのことです。帰国後、結核の悪化のために神戸で入院し、須磨で保養することになるわけですが、そこに見舞いに来た中村不折さんが帰りに奈良へ行き、すばらしかった、と手紙を書いたので子規も奈良へ寄り、「柿くへば・・」の句を得たと、お孫さんの中村初子さんからお聞きしました。「子規庵春秋」11号、14号に詳しく載っていますが、不折さんは1898(明治31)年に元三島神社の傍、1899(明治32)年に中根岸へ画室のある家を構えられて子規庵にはよく来られています。
 現在のお向かいに移られたのは、1915(大正4)年です。本当にご縁が深かったのですね。

[写真]
不折は、下谷での三度目の転居で現在の子規の住んでいた住まいの向いの上根岸125番地(現台東区根岸2丁目10-4、台東区立書道博物館)に移り住んでいます(『子規庵春秋』第14号、2014から)

[写真]
現在の根岸界隈
1901(明治34)年当時に比して、建物が建て込んですることが分かります。特に、明治34年当時の前田家の敷地の広大さが分かります。

夏目漱石との交遊


―― 子規は夏目漱石と親しかったとのことですが。子規庵にも良く来られたのですか。

斉藤: 子規庵には、年譜によると8回ほど来ています。漱石の留学中に妻の鏡子さんも見舞いに来られました。
 漱石、ロンドン留学前の1900(明治33)年8月26日に、寺田寅彦と共に訪ねたのが二人が会った最後になりました。同じ年齢の漱石さんとは、東京大学予備門(第一高等中学校)の同級で仲良しでした。交遊が始まったきっかけはどちらも寄席好きということ で、1899(明治22)年、22歳の時、声をかけたのは子規の方だとのちに漱石は話しています。二人の文学に通底するユーモアのセンスが分かるような気がします。
『吾輩は猫である』は、子規が亡くなった後に書かれた作品ですが、虚子が勧めて筆を執り、最初に読み上げられたのは子規庵の八畳間ですので、小説家「夏目漱石」を誕生させたのは、子規であるかもしれませんね。漱石はこの本を亡友の子規に献ずると書いています。

―― 他に子規に関わる方々を紹介頂けませんか。

斉藤: 子規庵に来られていた主な方をお話しすると、俳句では、高浜虚子(たかはまきょし)、河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)、内藤鳴雪(ないとうめいせつ)ですね。
 短歌では、香取秀真(かとりほつま)、伊藤左千夫、長塚節でしょうか。
 俳句・短歌の方はたくさんおられます。
 大事な方は、子規の勤めていた「日本新聞」社主、陸羯南(くがかつなん)です。
 陸さんが根岸に居られたので子規はここに越してきたわけです。
 画家の浅井忠も上根岸の住人で、子規は先生と呼んで尊敬していました。
 陸羯南の書生だった佐藤紅緑や、森鷗外、与謝野鉄幹、島崎藤村、会津八一、寺田寅彦などなど、訪ねて来た方の名を挙げると本当にきりがありません。

―― 子規は当時何で生活をされていたのですか。

斉藤: 職業は生涯、新聞「日本」の記者です。
 1892(明治25)年12月1日、神田雉子町の日本新聞社に初出社しています。最初は月給15円でした。主に文芸欄を担当していました。のちにお給料はだんだん上がって最後は40円になりましたが、主宰をしていた「ホトトギス」から月に10円入るようになり、1ヶ月50円になっても家族3人の生活はつつましく、薬代や、食事代(結核のために栄養をつける)がかかるので大変でした。よく親戚の方々や、虚子をはじめ門弟たちにも借金しています。皆さんがごぞんじの随筆『墨汁一滴』、『病牀六尺』も新聞に掲載されたものです。
 文豪子規、と言われていますが、子規はサラリーマンでもあったわけです。

野球にまつわるエピソード

―― 子規がベースボールに熱中していたのはいつ頃のことでしょうか。どこで主に行っていたのでしょう。文章など何か書いていますか。

斉藤: 松山中学を中退して上京し、東京大学予備門に入ってからです。
 1886(明治19)年頃に興味を持ち、1888年、21歳の時「この年、ベースボールにのみ耽(ふけ)り、バット一本 球一個を生命のように思う」というほどの熱中ぶりで、「野球(のぼる)」の雅号もあり、随筆『筆まかせ』『松蘿玉液』(しょうらぎょくえき)に詳しく野球の解説を書き、俳句や短歌も詠んでいます。
 上野公園で試合をした時など、沢山の見物人がいたとのことです。練習は本郷の寄宿舎周辺の広場ではないでしょうか。「野球」と名付けたのは、後輩の中馬庚(ちゅうまかのえ)ですが、子規も打者、走者、飛球、死球等と訳しています。キャッチャー(投手もした)で、左バッターでした。野球の普及に貢献した人物として、2002(平成14)年に殿堂入りを果たしています。

[写真]
子規庵の庭に建つ鼠骨(寒川鼠骨)の句碑
 三段に雲南北す今朝の秋
       八秩 鼠骨(八秩は、八十歳のこと)

妹・律と子規


―― 妹さんの律についてお聞かせ頂けませんか。

斉藤: 律さんはテレビドラマ「坂の上の雲」(2009年11月29日から2011年12月25日まで足掛け3年にわたってNHKで放送された)では女優の菅野美穂さんが演じられて有名になりましたが、本当に献身的に子規の看護をされました。
 ただ兄妹ですから日常の喧嘩もあったのでしょう。『仰臥漫録』という病床日録に、律さんの悪口をずいぶん書いています。でも、同時に、妹が一日でも居なければ自分はほとんど生きて居られないだろうとも言ってます。その喧嘩のあとは必ず甘いものを家族三人で食べているのが面白いですね。
 子規が亡くなった後に律さんは32歳で女子職業学校に入学し、卒業後は事務職を経て裁縫科の教員になっています。今の共立女子大の前身の学校で、しっかりした優秀な先生だったそうです。また、叔父さんの息子さんを養子にされて、正岡家を遺されました。

―― 律さんは結婚されていたのですか。

斉藤: はい。東京に来る前に松山で15歳と19歳の時に結婚されましたが、いずれも1年程で離婚しています。その後、お母さんの八重さんと共に22際の時に上京されました。子規の看護の為に離婚したとの話もありますが、そうではありません。子規は、律さんのことを結婚にむかないとか、強情で愛嬌がないとか日記に書いてますが、主治医は律さんを「お母さん以上に親切」と言っています。

―― 庭の植栽は、律さんが考えて植えられていたのですか。

斉藤: そうですね。もちろん一番働いて植えられたのは律さんでしょうね。お母さんも花の種を買われています。門弟の方々や、不折さん、鷗外さん、隣に住んでおられた新聞「日本」の社主陸羯南(くがかつなん)さんの娘さん、理髪屋さんまで、子規さんのためにと草花や花の種を持って来ています。

―― 羽二重団子は、子規の『仰臥漫録』の他、漱石の小説等にも登場します。好物だったのですか。

斉藤: 甘いものは好物でした。『仰臥漫録』に或日の間食は、小さな菓子パン十数個と書いて います。どんなパンだったのでしょう。
 羽二重団子は、「芋坂団子」と呼ばれて『仰臥漫 録』には食べたい気持ちを察してくれないと律さんへの怒りをぶちまけています。
 俳句に 「芋阪の 団子屋寝たり けふの月」などあり、勿論、『吾輩は猫である』にも出てきますね。
 元気な時の好物はお肉や鰻だったようですが、甘いものや果物はずっと好きだったようです。

――『果物帖』に描かれた物は、子規が食べた物を描いたのですか。

斉藤: 子規は亡くなる少し前、夏頃から不折さんにもらった絵具で花や果物などを描くことに 熱中しました。病床で寝たまま絵筆を取るので、介助する律さんも大変だったでしょう。 バナナやパイナップルという当時まだ貴重な頂き物と、日常食べていたナスやカボチャ等の野菜が描かれてい ます。
 今年2017年9月から、子規庵の販売所で絵はがきを買うことができます。「草花帖」の絵はがきもあるので、ぜひご覧になってください。

―― ご兄妹は妹さんだけだったのでしょうか。子規の没後は、ご家族はどのような生活をされていたのでしょうか。

斉藤: 3歳年下の律さんと二人だけでした。子規の没後は、お母さんの八重さんと律さんが、これまで通り、句会や歌会や文章会のお世話をされています。
 正岡家を遺すために従弟(母の弟、 加藤拓川の三男)の忠三郎さんを養子にされましたが、関西にお住まいだったので、 ご一緒ではなく、母娘でずっと子規庵でお暮しでした。共立女子職業学校を退かれたのは、 1923(大正12)年、53歳の頃で、それからは知人の娘さんたちに裁縫や手芸を教えていたそうです。
 八重さんが1927(昭和2)年に亡くなられた後、共立の教え子の方々がよく遊びに来られ、庭での写真も残っています。
 曽野綾子さんのお母さんも教え子だったとのことです。
 忠三郎さんのお子さんに会いに行かれたり、お庭で鶏を飼ったり、歌舞伎を観にも行かれたり、穏やかな晩年を過された律さんは、1941(昭和16)年5月、71歳で亡くなられました。

[写真]
律(左)、忠三郎(中央)、八重(右)(松山市立子規記念博物館蔵)
正岡家は、家督の相続者として、正岡家の後見ともなっていた八重の弟の加藤常忠の三男の忠三郎を迎えていました(1914(大正3)年)

故郷松山と子規


―― 子規はここにに住まわれてから松山には帰省されたことはあったのでしょうか。

斉藤: ここに移ったのは1894(明治27)年です。
 1895(明治28)年3月、日清戦争へ記者として行く前に父の墓参に帰っています。
 清国からの帰路、船中で喀血しそうになったのを飲み込んでしまい、そのため半死半生で5月末に港に着いてすぐに神戸病院に入院しています。須磨の保養院へ移りその後、当時松山中学校に英語教師として赴任していた漱石さんの下宿先へ52日間も滞在しました。これが子規の最後の帰省となりました。
 この愚陀仏庵(ぐだぶつあん・漱石の俳号にちなむ)の1階に子規、2階に漱石が居たとのことです。
 その間、鰻やら何やらを出前で取って食べていたらしい、漱石さんのツケで。また、子規の俳句仲間が連日やってきて句会をするので、2階から降りて漱石も仲間に加わったという話です。
 帰京する際には、漱石さんに10円の餞別をもらい、奈良に立ち寄ったときに、有名な俳句の「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」を詠みました。

―― 松山市立子規記念博物館には子規の多くの資料が保管されていますが、子規庵はいかがですか。

斉藤: 松山市の子規記念博物館が一番でしょうか。あとは国会図書館など、子規の資料はずいぶん幾箇所にも分かれていると思います。個人蔵もありますし。
 子規庵は、子規が日常使っていたものや、門弟の方や友人から贈られた品々がお蔵にあります。子規関係の展示がある時にはご依頼に応じて貸し出しを致します。その中でも人気があるのは小さな地球儀で、これは、子規庵の再建と保存に尽力された寒川鼠骨(さむかわそこつ)さんが、子規が亡くなる前の年、1901(明治34)年のお正月に、20世紀を迎える記念として贈ったもので、子規はとても喜びました。直径が7.5センチ、丁度、橙(だいだい)ぐらいの大きさです。病床の傍らに置いて、パリの不折さん、ロンドンの漱石さんに思いを馳せていたのかもしれません。
「子規庵春秋」12号の表紙の写真は実物大です。子規もさぞ外国へ行きたかったことでしょう。

子規生誕150周年記念に関して

―― 今年2017年の子規生誕150周年記念の催しについてお話し頂けますか。

斉藤: 毎年5月に「若葉の子規庵」というパネル展示があります。
 今年は記念行事の皮切りに「慶応三年異能ボーイズ」と題し、大政奉還の年に生まれた多くの異能の人から、子規、夏目漱石、柳原極堂、南方熊楠、尾崎紅葉、幸田露伴、宮武外骨を取り上げて紹介しました。
 ボランティアの若い世代、宇宙(そら)の会の会員が、7名の紹介パネルに加えて、漫画風のイラストや異能ボーイズの等身大パネルも制作し、いつもとは違う子規庵の雰囲気が好評でした。

―― 異能の皆さんは、それぞれ面識があったのでしょうか。

斉藤: 博物学者南方熊楠は、子規と同じ学校(共立学校、東京大学予備門)に学び、幸田露伴は、子規の憧れの小説家で、自分の小説「月の都」の批評を仰いだ人でした。
 尾崎紅葉は、子規とはまったく異なる俳句を作り、若くして露伴と共に有名な小説家で、やはり東京大学予備門に入学しています。
 柳原極堂(きょくどう)は、松山中学の同級生で、俳誌「ほとゝぎす」を創刊した人です。『友人子規』を書き、子規の顕彰に余生を捧げました。
 宮武外骨(がいこつ)は、反骨のジャーナリストとして知られています。晩年、自分と同年の方たちを書いた中に子規も入っていたと思います。
 夏目漱石は、子規の親友として皆さんがよくご存知のことでしょう。
 7人のうち30代に亡くなったのは子規と紅葉さんです。
 外骨さんと極堂さんは昭和30年代まで長生されました。
 子規を中心に話しましたが、この異能の人たちが生きていた時代を考えさせられる企画展示でした。

―― 9月の「糸瓜忌」についてお聞かせください。

斉藤: 今年の正岡子規生誕150年記念特別展示は、「子規の歳旦」と題して、1901(明治34)年、年賀の客のために用意された「歳旦帳」(さいたんちょう、未発表の俳句や自画像を含む芳名録)を中心に、子規の文房具類や、日清戦争従軍に携えた仕込杖の刀身を展示しました。
 仕込杖は、旧藩主から従軍前に拝領したものです。皆様にご寄付を仰ぎ、錆びついていた刀身が、本阿弥光州氏(人間国宝)の研磨によって本来の輝きを取り戻しました。8月に子規庵で記者会見をし、新聞などで報道されましたので、例年より多く、3200人もの来庵者があり、ありがたかったです。
 また、9月17、18日、台東区生涯学習センタ―での生誕記念オペラ「病牀六尺に生きる」には、大ぜいご来場されて感激いたしました。
 生誕日の10月14日は、来庵された皆様に、子規の描いた画(草花帖、果物帖)の絵はがきをそれぞれ1枚ずつと、松山市発行のふるさと切手2種のプレゼントを用意しました。

――「糸瓜忌」の時期は、お客さんは多いのでしょうか。

斉藤: はい。1年で一番多い1ヶ月です。
「糸瓜忌」になりますと、子規に関する実物の遺品や資料が展示されるので、他の月とまったく違った子規庵になります。
 次に多い月は5月です。「若葉の子規庵」展(パネル展示)や緑のきれいな季節ですし。
 10月も糸瓜や鶏頭が残って秋の風情です。花々が美しいと子規さんが喜んで居られるような気がします。
 フェイスブックやHP、メルマガ等で今咲いている花や展示、催事のお知らせを発信していますので、ぜひご覧になってください。
 人の少ない冬の日や雨の日に、子規の机の前に坐ってのんびり庭を眺めるのも、心が落ち着きますよ。

子規庵の庭について

―― 最後に、子規の句や歌で詠まれている庭は、当時とあまり変わってはいないのでしょうか。

斉藤: そうですね。よく質問されますが、1945(昭和20)年4月の空襲で子規庵は焼けてしまいましたので、庭も昔のままではありません。
 でも、少しずつ昔の庭に近づけばいいなあと、糸瓜棚や、子規の病室であった六畳からの眺めの象徴である鶏頭(ケイトウ)の花などは、毎年皆さんにお見せ出来ますように担当の理事が世話をしていますが、子規が「小園は余が宇宙」と言っていました頃と同じく、余り整った庭にはなっていません。
 雰囲気は昔と同じです。子規にとって花や草木や鳥、虫は共に生きている仲間であったように思います。
 今年の秋は白萩が一番見事ですが、秋海棠(シュウカイドウ)、芒(ススキ)、水引草(ミズヒキソウ)、女郎花(オミナエシ)、藤袴(フジバカマ)、紫式部(ムラサキシキブ)等と一緒に野の草も咲いています。
 春夏秋冬、花も草木も変化しますので、ガラス戸からの眺めも楽しんでください。
 冬の陽が、子規の病室であった6畳の部屋に射すと、障子からガラス戸に替わったときの子規の喜びを体感することができます。
 子規庵は、今でも子規さんがどこかに居られるような気がする不思議な空間のようで、来庵される方々もそのようにノートに記されています。


台東区文化ガイドブック
子規庵保存会理事の斉藤直子さんにお話を伺いました。2017年6月16日撮影
子規の才能は、様々な分野で開花し、そして今も引き継がれています。

http://taito-culture.jp/topics/famous_persons/shiki/japanese/guide_02.html

(ヤッホーくん注)斉藤直子(1943(昭和18)年、朝鮮生まれ。1945年、馬山より博多港へ引き揚げる)。
著書に『子規はずっとここにいる、根岸子規庵春秋』(北冬舎、2017年9月)。

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2020年01月08日

清洲橋通り

☆ 2010年11月07日「マルシェ」
☆ 2011年01月24日「茶番劇」
☆ 2011年01月25日「横川国民学校」

 3.11の前後、「清洲橋」に関する記述のあるヤッホーくんのブログ、三つづつ日記をご紹介しておきました。ぜひお読みください:

☆ 2011年08月18日「外国人居留地
☆ 2011年10月11日「太田圓三」
☆ 2011年12月03日「エイシン」

 ところで、昨2020年1月7日の午前中、ヤッホーくんの「朝キン」は入谷の鬼子母神。
 そうです、「恐れ入谷(いりや)の鬼子母神(きしもじん)。びっくり下谷の広徳寺。そうで有馬の水天宮」という江戸っ子の洒落を深川っ子がお正月の見物に出かけた、という次第で。
 ところでヤッホーくん、恐れ入谷でびっくり下谷、そうで有馬でした。深川から地下鉄をのりついでやってきたのに、どうしてまた「清洲橋」?!

清洲橋通り.JPG

「清洲橋通り」は、ここを源とする?そうでしたかぁ。
 またまたヘタレのヤッホーくん、正月から驚き桃の木山椒の木の連続で、口をぽか〜んと開けたまんま。
 だってぇ、日本中どこを訪れても、「清洲橋」が一番きれいで見事で、優雅でのびのびしてるんだもん:

 隅田川には関東大震災の復興期に架けられ、竣工から90年前後になる歴史的な橋が10橋ある。最も古いのは1926年(大正15年)に完成した92歳の永代橋。アーチ橋の永代橋とつり橋の清洲橋は対をなすデザイン性に優れ、いずれも国の重要文化財に指定されている。現在、東京五輪に向けてライトアップ工事をしており、鮮やかな夜景に浮かび上がる姿を眺めることができるだろう。

 橋の老朽化が各国で課題になっている。イタリアで2018年、完成から50年経過した高速道路橋が落ち、米国では07年にミシシッピ川にかかる竣工40年の橋が崩落した。雨水などで鉄が腐食したりコンクリートの強度が落ちたりしたのが原因とみられ、国土交通省幹部は「維持管理が不十分だと50年ほどで崩落の危険が高まる」と指摘する。

 隅田川の10橋はなぜ丈夫なのか。多くの橋が関東大震災で焼け落ちた教訓から、しっかりした造りになっている。市電を通す設計で荷重を計算しているため、自動車用の橋としては余裕がある。

 都の調査によると、橋脚や橋台はその設計強度を大幅に上回る強度があった。しっかり詰まった川砂を使うなど骨材が良質で、施工も丁寧だったという。橋脚の表面に張った花こう岩がコンクリートをカバーし、塩害もほとんど進行していない。

 メンテナンスもきっちりしている。10橋のうち、永代橋や清洲橋など都道にかかる7橋を都が管理し、国道の3橋は国土交通省の管理。都はおおむね10年に1度、塗装を塗り替え、さびを防いできた。87年からは5年に1度の定期点検を始めた。国が5年に1度の法定点検を始めたのは12年の笹子トンネル天井板崩落事故の後からだ。

 都は11年からは長寿命化に向け、定期点検より詳細な検査を実施している。劣化した部品を交換するほか、制震装置の設置を進め、首都直下地震が起きても橋の機能を維持できるようにしている。都建設局の本間信之橋梁構造専門課長は隅田川の橋について「未来永劫(えいごう)残したい」と語る。

 国交省によると、全国にある道路橋は約73万橋。完成後50年を超えるのは18年に25%だったが、23年に39%、33年は63%。高度成長期以降に造られた橋の老朽化が急速に進む。この対策に隅田川の橋での智恵が生かされることを期待したい。


日本経済新聞、2019年7月3日 7:00
隅田川10橋
長寿の智恵

(編集委員 斉藤徹弥)
https://r.nikkei.com/article/DGXMZO46876710S9A700C1L83000

 2020年7月24日開幕の東京五輪やパラリンピックに向け、東京都が隅田川に架かる10本の橋を新たにライトアップする準備を進めている。アーチ部分は個々の橋の塗装を生かして白色ライトで照らし、欄干部分を5色の光で染めて盛り上げる計画。水面にも光が揺らぐ夜景で世界の観光客を迎える。

 ライトアップは都内での聖火リレーが始まる7月10日に始め、パラリンピック閉幕の9月6日まで実施。五色の光は五輪カラーのうち青、黄、緑、赤に加え、本来の黒を紫で代用する。

 都によると隅田川に架かる橋の色は赤の吾妻橋や緑の厩橋など色とりどり。個々に特徴があるアーチの造形美も遊覧船が観光客の人気を集める理由の一つだ。

 都は夜景の魅力も高めるため、東京大会までにLED照明を整備する計画を2017年に発表。パラリンピックの一年前となる2019年8月から9月にかけては整備の終わった駒形橋と厩橋、蔵前橋をパラリンピックカラーの赤、青、緑でライトアップした。

 都の担当者は「隅田川の橋は江戸時代から人びとに親しまれ、関東大震災の復興のシンボルでもあった。歴史を感じながら、東京の新たなナイトライフを楽しんでほしい」と呼び掛ける。

 東京大会の期間中は国立競技場などの競技会場のほか、東京スカイツリーやレインボーブリッジ、歌舞伎座などの観光名所でもライトアップの計画が官民合同で進行中。新たな光の装いで五輪開催都市の東京を世界にアピールする。


東京新聞・夕刊、2020年1月4日
<東京2020>
五輪へ五彩のアーチ
隅田川の橋10本、都がライトアップへ

https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/202001/CK2020010402000209.html

 清洲橋通りにある食堂「七福」ご紹介:

 たまには正月らしい店名の食堂にしようと、「七福」にした。
 住所は白河だが、昔から深川と呼ばれている地域で、周囲には深川七福神がある。

「七福」は、1995年の遠藤 哲夫、大衆食の会『大衆食堂の研究、東京ジャンクライフ 』(三一書房、1995年7月)にも載っている。
「『七福食堂』――江東区高橋のたもとにある。いかがわし度2。暖簾に「実用」の文字がいい」というぐあいだ。

「高橋のたもと」というのは、「たもと」に近いぐらいで、すぐそばではない。
 ところが、おれ自身も「たもと」にだまされてしまい、以前に再訪したときには、高橋のたもとすぐのあたりをうろうろし、住所は控えてなかったし、探したが見つからなかったことがある。

 とにかく、このあたりは大変貌した。
 とくに「七福」がある清洲橋通りの大きな交差点の周辺は30階ぐらいはある高層マンションがニョニョキ建って、空が広かった下町の面影はない。

「七福」も、二階建ての木造から建て替わった。
 外見は変わったし、中も壁は板張りで「デザインされた」内装になったが、そこまで。

 暖簾と看板の「実用洋食」は、そのままだし、実用のイスとテーブルで、実用の洋食を食べる。

 かつて、というのは半世紀以上は前になるか、「実用洋食」が流行ったらしい。
 まだ詳細に調べてないが、そういう記述は見かけた。

「実用」という言葉の意味は、なかなか深長で、このばあいの判断は難しいが、おそらく、当時ごちそうで高級なイメージだった洋食に対してのことだろう。

 1960年前後ぐらいまでは、東京の洋食は「ハイカラ」などといわれ、けっこう上位概念だったのだ。

「七福」の「実用洋食」は、大いに納得する。
 日替わり定食の盛り合わせを始めとする各種盛り合わせメニューの充実に、なんだかお店の洋食への「熱」を感じる。

 オムライスを食べたことがないのだが、一人で入ってくる近所の会社員らしい女性たちは、ほとんどこれを食べている。

 そのオムライスからして、たいしたボリュームだ。
 定食のごはんの量も多く、おかずのボリュームもある。
 フライ類は、ボリュームがあっても、油が気になることはなく、サクサク食べられるが、おれはめしの量にまいってしまう。
 なのに、まわりでは、大盛りを注文する客もいる。くそ〜っ、大食いできないジジイになってツマラナイな〜と思うのだ。

 このあたりは、かつては、中小零細の事業所が多かった。
 いまでもビルの一階が工場だったりするところもある。

「七福」の客には大盛り確率が高い作業服姿の労働者が多くみられる。
 大盛を食べるスーツ姿の労働者もいる。

 ガッチリめしを食いたい人はいるのである。
 それは「実用」という「文化」を支える人たちでもある。

 そして、「実用」の「文化」によって、さまざまな「産業」や「文化」が支えられている。

 実用万歳。


ザ大衆食つまみぐい、2019/02/27
東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」76回目、深川「七福」。
気どるな、力強くめしをくえ! 「大衆食堂の詩人」「酒飲み妖怪」といわれるエンテツこと遠藤哲夫のブログ

http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2019/02/post-a941.html

 この「七福」を売れっ子作家になる前の修業時代によく食べに訪れていた、というのが直木賞作家、山本一力(1948年高知市生まれ)さんだったのです。

――「七福」(江東区白河 3-9-13 Tel 03-3641-9312)を創業するに至った経緯や、店名の由来をお聞かせ下さい。

[満オーナー]
 創業は1967(昭和42)年4月2日でね、修業をさせてもらっていたお店のオヤジ、師匠に「もうそろそろ良いだろう」と、暖簾分けというかたちで独立を認められて、お店を構えたんです。ここの土地を選んだのは、当時この近くで先輩が店をやっていまして、良い場所があるよと、師匠に話が行ったんですね。私もまだ若かったから、師匠に見てもらって「ここなら良いだろう。やるだけやってみろ」。
 太鼓判を押してもらったことで、この土地に決めました。当時はまだまだ殺風景な場所で工場ばかりだったけど、今じゃずいぶん変わりましたね。良い土地を選んで紹介してもらえたと思っています。
 名前はですね、師匠のお店「七福」からなんですが、師匠が自分の店を開くときに電話番号を電話局にもらいに行ったんです。そうしたらもらった電話番号は「0729(シチフク)」だったんです。それで、これは縁起も良いし、お客さんからも覚えやすいだろうってことで、「七福」になったと聞いていますよ。

―― 七福、開業当時の話を教えて下さい。

[満オーナー]
 開業当時は25歳で若かったからね、仕事は出来ても「経営する」ってことはよくわからなかったから、大変なこともありました。でも、どうしたい、こうしたいというよりは、毎日を一生懸命、誠心誠意を尽くして夢中でやるってことしか考えていなかったですよ。儲けとかも考える余裕もなく、店を守るためにただただ修業してきたことを思い出して、真面目に毎日を過ごしていましたね。

[康子おかみ]
 そうですね。なにしろ私も16歳から飲食店で働いてましたから、今までやってきたことを同じようにやっていけばいいのかなと、先のことは考えずに毎日一生懸命にやるだけでしたね。21歳で結婚して、25歳でお店を持たせてもらって。当時は何よりも頑張るしかなかったですよ。

―― どんなお客さんがいらっしゃるんですか?

[康子おかみ]
 開業当時はこの近くに都税事務所があったんですよ。ですからお役所関係の人とか、あと地元の会社の人、運輸関係の会社も多かったですね。タクシーの事務所もいくつかあったから、運転手さんも多かったですよ。

[満オーナー]
 開業当時にお隣のおじいちゃんが、「小杉さん、入丸さん、日通さん(※当時のお店周辺にあった運輸会社)を絶対にとりなさい。あそこは大きいから、お得意さんにとればお店は大丈夫だよ」と言われたものですね。

[康子おかみ]
 当時は何やっているのかなぁ、なんて思っていた方がなんと作家の山本一力先生だったり、開業当時は高校生だった男の子が、今じゃ明治座の舞台も手掛けるような作曲家の先生になってたりするんですよ。
 今でもお店に来てくれますよ。
 芸能人の方も多いですね。岩崎宏美さんは20年ぐらい前から来て下さるし、ぐっさん(山口智充さん)も番組の取材で来て下さった後に、また来てくれました。

―― 皆さんに愛される七福のメニューについて教えて下さい。

[満オーナー]
 開業当時から味も変わらずに、開業当時そのままのメニューでお出ししています。値段は変わったけど、開業した時はとんかつライスが130円で、当時でも随分安かったみたいです。電話で「本当に130円ですか?」なんて聞いてくる人もいたぐらいなんですよ。

[康子おかみ]
 昔ながらのメニューですけど、洋食も中華物もありますよ。おすすめの七福ランチはメンチボール、エビフライ、肉天、ハムの盛り合わせで並みが810円です。「ランチ」っていいますけど、七福では一日中出しているんですよ。

[満オーナー]
 夜に来たお客さんに「夜なのにランチあるの?」なんて聞かれることがありますけど、「ランチタイム」の「ランチ」じゃなくて、うちは昔っから「盛り合わせ」ってことなんですよ。わかりやすく言えば「お子様ランチ」みたいなものです(笑)。

―― 最後に七福さんから地域の皆様にメッセージをお願い致します。

[満オーナー]
 お客様には皆さん平等に提供させて頂いています。これからも昔ながらのこの味を守って、自然体で一生懸命やって行きますので、今後もよろしくお願いします。

[康子おかみ]
 いつもありがとうございます。
 皆さんを笑顔でお迎えできるように、元気よく、大きな声で頑張っていきますので、これからもよろしくお願いします。

※ 上記記事は2011.2に取材したものです。

江東区時間
「七福」小堀満オーナー&康子おかみ、ミツル & ヤスコ
https://www.koto-jikan.com/request/area/owners_profile_d/285/

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すがすがしい青空が広がる冬の東京

 9年前か10年前のころ、空き缶拾いをしていたとき、いっつも街角で出会うふてぶてしい面構えの悪徳代官、すがも、どうも「菅」という字には吐き気をもようしてしまうヤッホーくんです。
 年があけてもどんよりとした空模様のつづく今日この頃、いかがおすごしでしょうか。
 かつて冬の東京の空って、どこまでも澄んでいて、きれいな青空が目の前にひろがっていたような、
 今ごろのヤッホーくん、乾いた外気で鼻も喉もやられ、おまけに熱もだして床に臥せていたような、
 それがどうしたんでしょう、南の島、屋久島がそうだったように雨が多く、亜熱帯になったような、
 木枯らし一号は、観測史上はじめて一昨年2018年、昨年2019年と2年連続吹かなかった、というし、
 はやくもどってきてほしいんです、すがすがしい東京の青い空に、凛とした空気、冬の美しい太陽、

 自民党の秋元司(1971年生まれ)衆院議員(東京15区選出)の逮捕によって、カジノ(IR)を取り巻く状況は政界の巨大疑獄事件に発展しようとしている。逮捕された秋元司衆院議員、家宅捜索を受けた白須賀貴樹衆院議員以外にも、贈賄で顧問が逮捕された中国企業「500ドットコム」から接待や供与を受けたとして、さまざまな政治家の名前が取りざたされている。

 そんななか、今度は菅義偉官房長官率いる内閣官房のIR事務責任者が、中国企業「500ドットコム」が深く関わったシンポジウムに参加していたことがわかった。

 このシンポジウムとは、2017年10月29日、東洋大学白山キャンパスで開かれた「ギャンブル依存研究の最前線」。周知のように、カジノを認めるIR法成立にあたっては、ギャンブル依存症対策の必要性が叫ばれ、現在も、予算拡大、保険適用などの動きが進んでいる。このシンポジウムもそうした推進とセットで開催されたものらしく、会場に集まった100人ほどの聴衆も多くはIR関係者だった。

 シンポジウムではまず、京都大学医学部の高橋英彦准教授(当時)が基調講演を行ったのだが、これに続いて、なぜか500ドットコムの最高責任者・潘正明CEOが登壇。「ギャンブル依存症対策におけるビッグデータの役割」と題して特別講演を行なったのだという。

 そのあと、潘氏も残る形でパネルディスカッションが開かれたのだが、これに参加したのが、中川真・内閣官房IR推進本部事務局長(当時は次長)だった。中川氏はこの日、菅官房長官の「日本から依存症を減らすのではない。依存症をなくす」という言葉を紹介し、IR推進法の成立を受けて、政府はギャンブル依存症の取り組みを本格化させると力説。来場者からの質問に応じるかたちで、「IR法案を出すことになるのは、おそらく来年以降に開催される国会になるのではないか」と、法案提出の見通しまでとくとくと解説していた。

中川氏は財務省出身ですが、2014年から内閣審議官として内閣官房に出向。菅官房長官に重用され、2017年からはIR法の策定やカジノ事業者の管理政策を一手に仕切ってきた。2018年には、来年から発足するカジノの監視機関・カジノ管理委員会の人選にも大きな影響力を発揮してきました
(全国紙官邸担当記者)

 いわば、中川氏は日本のIR推進のキーマンとなってきた官僚、IR政策における菅官房長官の右腕的存在なのだ。そんな人物が国会議員への賄賂ばらまきで捜査を受けているカジノ企業のCEOと同席していたというのは驚きではないか。

 しかも、これ、第三者が開いたシンポジウムにたまたま同席したという話ではない。というのも、このシンポジウム主催者は「依存学推進協議会」(以下・依存学会)というNPO 法人なのだが、この団体、500ドットコムと一時、密接な協力関係を築いていたからだ。2017年10月、500ドットコムと依存学会は共同でギャンブル依存症対策研究のテーマ検討部会を立ち上げており、前述したシンポジウム3日前の10月26日に、潘CEOと依存学会の西村周三理事長が同席して記者発表を行っている。

当時、500ドットコムは8月に日本法人を立ち上げたばかり。その存在を政府や自治体、IR関係者にアピールするために、この依存学会に接近して、協力体制を築いたんでしょう。当初は、研究助成の名目で500ドットコムが資金提供する予定があるとの話も聞きました。内閣官房IR推進本部の中川局長が出席したシンポジウムも、明らかに500ドットコムの宣伝の意味合いがあったと思いますよ。実際、500ドットコム自体がまるで自社主催のような体でプレスリリースを出していましたから
(IR関係者)

 500ドットコムが依存学会に資金提供していたかどうかについてはまだ、はっきりした証拠はないが、少なくともこのシンポジウム自体、500ドットコムの息が強くかかっていたことは間違いない。

 逮捕された秋元議員も2017年8月、逮捕された500ドットコムの顧問が仕切って那覇市で開いたIRのシンポジウムで潘CEOとともに基調講演を行ったことが明らかになっているが、内閣官房のIR推進本部事務局長・中川氏も、同じことをしていたといってもいいだろう。

 また、これは裏を返せば、500ドットコムのアプローチが政権中枢にまで伸びていた証でもある。

500ドットコムCEOと内閣官房事務局長が参加したシンポジウム主催団体の正体

 今回の贈収賄事件については、逮捕されたのが秋元議員で、ターゲットが北海道の留寿都村だったことから、「IR利権の中心からは遠い小物、マイナーな勢力がおこぼれに預かろうとした不正ではないか」ともいわれていたが、菅官房長官の右腕で、IR推進の中心的官僚が関わっていたとすれば、話は大きく違ってくる。

 いや、IR推進の官僚だけではない。実は、500ドットコムはIR誘致が決定的といわれる大阪府や大阪市、そして、大阪を拠点とする日本維新の会にもアプローチしていた可能性がある。

 鍵を握るのは、500ドットコムと密接な協力関係をしき、くだんのシンポジウムを開催したNPO法人「依存学推進協議会」だ。

 不可解なことに、会のホームページは秋元容疑者が逮捕された前後から閲覧できない状態になっているが、この依存学会の幹部には、以前からIRを積極的に推進してきた学者やカジノやギャンブル業界と深い繋がりを持つ企業関係者、大手広告代理店のIR推進担当者たちが参加している。

 しかも、この依存学会の幹部を調べていくと、“大阪のIR推進勢力”とのただならぬ繋がりが明らかになる。

 まず、依存学会の副理事長で、潘CEOや中川事務局長とともに問題のシンポジウムに参加していた谷岡一郎・大阪商業大学学長だ。谷岡氏はカジノやギャンブルについての著作を多数もつ「IR推進派」の学者。学長を務める大学の大学院にIRの専門コースまで設置している。谷岡氏はIR推進論客として「Hanada」(飛鳥新社)2017年2月号にも登場し、当時、審議中だった「IR法案」に反対する野党を批判。さらに〈カジノが新しく作られた地域でギャンブル依存症患者が統計上増えるのは、ほとんどが「ギャンブルをやめられないのが病気である」ことに気がついた人が増えるためと、もうひとつ、「相談窓口と治療施設が増えた」ことによると考えられる〉などの持論を展開していた。

 もうひとりが、理事の勝見博光氏だ。勝見氏は研究者であると同時に、大阪にある「IR戦略コンサルティング会社」の代表取締役社長でもある。この会社は〈日本のカジノユーザー約3万人が登録する、日本最大級のカジノとリゾートの情報サイト〉の運営等も行なっており、昨年秋には、大阪市北区に「カジノを疑似体験できる」と謳う店をオープンしている。同店では、客に飲食物を供するとともに、実際にディーラーがポーカーやバカラなどの遊戯を行う。メディアにも取り上げられ、勝見氏は「IR関係者が集まって交流するような場にしたい」などと語っていた。さらに勝見氏は、IRへの参入が取りざたされる日本のパチスロ大手・セガサミーホールディングスが今年になって立ち上げた一般社団法人「セガサミー文化芸術財団」の「クリエイティブディレクター」にも就任している。

シンポジウム主催のNPO幹部は大阪府・大阪市IR推進会議の委員も務めていた

 しかし、問題はここからだ。この500ドットコムと協力関係にあった依存学会幹部の2人は、その関係があった時期、大阪府・大阪市IR推進局が夢洲地区へのIR誘致を検討・協議する「IR推進会議」(座長=溝畑宏・公益財団法人大阪観光局理事長)の委員を務めていたのである。

 谷岡氏は2017年の大阪IR推進会議に発足当初から2019年2月の第10回会議まで委員を務めた。第2回会議から第9回までは座長代理に就任し、府民・市民向けのIRセミナーで何度も講演しているだけでなく、大阪維新に所属する府議会議員の集会にも参加していた形跡がある。

 勝見氏にいたっては、“維新のドン”である橋下徹氏が首長時代から「大阪カジノ構想」に深く関与してきた。勝見氏はかつて「大阪エンターテイメント都市構想研究会」なる、2009年に大手ゼネコンや広告代理店らが設立した団体で研究員を務めていたのだが、この「都市構想研究会」は2010年1月、カジノに関する報告書をまとめて大阪府に提出。橋下府知事が掲げた「大阪カジノ構想」のたたき台となったと言われている。同年、大阪府は「大阪エンターテイメント都市構想推進検討会」を発足し、勝見氏はそのメンバーとなった。そして、2017年に大阪IR推進会議が発足すると、当然のように委員に就任し、2018年2月の第7回会議まで委員を務めた。

 しかも、依存学推進協議会の谷岡氏と勝見氏が、大阪行政のIR推進会議の委員として意見を述べていた時期は、500ドットコムがこのNPOと接触し「共同研究」をぶち上げていた時期と重なる。

 結果的には、500ドットコムが大阪のカジノ構想に食い込んだ形跡はないが、少なくともカジノ業者たちはこうして様々なルート・手段を使って、カジノ利権に食いこもうとアプローチを行なっているということだろう。そして、政治家や官僚、学者までがその誘いにホイホイのって、癒着関係を築いていく。まさに、IRはいま、原子力ムラと同じような利権の巣になろうとしているのではないか。

 メディアは疑惑の徹底追及するだけでなく、利権しか生まないIR法を即刻廃止に追い込むべきだ。


リテラ、2019.12.29 10:36
菅官房長官の右腕もIR汚職企業と関係か
内閣官房IR推進本部の事務局トップが500ドットコムCEOと仲良くシンポジウム参加

https://lite-ra.com/2019/12/post-5170.html

日本のカジノ参入を目指し、日本の複数の政治家に賄賂を渡していたとされる中国企業「500ドットコム」は、中国経済専門の筆者さえ初耳の無名企業。
その正体を探ると、日本の統合型IR事業の危うさが見えてきた

 昨年の年末、自民党の秋元司衆議院議員が収賄の疑いで東京地検に逮捕された。秋元議員がカジノを含む統合型リゾート(IR)を担当する内閣府副大臣であった時に、カジノ参入を目指す中国企業から賄賂を受け取ったという容疑である。贈賄側の中国企業「500ドットコム」は他にも国会議員5人に対して現金を渡したと供述しており、IR疑獄はさらに広がっていきそうである。

 ところで、私は「500ドットコム」という中国企業のことを今回の事件を通じて初めて知った。そもそも中国ではマカオ特別行政区を除けばカジノはおろか、競馬や競輪などの公営ギャンブルさえ存在しないので、そんな中国本土から日本でのカジノ事業に参入しようとする企業があること自体、私には驚きだった。いったいこの「500ドットコム」というのはどういう会社なのだろうか。

「500ドットコム」は中国では「500彩票網」という名前で通っており、もともとサッカーくじをネット上で販売するシステムを運営していた。中国では、中国体彩中心という公的機関によって2001年からサッカーくじ(リーグの試合の勝敗を当てる日本のtotoと同じ仕組)が発行されているが、500ドットコムの創業者である羅昭行(マンサン・ロー)氏はそれをオンラインで買えるようにしたのである。

 500ドットコムは、2008年には国家ハイテク企業に認定されるなど順調に発展してきた。2012年には、財政部からインターネットを通じたサッカーくじの販売を認められた2社のうちの1つとなり、政府のお墨付きも得た。

2年で売り上げがゼロに

 翌2013年には、セコイヤ・キャピタルの出資を受けて、ニューヨーク証券取引所に株式を上場し、IPO(新規公開株)によって8000万ドルを調達した。2014年には、FIFAワールドカップブラジル大会があったり、スマホでサッカーくじを買えるようになったりしたことで業績が大きく伸び、売上が5.8億元(100億円)、経常利益が1.6億元(27億円)とピークに達した(図=略=)。

 ところが、2015年には、売上が1億元に急落し、2016年にはほとんどゼロになってしまった。

 その原因は政府によるサッカーくじの販売に対する規制が強化されたことにある。2015年1月に、中国政府は無認可業者によってサッカーくじのオンライン販売がなされていないかどうか精査すべきだ、と各地方の政府に対して厳命したのである。500ドットコムは政府公認のオンライン販売業者であったはずだが、地方政府から次々と500ドットコムを通じたサッカーくじ販売の暫時中断を告げられた。販売再開の見通しが立たないことから、500ドットコムは、2015年4月をもってインターネットを通じたサッカーくじの販売を中止する決断をせざるをえなかった。

 この時に創業者の羅昭行氏もCEOを退き、それと入れ替わるように国有企業の紫光集団(Tsinghua Unigroup)が、16%余りの株を取得して最大の株主となった。サッカーくじのオンライン販売という事業を失った500ドットコムはここから迷走を始める。

 紫光集団は清華大学が所有する企業であり、半導体とクラウドコンピューティングを主な事業とする。携帯電話用のICチップを開発する民間企業を買収したり、フラッシュメモリの工場を新設するなど、半導体産業の強化を悲願とする中国政府の方針を体現してきた。中国では一口に国有企業といってもまるで民間企業のように自由な経営を行う国有企業もあれば、国策を体現している国有企業もあるが、紫光集団は後者の典型である。
 清華大学は習近平の出身校でもあるので、なおさら国策に寄り添っていこうという気持ちがあるのかもしれない。

 ただ、紫光集団が大株主になってからの500ドットコムは、およそ国策とは関係なさそうな分野に手を出しては失敗するということを繰り返してきた。
 500ドットコムが2015年以降手掛けた事業として、オンラインの支払いサービス、スポーツ情報サービス、商品取引、スマホのポーカーゲーム、オンラインのカジノなどがある。

オンライン・カジノが売り上げの8割超

 このうち、現時点でまだ継続しているのはオンライン・カジノ事業と商品取引だけで、特にカジノ事業は、2018年の売上1.3億元のうち8割以上を占めている。500ドットコムは、2017年にマルチ・グループ(TMG)というマルタの会社を買収してカジノ事業に参入した。TMGはヨーロッパに拠点を置き、北欧、ドイツ、イギリスなどの顧客を対象にオンラインのカジノを運営している。

 また、2018年に、500ドットコムは、中国でのサッカーくじの発行元である国家体彩中心との間で、オンラインでくじを注文し、オフライン(=売り場)でくじを買うという業務を行うという契約を結んだ。これによって、もともとの事業であるサッカーくじに復帰できる希望も少し見えてきたが、売上に対する貢献はまだ極めて小さい。

 紫光集団は2015年に、資本参加してから、次第に関与を深めており、2018年末現在、32%の株を保有し、会長も出している。
 しかし紫光集団がいったい何を考えてこのような会社に投資しているのか不明である。
 紫光集団が出資して以来、図にみるように500ドットコムの赤字は膨らむ一方である。

 500ドットコムはサッカーくじを販売していたころは借金をほとんどしない経営であったため、資産の蓄えがかなりあったが、2015年から続く赤字によって純資産をどんどん食いつぶしており、このままいくと2021年には債務超過になって経営が破綻する。

 さて、以上のような500ドットコムの経営状況を踏まえて、今回の贈収賄事件について考えてみる。

 500ドットコムが秋元議員に300万円を渡したとされるのは2017年9月であるが、それはTMGを買収したわずか2ヶ月後である。
 つまり、カジノ事業の経験がほとんどないにもかかわらず、いきなり日本でのカジノ運営を手掛けようとしたわけである。
 TMG買収を機にカジノを本業に据えることに決め、焦って事業を拡大しようとするなかで起きたのが今回の贈収賄ということなのだろう。

怪しげな業者に操られる政治家

 TMGがやっているインターネット上のカジノと、統合型リゾートの中に設置されるカジノとは、運営のノウハウもまるっきり違ったものだろうと思われる。
 しかも、500ドットコムの財務状況は大赤字である。

 つまり、統合型リゾートのカジノの運営を任せる業者を選定する際、500ドットコムはまず間違いなく書類選考で落とされそうな会社なのである。

 そんな会社が贈賄によって日本のカジノを運営していたかもしれないと思うと、統合型リゾート事業全体がきわめてうさん臭く思われてくる。

 統合型リゾートを推進している地方自治体は、日本中にざっと20以上あるが、政治家たちが変な業者に操られていないかどうか注視する必要がある。


Newsweek、2020年01月05日(日)19時50分
500ドットコムとは何者か?
丸川知雄(1964年生まれ、東京大学社会科学研究所教授)
https://www.newsweekjapan.jp/marukawa/2020/01/post-56_1.php

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2020年01月07日

三宅雪子「助けて!追われてるんです」

 分別のある高齢者たちが次々とハマった余命プロジェクトチーム『余命三年時事日記』(青林堂、2015年12月)には、いったいどんなことが書いてあるのだろうか。
 青林堂から出版された書籍版の表紙にはこうある。

<余命三年を宣告されたブロガーが、韓国や在日、サヨクが知られたくない情報を暴露。今もっとも注目される注目のブログを書籍化!>

 同書の記述などによると、2011年に「余命」の前身ブログが「日本人覚醒プロジェクト」として始まった。
 初代余命は2013年12月に死去したことになっているが、ブログ自体はその後もプロジェクトメンバーによって継続されていたという。

<記事には在日がいやがる朝鮮情報が満載である(略)彼らの蛮行残虐史がすべて網羅されている(略)行動する保守として、余命は(略)在日特権の廃止という具体的な段取りに入っている>
<余命プロジェクトチームの目標である「日本再生」のためには国内に巣食う反日売国奴の排除がどうしても必要なのである>
(書籍版から)

■「外患誘致罪」という言葉に高揚感

 読むだけで頭がクラクラしてくる。そんな中、とりわけ目を引くのが「外患誘致罪」という聞き慣れない言葉だ。

 刑法上の罪名だが過去に適用されたことは一度もない。
 なぜなら、外国と通謀して日本に対して武力行使をさせるという、およそ荒唐無稽な犯罪だからだ。
 しかも、有罪になると死刑しかないというシロモノだ。

 ところが、余命ブログにはこの言葉がやたら頻繁に出てくるのだ。

<日本と韓国は紛争状態にあるので、外患罪(外患誘致罪)の適用条件は満たされている>
<特定秘密保護法と外患誘致罪>
<売国奴に外患罪>
<赤松広隆を含む民主党(当時)幹部たちを外患誘致罪で逮捕し、極刑に処すべきではないか>

 在日外国人の地方参政権を掲げていた旧民主党と、その後継の政党は“余命氏”の最大の敵である。
「外患罪容疑者リスト」にはその流れをくむ議員の名前がずらりと並んでいる。

 現職の議員がそんなことをするはずがないし、今回の弁護士大量懲戒請求の“きっかけ”とされる朝鮮人学校の無償化に関する声明がそんな罪になるはずもない。

 しかし余命氏はこのままでは朝鮮人が日本を滅ぼすとあおる。
 高齢者を中心とするブログ読者は外患誘致罪という言葉に高揚感を覚えて「朝鮮人との闘い」という妄想に取り込まれ、余命氏が指名する弁護士らに懲戒請求してしまった。
 これは、まぎれもないヘイトクライムなのである。

 そして、もうひとつ気になるのが事件の“カルト性”だ。

 余命氏の扇動によって多くの人が盲目的に行動を起こした。
 弁護士からの和解の呼びかけも、余命氏の「応じるな」という指示で和解の動きが鈍っている。


日刊ゲンダイ、2019/05/10 06:00
高齢者はなぜネトウヨにはまるのか
高齢者がハマった問題のブログ「余命三年時事日記」の中身

(三宅雪子)
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/253485

 高齢者を中心としたネトウヨブログの読者が弁護士を大量懲戒請求した前代未聞の“事件”を追ったこの連載も最終回だ。
 2019年7月12日には大きなニュースが飛び込んできた。

<札幌の弁護士が提訴へ朝鮮学校補助停止反対で懲戒請求の道内52人>
(北海道新聞)

 不法な懲戒請求に対する新たな訴訟が提起されるというのだ。
 北海道新聞によると、札幌弁護士会に所属する弁護士3人が、人種差別を目的とした不当な請求で精神的苦痛を受けたとして、道内の請求者52人に対し、計1650万円の損害賠償を求める訴訟を札幌地裁に起こすという。

 多くの弁護士が沈黙を守る中、7人の弁護士のみが提訴に立ち上がっていた。
 そこに3人の弁護士が“参戦”するというのだ。
 さっそく原告の1人、島田度弁護士に連絡をとって話を聞いた。

「私たち3人は日頃から北海道でヘイトや差別と闘い、また闘う人たちを支援しています。そのことで狙われました。懲戒請求した人たちは社会的に責任ある立場の人だと思われます。不当なことはけっして放置できません。労働弁護団で活動を一緒にしていた嶋ア量弁護士らの姿に背中を押されました」

 弁護士の非行に対する懲戒請求は市民にとって大事な権利のひとつだが、今回は「朝鮮人が日本を支配する」などという荒唐無稽なデマを垂れ流すブログに“指示”されるまま、自分とはまったく関係のない弁護士に処分を求める請求をしたというのだから、責任は軽くない。


 すでに被告の懲戒請求者に55万円の支払いを命じる確定判決も出ている。

 裁判を続ける佐々木亮弁護士は言う。

「これまで判決が出ているものはすべて、不法行為が認定されています。読者には目を覚まして欲しい。『ネトウヨ』と呼ばれる人たちが、ここまで理屈が通じないとは思わなかった。札幌の提訴は目を覚ますきっかけになるから歓迎します」

 同じく、嶋ア弁護士はこう話す。

「訴訟を提起して、改めてこの問題の深刻さを実感しています。ネトウヨたちの最終目的は弁護士を懲戒請求で威圧し、ネトウヨが嫌悪する弁護士の人権活動を萎縮させることです。弁護士が不当懲戒請求にあらがうことは、私たち弁護士の力を必要としてくれている多くの市民の力にもなると信じています」

 懲戒請求された弁護士たちは当然ながら誰ひとり、ブログ主が言うような「日本人の敵」には見えなかった。不当なことと闘う姿勢しか感じられない。

 一連の裁判が終わった時に、社会が憎悪のない良い方に向かっていることを願うばかりだ。
(おわり)


日刊ゲンダイ、2019/07/26 06:00
高齢者はなぜネトウヨにはまるのか
弁護士3人が参戦 裁判所に「不法行為」と認定されはじめた

(三宅雪子) 
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/259070

 三宅雪子・元衆議院議員の突然の訃報に、衝撃が広がっている。
 自殺とみられ、自宅から遺書のようなものが見つかったと報じられているが、いったい何が彼女を追いこんでしまったのか。
 死の直前まで交流のあったジャーナリストの福場ひとみ氏が、彼女の知られざる落選後の人生を明かす。
* * *
 今回の訃報を聞いて愕然としてしまった。
 生前にもっと彼女の再起をサポートできればという悔いが募る。
 週刊誌の取材記者をしていた私が三宅雪子さんを取材したのは、2017年のこと。
 そのとき彼女はすでに落選していたが、議員らの政治活動に頻繁に顔を出すなど政治活動をつづけていたので当時の選挙事情にもとても詳しかった。
 以降、時々食事したり電話で情報提供を受けたりする関係だった。

 彼女に会いに行くと、自宅マンションにどうぞと案内された。
 自宅は港区一等地の閑静な住宅街にあり、広々としていた。
 労働大臣・運輸大臣・内閣官房長官を歴任した故・石田博英氏の孫で、父は外交官、生まれはワシントンD.C.。
 全盛期のフジテレビに河野景子、有賀さつきらスター女子アナの同期として入社し、小沢一郎氏の後押しを受け政治家になり、政権交代でいきなり与党議員に。
 落選したとはいえ、恵まれた境遇を歩んできたように見えた。

 通常、取材とはいえ、初対面の人物を自宅に招き入れてくれる人はめったにいない。
 ところが彼女はあっさりとリビングまで案内してくれた。
 しかも部屋着のまま、ボサボサの髪でノーメイク。
 睡眠不足なのだろうか、目は半開きで表情も虚ろだった。
 初対面にもかかわらず、無防備さをさらけ出していた。

 最初の取材の後、今度は彼女と自宅前にある高級ホテルのラウンジでお茶をすることになった。
 すると前回とは見違えるように、髪を整え、化粧をして、現役議員のころ“芸能人並みの容姿”と持て囃されていた時のようにキラキラとした姿になっていた。
 あとで彼女のツイッターを見てみると、久しぶりに美容院に行ってきたのだという。

 そのとき「実は、ルポライターとしてメディアで発信していくことを考えているんです」と相談を受け、彼女は考えてきたというアイディアを山のように話してくれた。
 現役の議員ではないにもかかわらず、彼女の得意とする厚生労働分野などの細かな動きに精通していた。
 聞くと、元国会議員の場合は煩雑な手続きなしで委員会を傍聴できるそうで、頻繁に通っているのだという。

 そして、彼女から自著や過去に書いた記事のコピーやサンプル記事、そして企画書をもらった。
 私から各種メディアに売り込んでほしいということだった。
「私の出した企画はいつも通るんです。いままで落ちたことがない、必ず通るんです」と自信たっぷりに見せてくれた。
 その後も企画を出してくれるたびに、そう言っていた。

 サンプルとして渡してくれたものひとつに「小沢一郎と私」というエッセイがあった。
 彼女の父と小沢氏との関係から始まり、自身が議員となるきっかけなどが綴られていた。
 ただ、こうした企画は「小沢ガールズ」として持て囃された時代には企画が通る場合もあったかもしれないが、旬を逸した話題を記事にすることは難しく、結局、世に出すことはできなかった。

 その後も、彼女とは時々連絡を取る関係が続いた。
 私が政治に関する漫画の監修をするといえば、自身の政治家としての経験を語ってくれるなど、最大限の協力をしてくれた。

 彼女によると、雪子という名前は、吉田茂の妻として政界から人気のあった雪子夫人にちなんだ名前であり、吉田家と交友関係のあった父からつけられたのだという。
 幼い頃から政治の世界と遠くない距離にいて、いろんな刺激を吸収してきたのだろう。
 彼女は多くを吸収する人で、多くの現役議員よりも勉強熱心だったように思う。

 彼女から発せられる言葉は力強かった。
 弱い立場の人に救いの手を差し伸べたいという政治に対する熱意を失っていなかった。
 フジテレビ同期である有賀さつきさんが亡くなった際も、残されたお子さんのことをとても心配していた。

 しかし、一方で、彼女が抱えている弱さも垣間見えた。
 彼女はインターネットで元支持者から誹謗中傷を受けていることを気に病んでいた。
「そんなことを気に留めていると精神的にもたないですよ」と言って聞き流していたが、当事者になると簡単には無視できないものなのだろう。
 彼女はネットストーカー問題の企画も多数提案してくれたが、それもなかなか企画には繋げられなかった。
 メディア関係者を直接紹介することもしたけれど、元国会議員としての発信は色がつくと敬遠され断られることもあった。

 それでも昨年2019年、彼女は自力で日刊紙の連載の機会を得たようで、嬉しそうな連絡が来た。
 そして地方議会の議員としてローカルに活動する可能性にもチャレンジしたいなどとも抱負を語っていた。

 昨年2019年11月に彼女から私に来た電話が最後だった。
「今度、要人と会うから、三宅雪子のインタビューということで、どこかのメディアでできないでしょうか?」という提案。
 私は可能性のありそうなメディアに打診してみたがいい返事は得られなかった。
 年明けくらいに編集者を紹介しますねと話したきりだった。
 彼女は「腰痛で痛い、薬を飲んでも耐えられないくらい激痛で辛い」と珍しく愚痴った。
 たまたま私もヘルニアを発症し歩けない状態だったので「たまたまですね、私もですよ」というと、そんなレベルじゃないんだと言っていた。

 落選してからの彼女は、長く暗中模索の様子だった。
 政治家として、世の中のために働きたいというエンジンがかかったまま、動かす場所を見失っていたようにみえた。
 それでも彼女はもがいていた。
 頑張ろうとしてもがいてもがいて、そしてどこかで糸が切れてしまったのだろうか。
 今はただ、冥福を祈るほかない。


[写真-1]
遺体は芝浦の海岸で見つかった

[写真-2]
2010年、採決をめぐる混乱で足を痛めたとしていた三宅氏。このアピールは当時、物議を醸した

NEWSポストセブン、2020.01.07 07:00  
三宅雪子氏
交流あったジャーナリストが明かす「暗中模索」

https://www.news-postseven.com/archives/20200107_1522557.html

「三宅雪子さんが自殺した」

 元衆院議員・三宅雪子氏(享年54)の元政策秘書からラインが来たのは、メディアが速報を打つ2時間ほど前のことだった。
 私は「ええええ!」と返すしかなかった。
 あの“不死身”の女性がなぜ――。

クローズアップされた松葉杖での国会登庁

 1月2日、三宅氏は東京都内の海岸で遺体で見つかった。
 海に飛び込んでの入水自殺と見られる。メディアに報じられたのは6日になってからだ。

 元フジテレビ社員の三宅氏は、官房長官や労働大臣を歴任した石田博英氏の孫で、小沢一郎衆院議員とは長い付き合いがあった。
 その縁で、2009年衆院選に福田康夫・元首相の群馬4区から出馬。
 比例復活ながら当選を果たし、「小沢ガールズ」と呼ばれた。

 三宅氏がクローズアップされたのは2010年5月、衆院内閣委員会の採決で与野党議員がもみ合う中、不自然なまでに派手に転倒。
 松葉杖で国会に登庁し「パフォーマンスでは?」と疑われた一件だ。
 私が初めて三宅氏に接したのは、その騒動から1ヵ月後。
 小沢氏の民主党幹事長辞任を受け、小沢ガールズがどう思うのか聞く取材のためだった。

自宅マンションの4階から転落した前夜……

 以降、私は頻繁に三宅事務所に出入りするようになった。当時、小沢氏の一挙手一投足がニュースになっていた頃で、三宅氏がズケズケと小沢氏に電話をしたり、小沢事務所に顔を出すものだから、ネタには事欠かなかった。

 そんな三宅氏が同年2010年11月、事故に見舞われる。
 自宅マンションの4階から転落し、腰椎を複雑骨折する大けがをしたのだ。

 速報を耳にした時、私はゾッとした。
 事故の前夜、酔っぱらった三宅氏から「今週、私の記事載りますか?」といった電話を受けていたためだ。
 三宅氏から暇つぶしのような電話をもらうことは珍しくなかったので、その時も私は適当な受け答えをした。
 それが引き金となって自殺を図ったのではと恐れたのだ。

 真相は、廊下の外に落ちた携帯電話を拾おうとし、中庭に落ちたとのことだったが、4階から落ちてよく命を落とさなかったものだと感心した。

 病院に見舞いに行くと、三宅氏は7時間にわたる大手術だったにも関わらず、ケロッとした様子で、資料を読んでいた。
 早く国会に戻りたいのだという。
 私は呆れたようにこう声をかけた。

「三宅さんは不死身ですね。長生きしますよ」

「ひどいじゃないですか! もう絶交です!」

 やがて小沢氏は民主党を離党、「国民の生活が第一」などを結党していき、三宅氏は当然のように行動をともにした。
 2012年衆院選で、三宅氏はいわば小沢氏の“鉄砲玉”となり、野田佳彦首相(当時)の千葉4区へ国替えする。
 週刊誌なのでスクープとはならなかったが、いち早くその情報も教えてくれた。

 ただ苦戦を強いられ、『週刊文春』恒例の選挙予測では、三宅氏は劣勢を示す「無印」。

 それを読んだ三宅氏は激怒。
 私に電話でこうまくしたてた。

「ひどいじゃないですか! 情勢調査では結構いい線行ってるんですよ。もう絶交です!」

 結果は、比例復活もできない惨敗だった。

 議員バッジを外した三宅氏は、その後も何食わぬ様子で電話をしてきて、「絶交」とはならなかった。

 三宅氏はいわゆるバブル世代。
 豪勢な食事が好きだろうと、慰労をかねてレストランに招待しようとすると、「安いところにしてください」と店に頓着しなかった。
 大けがの経験からか、酒も呑まなかった。

 一方で議員時代から内包していた「面倒くささ」は加速していった。

 暇を持て余しているのだろう。
 電話が長い。
 こちらが電話をしていい状況か聞くこともなく、突然本題に入る。
「いいネタがあるんですけど」と切り出すので、話は聞くが、たいていネット情報だ。
 30分ほど、一方的に話されたこともある。

 朝8時ごろに電話がかかってくることもあった。
「朝5時には起きてるから、これでも待ってから掛けてるんですよ」と悪びれる様子はない。

国政復帰への並々ならぬ執念を感じた

 とりわけ2015年4月、小沢氏率いる「生活の党」から離党する時は、私に延々と“被害”を訴えた。

「小沢さんは悪くないが、周りの秘書が悪い。私はブロックされている。小沢さんは騙されているんですよ」

「小沢さんの支持者からツイッターで脅されている。殺人予告もされています。これ記事にして、止めてもらえませんか」

 その頃から「被害者妄想」の傾向が出てきたように感じる。

「ストーカーに遭っているんです。これ、いずれ大事件になるから文春さんは取材すべきですよ」

 あげくに夜、泣きそうな声で「助けて! 追われてるんです」と電話をしてきたことがあった。
「警察に言った方がいいですよ」と応じると、「そうですか……」と悲しそうに切るのだった。

 昨年2019年夏の参院選では立憲民主党からの出馬を模索していたようだ。
 それはかなわなかったが、その反動からか、ある公認候補の悪口を言ってくるようになった。

「〇〇さんはとんでもない詐欺師。よく枝野(幸男・立憲代表)さんが許しましたね。あの人は取り入るのがうまいから、どうせ汚い手を使って公認とったんでしょう。なんで記事にしないんですか」

 私が最後に三宅氏を見かけたのは、昨年2019年7月の参院選最終日、立憲民主党の塩村文夏氏の演説会場でのこと。
 三宅氏は応援団を買って出たようで、スマホで演説の様子を撮りまくっていた。
 国政復帰への並々ならぬ執念を感じた。
 その悲壮感漂う姿に、私は声をかけることができなかった。

 2018年1月に亡くなったアナウンサーの有賀さつきとはフジテレビの同期で、若い頃はよく連れ立って、ゴルフなどに興じていたという。
 今頃、有賀氏と再会しているだろうか。


[写真-1]
2009年9月16日、初登院し、議員バッジを着けてもらう民主党(当時)の三宅雪子氏

[写真-2]
2012年7月、衆院予算委員会で、野田首相に質問する「国民の生活が第一」の三宅氏

[写真-3]
2013年7月、生活の党から比例代表で立候補し、街頭演説する三宅氏

週刊文春、2020年1月6日
入水自殺・三宅雪子
「助けて! 追われてるんです」ある晩、文春記者にかかってきた電話
あの“不死身”の女性がなぜ――

和田 泰明(週刊文春記者)
https://bunshun.jp/articles/-/24273

・・・三宅雪子さんは昨年2019年9月に電話で話した時、SNS上の誹謗中傷、不特定多数からの悪罵、言葉の暴力に悩んでいると話されていた。想像しかできないが、他にも計り知れない不安や悩み、否定され続けることに疲れ果ててしまったのではないか、と思う。今はただただ安らかに休んでほしい・・・

posted by fom_club at 20:44| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする